パラリンピック日本人最年長金メダリスト杉浦佳子さん 自転車事故による認知障害で記憶失っても「残っていた感情」
今夏、パリで開催されたパラリンピックの自転車競技女子個人ロードレース。運動機能障害のクラスで、2大会連続金メダルに輝いた杉浦佳子選手(53・総合メディカル)。
レースでは壮絶なデッドヒートを制し、先頭でゴールを走り抜けた。大会直前まで取り組んだ、標高1200mの山奥での過酷な高地トレーニングが実を結んだ瞬間だった。53歳での金メダル獲得は日本人最年長という快挙。そんな彼女だが、幼少期のころは、「一人でお絵描きをしたり、本を読んでいるのが好きな子供だった」と話す。
杉浦さんは’70年(昭和45年)12月26日、静岡県掛川市に生まれた。
「実家は代々の薬種商、いわゆる町の薬屋さんでした。私の曽祖母の代からで、祖母は産婆さんもしていました」
地元の小中学校を経て、掛川西高校へ。高校卒業後、薬剤師を目指すというのは、ごく自然な流れだった。
「近所の人から『薬屋さんを継ぐんだよね』と言われていたし、自分も母たちが周囲から信頼されている姿を見て育ちましたから」
仙台市の東北薬科大学(現・東北医科薬科大学)へ進学するも、1年足らずで中退してしまう。高校時代の同級生との間に子供を授かり、『専業主婦になろう』と大学を辞めたのだ。やがて、東京で親子3人の生活が始まる。
「私は無職、彼は大学生のままで親の仕送りに頼る生活だったので、とにかく食べていくだけで大変。パン屋さんでサンドイッチを1個買い、あとはサービス品のパンの耳をどっさりもらうんです。ああ、これで朝食だけは1週間しのげると思っていたら、店の人が『これはペット用にあげてるんだよ。床に落ちたパンも入ってるからね。まさか人間が食べてないよね?』なんて言われて、ドキッとしたり、まだおなかは壊してないと安心したり(笑)」
それで、自分も働こうと決心したというが、
「高卒で何の資格もなく、赤ん坊の世話をしてくれる親も近くにいない。そんな若い母親が働ける場所は東京にありませんでした。そこで、まず資格を取ろうと、改めて薬剤師を目指したんです」
乳児を育てながら、受験勉強を始めた。
「乳飲み子の子育てと勉強とで、いっぱいいっぱいの生活でした。ですが、子供が寝たときにしか勉強できないと思うと逆に集中できて、むしろ高校時代より偏差値が20も上がったんです。無事に北里大学薬学部に合格して保育園を探すのですが、入園条件の一つが親の就労でしたから、学生の私は相手にされず、どの保育園でも門前払いに。最後にはうちの母も一緒になって役所にかけ合ってくれて、なんとか入園できましたが」
社会の壁は、大学を卒業してからも、なお高かった。
「今度は、幼い子供がいるということでなかなか就職先が決まりません。苦労の末、ようやくある薬局チェーンに入れました。ちょうど訪問看護が広がっていた時期で、私が提案して、ご自宅に薬を届ける訪問薬剤師として活動しました。
患者さんや家族の方から『ありがとう』と言われるたびに、薬剤師の仕事には大きなやりがいを感じていましたね」
大学を出た夫もIT関連の会社に勤務するようになり、ようやく生活も安定してきた。そんな、ある日のことだった。
「28歳のときです。ふと気づいたら、自分の二の腕がプル~ンと垂れ下がっていて。さすがにまずいと思って通い始めたスポーツジムに、フルマラソンの参加者募集ポスターがはってあって、これだ! と思ったんです」
20代最後の記念で出場した初フルマラソンを、完走ならぬ“完歩”。これがいい思い出になり、年代ごとに一つのスポーツをやろうと考えた。次の目標には有名な宮古島トライアスロンを据え、30代での目標となったそうだ。
長女出産を経て、トライアスロンへの挑戦が再び始まるのは、30代半ばのこと。
「近所の自転車ショップで出会ったコーチに練習メニューを組んでもらって、スイミングにも通うようになりました」
気がつけば、主婦業、子育て、薬剤師、トレーニングと、超ハードスケジュールの日々に。
「4時50分に起きて、まず洗濯機を回し、前夜に下ごしらえしておいたおかずを詰めて子供の“キャラ弁”を作り、6時10分からの早朝スイミングへ。帰宅して洗濯物を干して子供たちを送り出すと、8時30分の薬局のオープンにダッシュで駆け込むんです」
宮古島トライアスロンを完走して、30代の目標を達成したのが38歳のとき。そして、
