「絶対無理」と反対されても、鈴木敏文はなぜコンビニを諦めなかったのか

写真提供:ZUMA Press/共同通信社

 1970年代に「セブン-イレブン」を立ち上げ、業界ナンバーワンに育て上げた鈴木敏文氏。一方、「100円ショップダイソー」で100円ショップの草分けとなった大創産業の創業者である矢野博丈氏。小売業の新分野を切り拓いた2人は、大学の先輩・後輩であり、長年の親交があった。本連載では、『一生学べる仕事力大全』(藤尾秀昭監修/致知出版社)に掲載された対談「不可能を可能に変える経営哲学」から内容の一部を抜粋・再編集し、両氏によるビジネスと経営についての対話を紹介する。

 第2回は、矢野氏がダイソー、鈴木氏がセブン-イレブンを立ち上げるまでの苦労を語り合う。

<連載ラインアップ>
第1回 “コンビニの父”鈴木敏文が感心した100円ショップの誕生秘話とは?
■第2回 「絶対無理」と反対されても、鈴木敏文はなぜコンビニを諦めなかったのか(本稿)
第3回 “素人集団”だったセブン-イレブン・ジャパンが成長し続けた理由とは?
第4回 ダイソー創業者は、なぜ新入社員に「人生は運だ」と言い続けたのか
■第5回 「おいしくない」6000万円分の商品を廃棄した鈴木敏文の強烈なこだわりとは?(7月5日公開)

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26歳で借金、夜逃げ、転職地獄…

一生学べる仕事力大全』(致知出版社)

鈴木 そういう思いに至った原点は何だろうか?

矢野 私は学生時代に結婚して、大学を出てすぐ女房の実家へ行ったんですよ。尾道(おのみち)で当時70坪の魚屋を3つ経営していて、従業員も60人くらいおる会社でした。義父がやり始めた養殖業を引き継いだんですが、2年半後に700万円の借金を背負いましてね。このままやっていたら一生浮き上がれんなと思うて、26歳の時に、女房と小さな子供を連れて東京へ夜逃げしたんです。

 その後は、もう地獄でしてね。百科事典の訪問販売をやったんですが、全(まった)く売れなくて、30人中27番。ちり紙交換の仕事とか、いろいろやりましたけど、何をやってもダメで、結局9回も転職しました。義兄が経営するボウリング場を手伝ったものの、そこも倒産してしまったんです。その時にこう思いました。俺は運命の女神(めがみ)に嫌われているんだって。

鈴木 でも、それをずっと乗り越えてやってきたバイタリティーは大したものだ。

矢野 バイタリティーじゃなくて諦(あきら)めですよ。俺の人生、夜逃げで終わったなと。運は最低だから、一所懸命に働いて飯さえ食えれば満足だと。欲がゼロでした。

 それで1972年、29歳の時に雑貨の移動販売を行う矢野商店を広島で創業し、5年後に大創産業を設立して100円均一の移動販売を始めたんです。あの頃は毎日朝5時から売りに出掛け、帰ってくるのは夜11時、12時。もう生きることに精いっぱいでしたね。

鈴木 資金調達はどうしたの?

矢野 僕の親父もきょうだいも医者だったんで、もう兄貴たちのところへ行っては、「50万円貸してください」「300万円貸してください」って平身低頭して借りていました。借金を踏み倒して夜逃げした身ですから、本当は一生家族に合わす顔がないんですけど、兄貴たちが貸してくれるんでね。講演でこの話をするといつも涙が出るんです。

鈴木 立派なごきょうだいだね。

矢野 この間、『カンブリア宮殿』に兄貴も出演して、「なんで貸したんですか」って司会者が聞いたら、「だって弟って可愛(かわい)いじゃないですか。子供と一緒ですよ」と言うてました。あの頃、兄貴たちに優しくしてもらったことはいまでも感謝しています。

誰も賛成しなかったコンビニ事業

矢野 鈴木会長がコンビニを日本に持ってこられたのも、当時誰も考えない発想でしたよね。

鈴木 私は1963年、30歳の時にヨーカ堂(現・イトーヨーカ堂)に入社したのですが、当時はヨーカドーのような大型スーパーを出店しようとすると、商店街の人たちから非常に反対されました。商店街に出向いてぜひお仲間入りさせていただきたいと挨拶しても、「商店街を潰(つぶ)す気か」って喧嘩腰(けんかごし)に言われるわけですよ。

