安易な国粋主義を戒めた「日本主義」哲学者の気概

グローバリズム  ナショナリズム

哲学者・九鬼周造を切り口に、グローバリズムとナショナリズムを論じた座談会の第1回をお届けします(写真:cba/PIXTA)
本来であれば格差問題の解決に取り組むべきリベラルが、なぜ「新自由主義」を利するような「脱成長」論の罠にはまるのか。自由主義の旗手アメリカは、覇権の衰えとともにどこに向かうのか。グローバリズムとナショナリズムのあるべきバランスはどのようなものか。「令和の新教養」シリーズなどを大幅加筆し、2020年代の重要テーマを論じた『新自由主義と脱成長をもうやめる』が上梓された。同書にゲスト参加している古川雄嗣(北海道教育大学旭川校准教授)による基調報告をもとに、中野剛志(評論家)、佐藤健志(評論家・作家)、施光恒(九州大学大学院教授)、古川雄嗣の各氏が、哲学者・九鬼周造を切り口にグローバリズムとナショナリズムを論じた座談会(全3回)の第1回をお届けする。

偶然性・差異性の哲学を提唱

中野:今回の座談会では、哲学者の九鬼周造を切り口に、ナショナリズムとグローバリズムを考えられたらと思います。古川さんの論文「日本主義という呪縛――九鬼哲学を解放する」(『理想』698号、2017年)にも書いてありますけども、九鬼周造という人はいろいろと誤解されているそうですね。最初に古川さんから九鬼について簡単にご説明いただけますか。

新自由主義と脱成長をもうやめる

古川:はい。まずは、私が以前論文で書いたことの概要を簡単に説明します。

従来の九鬼研究では、九鬼の哲学に対して、評価と批判の両面がありました。評価の側面については、たとえば、日本独自の美意識とされる「いき」を、現象学の方法を用いて哲学的に分析した『「いき」の構造』(1930年)という本があります。そこでは、同一性に回収されない「個」の論理が提唱されていて、こういう強固な個人主義を説いた哲学は、当時の日本では珍しいものだったと言われています。

また、九鬼は西洋の必然性・同一性の哲学に対抗して、東洋思想を背景に持つ偶然性・差異性の哲学を提唱したとされます。私はそういう「西洋対東洋」という二項対立的な見方は適切ではないと思っていますが、ともかくも、プラトン以来、たんに「必然性の影」としてしか扱われてこなかった「偶然性」というものの独自の意義を積極的に考察した点が高く評価されています。たとえば坂部恵先生は、ドゥルーズやデリダの差異の哲学と比較しながら、九鬼の偶然論を絶賛しています。

他方、批判の面について言うと、九鬼は8年間もの長きにわたってヨーロッパに留学して、ハイデガーのゼミに出て勉強したりしていましたが、帰国後は文化的特殊主義に陥り、文化的ナショナリズムや国粋主義の傾向を強めたと言われています。これは、特に次の2つの点について言われます。

古川:1つ目は、当初は肯定されていた「いき」の他文化との通約可能性が、帰国後に否定されたことです。『「いき」の構造』には、留学中に書かれた草稿(1928年)、帰国直後の改稿(1929年)、そして決定稿(1930年)がありますが、改稿までは、「いき」は日本の伝統だが、西洋人にも理解でき、西洋にも「いき」と同じものがあると九鬼は書いていました。

しかし、最終的な決定稿では、その種の記述が全面的に削除されて、「いき」はあくまでも日本独自の伝統であり、たとえ西洋にそれと似たものがあるとしても、それは「いき」ではないとされました。このことが、「閉鎖的な文化特殊主義」や「文化的ナショナリズム」であると批判されているわけです。

2つ目は、1930年代後半のいくつかの論考、特に「日本文化」や「日本精神」を主題にして論じた「日本的性格について」という講演の内容が国粋主義的だという批判です。九鬼の偶然性の哲学はすばらしいと絶賛していた坂部先生も、ここでは「真に開かれた文化多元主義の思考は、急速に失われ、むしろ閉鎖的な文化特殊主義ないし文化的ナショナリズムへの傾きを強めていった」とか「当時の平凡な文化的ナショナリズムに大幅に屈服しているように見える」と批判しています。

