『ルイーズ・ブルジョワ展』森美術館で開催中 自身のトラウマ的体験を芸術へと昇華させた作家の葛藤の軌跡

六本木ヒルズのランドマークでもある、卵を抱いた巨大な蜘蛛の彫刻。その作者の回顧展『ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 行っとくけど、素晴らしかったわ』が、2025年1月19日(日) まで森美術館で開催中だ。幼少期からのトラウマ的な体験を、神話や寓話的な世界観につながる普遍的なアートへと昇華させた20世紀を代表するアーティストのひとりである。副題「地獄から帰ってきたところ 行っとくけど、素晴らしかったわ」は、夫の遺品であるハンカチに言葉を刺繍した作品から付けられた。

ルイーズ・ブルジョワ《ママン》1999/2002年 所蔵:森ビル株式会社(東京)

《無題(地獄から帰ってきたところ)》1996年 撮影:Christopher Burke (C) The Easton Foundation/Licensed by JASPAR, Tokyo, and VAGA at Artists Rights Society (ARS), New York

自らを「サバイバー」と呼ぶブルジョワは、1911年、パリでタペストリーの画廊と修復工房を営む家に生まれ、2010年、98歳でニューヨークにて没した。アート界の評価が白人男性優位だった時代でもあり、70歳でようやくニューヨーク近代美術館での個展が実現。没後も世界の主要な美術館で展覧会が開かれ、今回の回顧展は日本では27年ぶりとなる。2023年から2024年にかけてシドニーのニュー・サウス・ウェールズ州立美術館で開催された大規模な個展の一部にニューヨーク、日本などから作品を加えて再構成した。森美術館の後、台湾に巡回する。

自身の版画作品《聖セバスティアヌス》(1992年)の前に立つルイーズ・ブルジョワ。ブルックリンのスタジオにて。1993年 撮影:Philipp Hugues Bonan 画像提供:イーストン財団(ニューヨーク)

同展は、ブルジョワの創造の源泉である家族や親しい人との人間関係をテーマとした3章と、その間に2つのコラムを挟んで構成。愛や孤独などの感情、身体性、セクシュアリティ、ジェンダーなどを主題としたインスタレーション、彫刻、絵画など106点で全貌に迫る。森美術館キュレーターの椿玲子と矢作学が企画し、イーストン財団キュレーターのフィリップ・ララット=スミスが企画監修を務めた。

弟1章「私を見捨てないで」では、特に母に見捨てられることへの不安に苦しんだブルジョワが、母性の複雑さを表現した作品をたどる。父の不倫を黙認した母。20歳のとき、スペイン風邪に罹患して以来介護していた母が死去し、川への投身自殺を図るが父に助けられる。アート制作を始めたのは、自らの感情と向き合うためだった。《かまえる蜘蛛》の威嚇する姿は、我が子を外敵から保護すると同時に、脅かす存在にもなる「母性」を表す。

《かまえる蜘蛛》2003年 展示風景:「ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」森美術館(東京)2024年 撮影:長谷川健太 (C) The Easton Foundation/Licensed by JASPAR, Tokyo, and VAGA at Artists Rights Society (ARS), New York, 2024.

一方、乳房から5本の糸を垂らす布製の人形は、惜しみなく愛情を与える母を象徴する。ブルジョワは1938年、パリでアメリカ人美術史家ロバート・ゴールドウォーターと結婚しニューヨークに移住。フランスの家族とアメリカで自ら築いた家族の双方、父と母、3人の子どもからなる5人家族だった。

《良い母》(部分)2003年 撮影:Christopher Burke (C) The Easton Foundation/Licensed by JASPAR, Tokyo, and VAGA at Artists Rights Society (ARS), New York

また、苦悩ばかりでなく、信頼と愛の大切さも知っていく。互いの渦に引き込まれそうになりながらも支え合う《カップル》、定時にスタジオに出勤してくる助手への信頼を表す《午前10時にあなたはやってくる》では、安定的な他者との交わりに救いを見出している。

《カップル》2003年(手前)、《午前10時にあなたはやってくる》2007年 。展示風景:「ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」森美術館(東京)2024年 撮影:長谷川健太 (C) The Easton Foundation/Licensed by JASPAR, Tokyo, and VAGA at Artists Rights Society (ARS), New York, 2024.

第2章「地獄から帰ってきたところ」では、支配的で不誠実な父への愛憎が語られる。1951年の父の没後、精神分析を通じて、父をはじめ近しい人々への複雑な感情が自作に影響を与えていることに気づく。《父の破壊》では、家父長的で横柄な父を子どもと母が殺して食卓で食べてしまうという幻想を表現。自縛ともなる憎しみや攻撃性を作品という形で消化していく。

《父の破壊》1974年 所蔵:グレンストーン美術館(米国メリーランド州ポトマック) 撮影:Ron Amstutz (C) The Easton Foundation/Licensed by JASPAR, Tokyo, and VAGA at Artists Rights Society (ARS), New York

第3章「青空の修復」では、ブルジョワが芸術活動を通していかに意識と無意識、母性と父性、過去と現在とのバランスを整えようとしたかを見つめる。晩年には、家族や親しかった人々との関係を修復する方法などを模索し続けた。

《雲と洞窟》1982-1989年 所蔵:イーストン財団(ニューヨーク) Courtesy: Kunstmuseum Den Haag, the Netherlands 展示風景:「ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」森美術館(東京)2024年 撮影:長谷川健太 (C) The Easton Foundation/Licensed by JASPAR, Tokyo, and VAGA at Artists Rights Society (ARS), New York, 2024.

《トピアリーⅣ》1999年 撮影:Christopher Burke (C) The Easton Foundation/Licensed by JASPAR, Tokyo, and VAGA at Artists Rights Society (ARS), New York

間の2つのコラムにも触れておきたい。コラム1「堕ちた女―初期の絵画と彫刻」では、アメリカでの最初の10年に制作した絵画や彫刻を紹介。コラム2「無意識の風景」では60年代の彫刻作品を中心に紹介している。この頃には樹脂・石膏・ラテックスなど柔らかい素材、水平性、有機的で抽象的な作風が特徴となる。同時代のミニマリズムに迎合せず、無意識や感情に形を与える隠れ家や巣のような造形も見られる。

キュレーターのひとり、矢作は「ブルジョワは苦しみから完全に解放され、過去のトラウマを完全に治癒できるとは信じていなかったようです。何度も繰り返し不安や恐怖など心の痛みに立ち戻りながら、自身の感情と記憶を芸術の域まで高めたのです」と語る。

思えばNHK朝の連続テレビ小説『虎に翼』で、主人公の寅子が生涯を賭けた法の世界も「地獄」に喩えられていた。戦争や災害、パンデミックなど、さまざまな課題に直面する現代。身近な家庭問題と世界情勢のはざまで、そう易々と楽園は見つからない。ブルジョワでさえ「地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」と笑えるまでに70年もかかったのだ。その都度もがきながらも、なんとか生き抜く杖となったのがアートだった。勇気がふつふつと湧いてくる展覧会だ。

取材・文:白坂由里

<開催概要>
『ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ』

2024年9月25日(水)~2025年1月19日(日)、森美術館にて開催
※事前予約可(日時指定券)

公式サイト:
https://www.mori.art.museum/jp/

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