 で、いろいろ考えて、商店街がダメになるのは大型店が出店するだけではないと。もちろんその影響もあるんでしょうけど、時代がこれだけ変わっているのに、従来のままでやっている。私のモットーは「変化対応」ですが、その変化対応が全くできていない。

 やっぱり小売店を時代の変化に対応させていかなきゃいけない。共存共栄していくべきだと考えましてね。そんな時、流通先進国であるアメリカの最新事業を学ぶために、何人かの社員で研修に行くことになって、私もその1人として加わりました。ちょうど40歳の時です。そこでコンビニエンスストアというものを見ましてね。それをヒントにして日本でやろうということになったんです。

矢野 何が決め手でしたか?

鈴木 ショッピングセンターを視察する目的で、サンフランシスコからロサンゼルスまでバスで移動する途中、たまたまトイレ休憩に立ち寄ったのがセブン-イレブンでした。スーパーを小型にしたような店で雑貨や食品がいろいろ並んでいる。ただ、その時は「アメリカにもこんな店があるのか」という程度の印象でしかなかった。

 帰国後しばらくして、アメリカの商業の実態をいろんな面で調べてみたら、日本よりも遥(はる)かに大型店が普及し、競争の激しいアメリカで、セブン-イレブンは4000店舗もチェーン展開していたんです。驚きと共に、これを日本で適応することができれば、大型店と小型店の共存共栄のモデルを示せるはずだという可能性を感じた。そこからすべてが始まったわけです。

矢野 偶然の出逢いを生かされた。

鈴木 けれども、この案には相当反対がありましてね。当時社長だった伊藤雅俊(取材当時はセブン&アイ・ホールディングス名誉会長)をはじめとして、ダイエーの中内㓛(いさお)さんや西武の堤清二(せいじ)さん、コンサルタントの先生方、誰も賛成しない。日本では絶対無理だと。

 だけど、それらをよく聞くと、過去の経験に基づいた反対論ばかりで、未来の可能性は過去の論理では否定できないだろうと生意気にも思ったんです。で、私があんまりしつこく言うものですから、伊藤社長も「それじゃあ実験的にやってみたら」と応じてくれたのがきっかけです。

矢野 鈴木会長の熱意にほだされたのでしょうね。

 

写真提供:共同通信社

鈴木敏文(すずき・としふみ)
1932年長野県生まれ。1956年中央大学経済学部卒業後、東京出版販売(現・トーハン)に入社。1963年ヨーカ堂(現・イトーヨーカ堂)に転職。1973年セブンーイレブン・ジャパンを設立し、コンビニエンスストアを全国に広め、日本一の流通グループとして今日まで流通業界を牽引する。2003年イトーヨーカ堂及びセブンーイレブン・ジャパン会長兼CEO就任。同年、勲一等瑞宝章受章、中央大学名誉博士学位授与。2016年5月名誉顧問。

矢野博丈(やの・ひろたけ)
1943年天津生まれ。1966年中央大学理工学部卒業。学生結婚した妻の家業を継いだものの、3年足らずで倒産。その後、9回の転職を重ね、1972年雑貨の移動販売を行う矢野商店を夫婦で創業。1977年大創産業設立。1987年「100円SHOPダイソー」1号店が誕生する。1991年初の直営店を香川県高松市にオープン。1999年売上高1000億円を突破。2000年『企業家俱楽部』主催の『年間優秀企業家賞』を受賞。2018年売上高4548億円で業界シェア56%の業界トップ企業である。2018年3月同会長。2024年2月に死去。

<連載ラインアップ>
第1回 “コンビニの父”鈴木敏文が感心した100円ショップの誕生秘話とは?
■第2回 「絶対無理」と反対されても、鈴木敏文はなぜコンビニを諦めなかったのか(本稿)
第3回 “素人集団”だったセブン-イレブン・ジャパンが成長し続けた理由とは?
第4回 ダイソー創業者は、なぜ新入社員に「人生は運だ」と言い続けたのか
■第5回 「おいしくない」6000万円分の商品を廃棄した鈴木敏文の強烈なこだわりとは?(7月5日公開)

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