不可能性を踏まえた翻訳への挑戦

古川:これらの批判に対して、それはおかしいと論じたのが私の論文です。

古川 雄嗣(ふるかわ ゆうじ)/教育学者、北海道教育大学旭川校准教授。1978年、三重県生まれ。京都大学文学部および教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。専門は、教育哲学、道徳教育。著書に『偶然と運命――九鬼周造の倫理学』(ナカニシヤ出版、2015年)、『大人の道徳:西洋近代思想を問い直す』(東洋経済新報社、2018年)、共編著に『反「大学改革」論――若手からの問題提起』(ナカニシヤ出版、2017年)がある(写真:古川雄嗣)

まず1つ目の、九鬼が「いき」の文化間での通約可能性を否定したという点について。これは、あくまでも九鬼の哲学的立場の展開に基づくものであって、ナショナリズムうんぬんは関係ありません。小浜善信先生が、九鬼は中世哲学で言う「実在論者」ではなく「唯名論者」、つまり「個物主義者」であることを強調しておられますが、「いき」の草稿から決定稿への展開にも、この立場をより明確にしていった過程を見て取ることができます。

要するに、「普遍者」ではなく「個物」を、その具体的な姿でありのままに把握するということを、九鬼の哲学は目指していたわけです。だとすれば、九鬼が「いき」をあくまでも個別的なものとして捉え、たとえ西洋に似たものがあっても、それは「いき」とは異なると考えるべきだと主張するのは当然のことです。逆に、「いき」が文化間で通約可能だと考えるのは、普遍主義の立場です。「いき」のイデアがまず存在して、それが多様な文化において多様な現れ方をしていると考えるのが普遍主義、あるいは実在論の立場ですが、九鬼はこれを否定しているわけです。

別の言い方をすると、これは言語の翻訳不可能性の問題でもあります。九鬼は、「いき」という日本語は日本人の性情や歴史全体を反映した言葉であり、他国語に完全に翻訳することはできないと言っています。ついでに言うと、この点についての九鬼とハイデガーとの対話が、ハイデガーの『言葉についての対話』に収録されています。ハイデガーの言い方だと、これが「言葉は存在の住み処」ということになります。

古川:ただし、九鬼が言いたいことは、翻訳は不可能だから、翻訳なんかしたって意味がないということではありません。逆に、その不可能性を明らかに自覚しつつ、しかしできるかぎりその可能性を追求しなければならないと彼は言います。後ほど論じたいと思いますが、実はこの態度そのものが「いき」でもあります。他者と完全には一体になれないことを自覚しつつ、しかしできるかぎりの共通了解をめざしていく、ということです。

安易な「日本主義」「国粋主義」への戒め

続いて、2つ目の「日本的性格について」という講演が国粋主義だという批判について。

まず押さえておかないといけないのは、この講演は第三高等学校で行われた「日本文化講義」だということです。日本文化講義とは、当時の文部省思想局が「思想善導」を目的として全国の直轄学校に命じた、いわば官製講義です。テーマや内容にも、当局がかなり介入しますし、当然、講義は監視されます。講義の内容次第では講師が教壇を追われる可能性もありました。ですから、そもそもこの講演が「当時の平凡な文化的ナショナリズムに大幅に屈服しているように見える」のは当たり前なんです。そういう講演をしなければ大変なスキャンダルになってしまうわけですから。

しかも、これはまだ九鬼研究では触れられていない点ですが、実は九鬼は当初、この講演を断ろうとしていました。甲南大学の九鬼周造文庫に保管されている未公開の書簡のなかに、九鬼が文部省思想局の役人に宛てた手紙の下書きが残っています。そこに「御趣旨に十分に添い得るや否や多少疑問に存ぜられ候 これらの点よりしても出来得ることならば御辞退いたしたく候」とあります。

ちなみに、私は一時期、これらの未公開書簡を整理する仕事を依頼されていたので、これを発見できたのですが、その後、何やらよくわからない学内のトラブルに巻き込まれて外されてしまったので(笑)、今は見ることができません。研究の発展のために、甲南大学には1日も早く書簡集の整理・公刊をお願いしたいです。

