国語デキない人「文章力上げる」たった1つのコツ

辻宗孝 西大和学園

(画像:東大・カルペディエム作成)
「文章を書くのが苦手」「何を書いていいかわからない」。そんな悩みを抱く人も多いのではないでしょうか。『一度読んだら絶対に忘れない文章術の教科書』を上梓した辻孝宗先生は、毎年東大合格ランキング上位に入る、全国屈指の難関校・西大和学園で国語を教えています。辻先生が文章書くのが苦手な人でも、書けるようになるためのコツをお話しします。

「国語の授業の存在意義とは何か?」

私はよく、生徒たちに国語を教えながら、この疑問について考えています。

多くの人は国語の授業で、言葉や漢字の勉強をしたり、昔読まれていた文章を読んだり、国語の入試問題を解いたりしてきたことでしょう。

そんな中で、生徒が国語の授業を通してどんな能力を身に付けることができれば、大人になってからも「国語の授業は意味のあるものだった」と思ってもらえる機会が多くなるのだろうか、と。

国語は「問いの技術を磨くため」のもの

私の中でのこの疑問に対する答えは、「問いの技術を磨くため」というものです。

国語ができる人は、きちんと文章を読むことができて、文章を書くことができる。プレゼンもうまくて、相手の話を理解することができる。そのようなイメージがあると思います。

読解・説明・理解・作文……これらの能力が、国語の授業を通して身に付けることができる能力だと考えている人が多いと思いますが、実はこれらに長けている人に共通するのが、「問いの技術があること」なのです。

文章を読んだり、文章を書いたり、誰かと会話をしたりするときにも、結局求められている能力というのはただ1つ、「問いの技術」だと言えるのです。

といってもわかりにくいと思うので、1つみなさんに例を出しましょう。

みなさん、次の文章は読みやすいと思いますか。

アルファベットは、abcからzまでの、26文字で構成されています。
ひらがなが106文字(濁音、拗音などを含める)の中で組み合わせて言葉を作っているのに対して、英語は26文字しかないのです。
26文字で言葉を作るとなると、発音で違いを作るしかありません。
例えば日本語では「読む」の過去形は「読んだ」ですが、英語では現在形「read」に対して過去形も「read」となります。同じ言葉だけれど、発音を変えることで対応しているのです。

どうでしょうか?おそらく、「読みにくい」という人が多いと思います。なんだか、なんの話をしているのかわからないですよね。でもこのときに、冒頭に一言だけ、こんな文言を追加したら、どうなるでしょうか?

なぜ、英語は日本語に比べて発音が難しいのでしょうか?

アルファベットは、abcからzまでの、26文字で構成されています。
ひらがなが106文字(濁音、拗音などを含める)の中で組み合わせて言葉を作っているのに対して、英語は26文字しかないのです。
26文字で言葉を作るとなると、発音で違いを作るしかありません。
例えば日本語では「読む」の過去形は「読んだ」ですが、英語では現在形「read」に対して過去形も「read」となります。同じ言葉だけれど、発音を変えることで対応しているのです。

こちらのほうが、先ほどの文章よりも圧倒的に読みやすいですよね。先ほどの文章との違いはたった一つ。「問いが明確だ」という部分だけです。

問いを明確にすると格段に読みやすくなる

「この文章がどんな問いに対する答えを出すためのものなのか」が明確になったからこそ、文章が読みやすくなったわけです。

この具体例からもわかるとおり、「問い」というファクターは『読解・説明・理解・作文』といった行為すべてに通じる、とても重要なものなのです。「問い」が明確であれば、一気に道が開けていくのです。

長年授業をやっていると、「授業の理解力がある生徒」と「そうでない生徒」は簡単に見分けることができます。1の授業を聞いて10を理解できるような生徒は、「先生がなんの問いを想定して語っているのか」を意識している生徒です。

「今日は古文単語の『あやし』について授業するぞ」と言うと、「きっと今日は、『あやしがどんな意味の言葉なのか、どんな状況で使われる言葉なのか、入試で出題されたときにどう対応すればいいのか』といったような話が聞けるんだろな」と、勝手にたくさんの疑問を持ってこちらの話を聞いてくれます。

疑問を念頭に置きながら話を聞くので「あ、今は『あやし』が使われるシチュエーションについて話しているんだな」と勝手に理解してくれます。だからこそこちらが伝えたいことをきちんと理解してくれるのです。

社会の授業であれば、「今日は徳川家光の治世について話すぞ」と言われた瞬間に、「今日は、『徳川家光がどんな人物か?』『徳川家光がどんなことをしたのか?』『他の時代と比較してどうなのか?』『後世にどんな影響を与えたのか?』などが聞けるだろう」と頭に思い浮かべることができて、その状態で授業を聞くため「あ、この疑問の答えはこれだな」と、疑問の答えを聞いているかのような感覚で授業を聞くことができるのです。

授業についていけない生徒は「疑問」が抜けている

逆に、あまり授業についていけない生徒は、疑問を持って話を聞くということをせず、「なんとなく授業を聞いていたけれど、結局先生は何の話をしていたんだろう?」と、迷子になってしまっていることが多いです。

このように、相手の話に対して「根本的な問いはなんなのか?」を考える技術があると、読解力・理解力が全然違ってきます。

またその逆で、「問い」に対する理解をしている人であれば、きちんと「問い」が明確な文章を書くことができます。

例えばみなさんが日常生活を送っている中で、「なんかこの人の話、わかりづらいな」「回りくどくて、何が言いたいのかわからない」という相手に出会ったことがあると思います。たいていの場合、それは「問い」が明確ではない喋り方をしてしまっているからなのです。

私は授業の際に、「どうして、〇〇は××なのかと言うと……」というように、問いを提示しながら話をするようにしています。

「何の疑問を解消するための授業なのか」がわかっていない状態だと、授業もちんぷんかんぷんになってしまいます。だからこそ、こちら側から生徒に対して「何を疑問に思ってほしいのか」を明確にすることで、生徒の理解力を底上げしているのです。

これは先ほどの文章の、「なぜ英語は、日本語に比べて発音が難しいのか?」と同じですね。最初に「この質問に対しての回答をするよ」と予告したほうが、相手に伝わりやすい説明・文章になるのです。

問いの技術があるかないかで理解力は変わる

いかがでしょうか?私が「国語の授業は、問いの技術を磨くためにある」という話をしたのをご理解いただけたのではないかと思います。この記事自体も、「国語の授業の存在意義とは何か?」という問いに対する答えとして作ったものでした。

「『国語の授業の存在意義は何か』という質問に対しての答えが書いてあるはずだ」「なぜその答えを『問いの技術を磨くため』と定義しているのか」「『問いの技術』があるとなぜ『読解・説明・理解・作文』の能力が高まるのか」といったことを考えながらこの記事を読んだ人であれば、内容を理解するのが容易だったのではないかと思います。

ちょっとした文章を読んでいるときでも、問いの技術があるのとないのとでは全然違ってきます。ぜひ、「問いの技術を磨く」ということを意識していただければと思います。

(辻 孝宗 : 西大和学園中学校・高等学校教諭)

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