“素人集団”だったセブン-イレブン・ジャパンが成長し続けた理由とは?

写真提供:ZUMA Press/共同通信社

 1970年代に「セブン-イレブン」を立ち上げ、業界ナンバーワンに育て上げた鈴木敏文氏。一方、「100円ショップダイソー」で100円ショップの草分けとなった大創産業の創業者である矢野博丈氏。小売業の新分野を切り拓いた2人は、大学の先輩・後輩であり、長年の親交があった。本連載では、『一生学べる仕事力大全』(藤尾秀昭監修/致知出版社)に掲載された対談「不可能を可能に変える経営哲学」から内容の一部を抜粋・再編集し、両氏によるビジネスと経営についての対話を紹介する。

 第3回は、アメリカ本社とのライセンスをめぐる交渉、セブン-イレブン1号店ができた当時の挑戦と苦労について振り返る。

<連載ラインアップ>
第1回 “コンビニの父”鈴木敏文が感心した100円ショップの誕生秘話とは?
第2回 「絶対無理」と反対されても、鈴木敏文はなぜコンビニを諦めなかったのか
■第3回 “素人集団”だったセブン-イレブン・ジャパンが成長し続けた理由とは?(本稿)
第4回 ダイソー創業者は、なぜ新入社員に「人生は運だ」と言い続けたのか
■第5回 「おいしくない」6000万円分の商品を廃棄した鈴木敏文の強烈なこだわりとは?(7月5日公開)

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アメリカ本社との難交渉を突破した奇策

一生学べる仕事力大全』(致知出版社)

鈴木 まずはノウハウを取得しないことには始まらないので、アメリカの運営元であるサウスランド社と交渉に当たりましたが、非常に難儀しました。向こうはそもそも日本となんか提携する気がないので、吹っ掛けてくるわけですよ。1年に何百店舗出さなきゃいけないとか。で、最後の最後まで揉(も)めたのがロイヤリティの率です。

 向こうは売上高に対して1%のロイヤリティを取ると。カナダでも1%でやっているから、日本だけ例外を認めるわけにはいかないと言う。ただ、私は日本でやった場合にせいぜい2~3%しか利益は上がらないから、ロイヤリティを1%も出すわけにはいかない。0.5%だと主張する。互いに譲らず、ゴールが見えませんでした。

矢野 その交渉をどうやってまとめていかれたのですか?

鈴木 どんなに巧(たく)みな話術を駆使しても、率をテーマにしている限りは解決できないと考えて、こう提案したんです。

「提携によってあなた方のライセンス収入が大きくなることが本来の目的です。そのためには、我われが健全な経営をし、売上高を伸ばしていく必要があります。たとえロイヤリティの率を低くしても、日本で成功すれば最終的に額は上がっていきます。だから、率を上げるよりも額を上げるという考え方をしてはいかがですか」

ライセンス収入:著作物や商標の権利を持つ側(ライセンサー)が、その使用を第三者(ライセンシー)に許可することで得る利益。

 そうやって自分たちの利益や言い分を前面に押し出すのではなく、相手の立場で考え、相手のメリットを説くようにしたことで、結局サウスランド社が大きく譲歩し、0.6%で合意に至りました。

矢野 相手の立場で考えた提案をしたから説得できたと。

素人集団だったからうまくいった

鈴木 で、ライセンス料を支払って提携したら、分厚い経営マニュアル書が27冊あると。これを全部翻訳して読んだんですけど、どうってことないんですよ。要するに清掃の仕方とかレジの打ち方とか、店舗運営の入門書のような内容ばかりで、特別な経営ノウハウは何もない。さて、困ったと。皆の反対を押し切ってスタートした手前、もう引き返すわけにいきませんから、試行錯誤で仕組みづくりを始めたんですね。

 当時私はヨーカ堂の人事部長をやっていて、一緒にコンビニ事業を立ち上げる社員を募(つの)ったのですが、1人も希望者がいないんです。しょうがないから新聞の求人広告を出した。そうしたら、自衛隊のパイロットだとか経営コンサルタントだとかパン屋の営業だとか、流通とは全く関係のない人たちが10人ばかり集まって、1973年セブン-イレブン・ジャパンが設立されたんです。

矢野 全員が流通に関しては素人だったのですね。

鈴木 だけど、いま考えてみると、皆が流通のことを何も知らなかったからよかったんです。知っていたら、日本の流通はああだこうだと言ったと思うんですけど、私自身も営業の経験がなく、もともとは取次(とりつぎ)大手の東京出版販売(現・トーハン)にいましたので、既存の流通の常識や商習慣に囚(とら)われず挑戦することができました。

トーハン:出版社と書店、読者を結ぶ出版流通ネットワークを構築する取次会社。

 一例を挙げると、当時はどの商品も問屋(とんや)から大ロットで仕入れ、在庫がなくならないと次の仕入れができなかったんです。この問題を解決すべく、皆で問屋を1軒ずつ回って何度も粘り強く交渉し、小ロットの配送という、それまでの業界の常識とは相容(あいい)れない画期的な方法を実現しました。

 また、当時はメーカーや問屋がそれぞれ独自に配送していたので、1日70台以上のトラックが納品に来ていたんです。これでは1日中対応に追われてしまう。そこで、担当メーカーが地域別に他社の製品を混載する共同配送というものも生み出しました。

矢野 初めてセブン-イレブンに行った時は、正直言ってこれは難しいだろうなと思いましたけど、どんどん進化されましたよね。

鈴木 1974年に東京の豊洲にオープンした1号店は、当初利益が出なくて苦しみましたが、いま話したように当時の常識を1つひとつ覆(くつがえ)して改革していくことで、徐々に軌道に乗り、店舗を増やしていったんです。そうしたらあれだけ無理だと言われていた中内さんも堤さんも、コンビニをお始めになりましたからね。

 

写真提供:共同通信社

鈴木敏文(すずき・としふみ)
1932年長野県生まれ。1956年中央大学経済学部卒業後、東京出版販売(現・トーハン)に入社。1963年ヨーカ堂(現・イトーヨーカ堂)に転職。1973年セブンーイレブン・ジャパンを設立し、コンビニエンスストアを全国に広め、日本一の流通グループとして今日まで流通業界を牽引する。2003年イトーヨーカ堂及びセブンーイレブン・ジャパン会長兼CEO就任。同年、勲一等瑞宝章受章、中央大学名誉博士学位授与。2016年5月名誉顧問。

矢野博丈(やの・ひろたけ)
1943年天津生まれ。1966年中央大学理工学部卒業。学生結婚した妻の家業を継いだものの、3年足らずで倒産。その後、9回の転職を重ね、1972年雑貨の移動販売を行う矢野商店を夫婦で創業。1977年大創産業設立。1987年「100円SHOPダイソー」1号店が誕生する。1991年初の直営店を香川県高松市にオープン。1999年売上高1000億円を突破。2000年『企業家俱楽部』主催の『年間優秀企業家賞』を受賞。2018年売上高4548億円で業界シェア56%の業界トップ企業である。2018年3月同会長。2024年2月に死去。

<連載ラインアップ>
第1回 “コンビニの父”鈴木敏文が感心した100円ショップの誕生秘話とは?
第2回 「絶対無理」と反対されても、鈴木敏文はなぜコンビニを諦めなかったのか
■第3回 “素人集団”だったセブン-イレブン・ジャパンが成長し続けた理由とは?(本稿)
第4回 ダイソー創業者は、なぜ新入社員に「人生は運だ」と言い続けたのか
■第5回 「おいしくない」6000万円分の商品を廃棄した鈴木敏文の強烈なこだわりとは?(7月5日公開)

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