そういうわけで、この講演はそのあたりの事情も考慮しながら、慎重に読まなければなりません。しかし、とはいえ、ふつうに読んでも、この講演はいっけん国粋主義的な言説を振りまいているように見せかけつつも、実はその本旨は、むしろ安易な「日本主義」や「国粋主義」を戒めるところにあることは明らかです。

古川:たとえば、講演の結論部分では、はっきりとこう述べています。

我々は今や東洋的な日本文化が西洋の文化と全面的に接触しているという時機に立たされたのである。その時に当って一部のものは西洋の文化を頭から崇拝してその影響に全く身を委ねてしまっている。日本的性格は失われようとしている。また他のものは日本文化を何等か絶対的なものと考えてその絶対的なものを単に固守するより以外のことを知らない。我々はそのいずれにも倣ってはならぬ。一方にあって我々は飽くまでも日本文化の特殊性を自覚して日本主義の立場に立つべきであると共に、他方にあっては広く世界の文化を見渡してその善きものを容れるだけの雅量を示さなければならない
我々は二つの意味で深く自重するところがなくてはならない。第一に日本人として国民的に個別性に於て自重するところがなくてはならない。第二にその日本人とは恣(ほしいまま)な得手勝手な日本人であってはならない。世界的理念を体現するところの日本人でなければならない。日本人としての自重は世界的理念に根ざすという事実から自重を汲みとるものでなければならない。将来の日本文化を指導する原理は一言で云えば日本主義的世界主義または世界主義的日本主義というような一見逆説的なものでなければならぬと考えるのである。

どこが「閉鎖的な文化特殊主義」なんでしょうか。どう読んだって、むしろそれを戒めているとしか読めません。

そして、実はこれこそ、自文化の独自性・特殊性を自覚しつつ、他文化との相互了解という「不可能な可能性」を「無窮」(=永久)に追求するという、「いき」の態度そのものを表現してもいるわけです。以上、ひとまず従来の九鬼に対する誤解と、それへの私の反論について説明させていただきました。

なぜ九鬼は「いき」にこだわったのか

中野:ありがとうございます。私は九鬼について詳しく研究したわけではないので、いい加減なことを言ってしまうかもしれませんが、日本の文化的伝統と言ったら、「わび」とか「さび」を主題にしそうですが、なぜ九鬼は「いき」にこだわったのでしょうか? どこかの記事で、「いき」というのは、日本語で生きるの「生き」と関係しているのだと読んだことはありますが。

古川:そうですね。生きるの「生き」と、呼吸の「息」。あとは意気地とか、意気に感じるの「意気」。行ったり来たりの「行き」もありますね。これらは全部、語源が同じである。だから、「いき」とは「生き方」であり、人生の「行き方」であると九鬼は言っています。

中野:いろいろと意味はありますが、通約不可能性のことをとりあえず無視して、「いき」という言葉をあえて英訳すると「Life」ですよね。つまり「生」。現象学を学んだ人が「生」をテーマにするというのは、何も不思議なことではない。「Life」を現象学で研究しているときに、それを日本語でどう表現するのか、そして、ハイデガーの影響も受けて、語源学にも関心をもった結果、「Life」を「いき」と結びつけるに至った、という仮説もありえそうです。

母への思いと西洋との対峙

古川:言われてみれば、まったくおっしゃるとおりですね。しかし、九鬼研究ではその点に言及されることはあまりありません。なぜ九鬼が「いき」にこだわったのかについては、諸説あります。

中野 剛志(なかの たけし)/評論家。1971年、神奈川県生まれ。元・京都大学工学研究科大学院准教授。専門は政治経済思想。1996年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。2001年に同大学院より優等修士号、2005年に博士号を取得。2003年、論文‘Theorising Economic Nationalism’ (Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に山本七平賞奨励賞を受賞した『日本思想史新論』(ちくま新書)、『TPP亡国論』(集英社新書)、『富国と強兵』(東洋経済新報社)、『小林秀雄の政治学』(文春新書)などがある(撮影:尾形文繁)