「トライアスロン仲間から、自転車の実業団チームに誘われたのが45歳。これが、私のロードレースの始まりです。
その後は、どんどんタイムも伸びて競技会に参加するようになったのですが、わずか2度目のレースで転倒してしまうんです」
’16年4月、静岡県で行われたレース中に落車事故を起こして、脳挫傷やくも膜下出血、頭蓋骨と鎖骨の粉砕骨折に加えて、三半規管損傷の大けがなどで意識不明となり、ICU(集中治療室)へ。
家族には、「この先、自転車に乗ることはおろか、一生、施設暮らしでしょう」との告知もあった。
「1週間後に目覚めたとき、その間の記憶がまるまる飛んでいることに気づきます。最後の記憶は、レースのスタート前に、隣の選手と『頑張ろうね』と言い合ったことでした」
やがて、高次脳機能障害と右半身まひとの診断が下された。高次脳機能障害とは、事故などのダメージにより記憶や言語、感情などのコントロールが利かなくなる認知障害をいう。外見では判別しにくく、社会の理解を得られにくい障害としても知られる。
「認知機能テストで、物の名前を3つ聞かされ、その直後に、たった3つなのに思い出せずにショックを受けました」
3週間後に、リハビリ専門病院へと転院。
「言語聴覚士さんについてもらい、小学生レベルの漢字や計算ドリル、クロスワードなどに取り組みました。ありがたかったのは、友人が薬剤名の“お薬クイズ”や、昔住んでいたところの写真を毎日のようにスマホで送ってくれたこと。
その写真も、最初は『どこだろう』としか思えなかったのが、見続けているうちに、頭の中でシナプス(神経細胞の接点)がつながる感覚があって、徐々に思い出していけたんです。
最初は人の言葉も単なる音にしか聞こえず、毎日のように取り扱っていた薬のロキソニンすら忘れていた状態から、少しずつ回復していきました」
その後も、理学療法士のサポートなどで、ほとんど動かなかった右半身も順調に回復。5週間後に退院となった、その当日のこと。
「右手での家事はまだできませんでしたから、退院の日にはチルドの餃子を買って帰りました。でも、作り方がわからず、キッチンに立ち尽くしてしまったんです。
どうしても、考えてしまうんですね。事故に遭ったことを悲しむというより、重い障害を負ったことで、多くの人に心配と迷惑をかけたこと。どうせなら、あのまま死んだほうがよかったのに、とも」
そんなとき、気分転換に出かけた河原でのこと。
「ふと、野に咲く花を見てきれいだなと思ったんです。それまでは花に目をくれるようなタイプではなかったのに。そのとき、『そうか、私もこれから道端の花でいいから太陽の下で生きていこう』と、そう思えたんです」
7月には、薬局での仕事に復帰も果たした。
「復職にあたっては、障害がネックになり、いくつも面接を受けました。幸い、あるドラッグストアの社長さんが『患者さんの気持ちがわかるあなたのような人に働いてほしい』と言ってくれて。同時に、また自転車に乗りたいという思いがどんどん募ってきました」
死と隣り合わせの大事故に遭いながら、再び自転車に乗ることへの恐怖心はなかったのだろうか。
「よく聞かれることですが、事故の瞬間の記憶がありませんから、そのぶん恐怖心もなかったというのが正直なところです。理学療法士さんたちとエアロバイクでのリハビリを行ったとき、落ち込んでいる気持ちがスーッと晴れる体験をしたんです。やっぱり、自転車は楽しいんですよ。認知障害で多くの記憶を失っても、自転車は楽しい、仕事は好き、という感情は残っていたんですね」
その体験から、薬剤師という仕事柄もあって気づいたことがある。
「日本は高齢社会で、認知症の方も多いですよね。でも、家族や介護の方には、『どうせわからない』と決めつけて、話しかけるのをやめないでほしいんです。
私もそうでしたが、本人は、意味はわからなくても『この人といるのは楽しい』『なんだか好き』、といった根っこの感情は必ず残っているのですから」
「自転車は楽しい――」、たしかに残されていた思いが、彼女をパラサイクリングへの挑戦へと駆り立て、前人未到の記録へと導いたのだった。
懸命なトレーニングを経て、東京パラリンピックでは4種目に出場し、2種目で金メダル。そして、「金メダルを取らなければ即引退」と臨んだパリ大会で見事連覇をはたした。
快挙達成後、現在は2人の孫がいるという彼女のことを、競技仲間やファンは「ナイス・グランマ」と称えた。
(取材・文:堀ノ内雅一)
10/27 11:00
女性自身