いちばん有力で、ほぼ間違いないのは、彼の母親に対する個人的な思いです。少しだけ説明すると、九鬼の母親の波津(はつ)という女性は、芸者出身だったと言われています。一方、父親は文部官僚の九鬼隆一。現在の重要文化財保護法に当たる古社寺保存法の制定などを主導した人として有名で、岡倉天心のパトロンでもありました。

ところが、波津さんと岡倉がいわゆる不倫の関係になってしまいます。波津さんは隆一と離婚し、さらに最終的には岡倉からも見捨てられて、孤独のうちに心を患って精神科病棟で亡くなりました。九鬼は少年時代に、その母の姿を目の当たりにしていて、それがずっとトラウマのようになっていました。ですから、江戸の芸者の美意識である「いき」を論じるとき、九鬼は常にお母さんのことを思っていたんです。

たとえば、『「いき」の構造』のなかで、江戸時代に最も「いき」な色とされたのは「白茶色」だと述べていますが、その草稿をヨーロッパで書いていた頃、彼は「母うえのめでたまひつる白茶色 はやりと聞くも憎からぬかな」という短歌を詠んでいます。なんだかちょっと涙を誘いますね。

しかし、それと同時に、私が今回、久しぶりに九鬼の論考を読み返してみて思ったのは、「いき」というのは、日本人の「西洋」というものに対する向き合い方を問題にしていたのではないかということです。

「いき」とは、自己と異性、広くは他者一般との関係のあり方です。九鬼が言うには、それは「媚態」「諦め」「意気地」の3つの契機から成り立ちます。「媚態」は、相手と一体になりたいと思って媚びを売ること。それによって相手を引き付け、相手との距離を縮めることです。他方、「諦め」は、逆に、どうしても相手と一体にはなれないということ、どこまでいっても自分は自分で人は人ということを深く自覚すること。「意気地」は、いわば「俺は俺だ」と意地を張って相手をはね付けることです。「媚態」によって相手との距離を縮めつつ、「諦め」と「意気地」によって、逆に相手との距離を保ち、個としてあり続けようとするわけです。

古川:先ほど見たように、九鬼は一方では、西洋の優れた思想を積極的に学んで受け入れるべきだと言い、しかし他方では、日本には他の文化には翻訳できない日本独自の文化・伝統があり、それを大事にすべきだと言います。これはまさに「いき」なあり方を言っているわけです。

九鬼自身、8年もヨーロッパに留学して、ドイツ語やフランス語はもちろん、ギリシア語、ラテン語も完璧にできました。九鬼というと、とかくハイデガーの影響など、現代哲学との関係が取り沙汰されますが、実は彼が最も重視したのは、古代・中世以来の西洋哲学の伝統であって、その思考様式や学術的な作法に徹底的に従っています。つまり、彼ほど「西洋」というものに自己を同一化しようとした哲学者はいないと言ってもいい。

ところが、その彼が、他方で「いき」は日本独自の美意識であり、西洋の言語には絶対に翻訳できないと言う。これは要するに、意地を張っているわけですよ。

「いい気」に見せかけて「いき」を説く

佐藤:近代の日本は、西洋に「媚態」を示さなければ生き残れないという大前提から出発しました。なに、事情は今も変わりません。西洋に媚びることを「文明開化」ではなく、「グローバル化」と呼ぶようになっただけの話です。

佐藤 健志(さとう けんじ)/評論家・作家。1966年、東京都生まれ。東京大学教養学部卒業。1990年代以来、多角的な視点に基づく独自の評論活動を展開。『感染の令和』(KKベストセラーズ)、『平和主義は貧困への道』(同)、『新訳 フランス革命の省察』(PHP研究所)をはじめ、著書・訳書多数。さらに2019年より、経営科学出版でオンライン講座を配信。これまでに『痛快! 戦後ニッポンの正体』全3巻、『佐藤健志のニッポン崩壊の研究』全3巻、『佐藤健志の2025ニッポン終焉 新自由主義と主権喪失からの脱却』全3巻が制作されている(写真:佐藤健志) 

とはいえ、媚びる一方ではアイデンティティが解体されてしまう。九鬼周造の母ではありませんが、正気を保てず、精神を病んでしまうかもしれない。だとしても、媚びずにやってゆくのは不可能。

媚びてなお、アイデンティティを維持するにはどうすればいいのか。このジレンマに立ち向かう方法論として、九鬼は「いき」を構想したのだと思います。これは安易な国粋主義とは対極に位置するもの。そちらは、「いき」ならぬ「いい気(=自己陶酔)」というやつですよ。

中野:それで言うと、「日本文化講義」の話になりますが、当時の文部省には思想局があって、国体思想に反することを言うと教壇から追われるという恐ろしい時代だったそうですね。そして古川さんのおっしゃるように、九鬼は本当は引き受けたくなかった。だけど、まさに「いき」の諦念で引き受けた。それで、「当時の平凡な文化的ナショナリズムに大幅に屈服している」と言われるように媚態を示しつつも、日本人の偏狭な日本主義じゃダメなんだと言って、意気を見せたんですね。

佐藤:「いい気になるなよ、いきでなけりゃダメだぞ」と、さりげなく説いたわけです。あまりに「いき」なやり口なので、「九鬼は『いい気』(=安易な国粋主義)になっている!」と錯覚する人が出てしまうのもよくわかる。ただし「いい気」にかこつけて「いき」を説くとは、ほとんどやせ我慢に近い姿勢なのも否定できません。

古川:そのとおりです。当時の日本文化講義で、こんなふうに「『日本スゴイ』とか言ってんじゃねーよ」などと言ってのけるのは、並大抵のことではありません。この講演を読んで感じるのは、むしろ体制の同一化の圧力に反発する九鬼の「意気地」ですよ。まさに「やせ我慢」です。

すべてを片仮名にする「意気地」のなさ

:今の「媚態」「諦め」「意気地」のお話は、国民保守主義をめぐる前回の研究会のテーマであった「グローバル化」と「国際化」が区別されずに使われている問題にも通ずる話だと思います。

施 光恒(せ てるひさ)/政治学者、九州大学大学院比較社会文化研究院教授。1971年、福岡県生まれ。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士(M.Phil)課程修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 (集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)など(写真:施 光恒)

近年、この2つの言葉がほぼ同じ意味として使われてしまっている一つの原因に、言ってみれば、翻訳の際に同一化を拒む「意気地」が失われてしまったからではないかと思うんです。

昔の明治のインテリというのは、欧米の理念を国内に輸入するときに、すべて漢語にしていったわけですよね。彼らは欧米の文化を取り入れる際に、自分たちの伝統を意識し、それにうまく位置づけていた。

しかし、近年ではすべて片仮名で取り入れるようになってしまいました。さらにひどいのは、片仮名だけでなく、アルファベットの頭文字だけで何かを表現しようとするようになり、何が何だかわからなくなってきています。

例えば、「グローバル化」という言葉についてですが、中国では「全球化」と訳されます。一方、「国際化」は中国でも「国際化」として通じます。もし日本でもインテリが意味を考えて、「グローバル化」を「全球化」と訳していたら、「グローバル化」と「国際化」の区別がもう少しつけられたのではないでしょうか。

そうすれば、国境線をなるべく取り払うという意味でのグローバル化はイヤだけど、互いの違いを認め合い、尊重しながらも積極的に交流する国際化は目指すべきではないか、というような建設的な議論ができたのではないかと考えています。そのような意味で、最近のインテリたちは少し怠けているのではないかという印象を持っています。

古川:九鬼も「外来語所感」というエッセイの中で、翻訳の努力をせずに何でもかんでも片仮名で言って、しかもそれをオシャレとかカッコいいとかと思っている風潮に対して、激しい嫌悪を表明しています。すでに当時からそういう風潮があったんですね。

この点は、九鬼が「日本的性格について」の中で論じている「日本主義」と「世界主義」との関係をどう考えるかという問題にもなってきますので、第2回以降で引き続きそこを見ていきたいと思います。

(「令和の新教養」研究会)

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