「ソクラテスの毒杯」から西洋哲学が始まった理由

ソクラテス

哲学者・九鬼周造を切り口に、グローバリズムとナショナリズムを論じた座談会の第3回をお届けします(写真:yuzu/PIXTA)
本来であれば格差問題の解決に取り組むべきリベラルが、なぜ「新自由主義」を利するような「脱成長」論の罠にはまるのか。自由主義の旗手アメリカは、覇権の衰えとともにどこに向かうのか。グローバリズムとナショナリズムのあるべきバランスはどのようなものか。「令和の新教養」シリーズなどを大幅加筆し、2020年代の重要テーマを論じた『新自由主義と脱成長をもうやめる』が上梓された。同書にゲスト参加している古川雄嗣(北海道教育大学旭川校准教授)による基調報告をもとに、中野剛志(評論家)、佐藤健志(評論家・作家)、施光恒(九州大学大学院教授)、古川雄嗣の各氏が、哲学者・九鬼周造を切り口にグローバリズムとナショナリズムを論じた座談会(全3回)の最終回となる第3回をお届けする(第1回はこちら、第2回はこちら)。

『フィールド・オブ・ドリームス』と「荒川道場」

:中野さんがおっしゃるように、ユニバーサリズムでは抽象的な概念を個別に解釈することを認めるのに対し、グローバリズムは個別的な解釈を一律にならす、という違いがあると思います。私もその2つの使い分けが必要ではないかと考えます。

新自由主義と脱成長をもうやめる

ただ、どうしても人間は傲慢だから、自分の解釈が正しいし普遍的だと考えて、ユニバーサルな世界のあり方を許容しがたい。だからこそ、人間は完全じゃないし、人間の認識は有限であることを常に意識しないといけない。古川さんがおっしゃっていた諦めの境地というか、そういうものが必要だと思うんですよね。

抽象的な話が続いていますが、具体的な例として、最近の大谷選手の活躍が挙げられます。彼の存在は、アメリカ生まれのベースボールを、アメリカ人からするとわれわれ日本人が、いかに、かなり誤解したうえで自分の国に導入したかを示していると思うんですよね。

つまりベースボールは、アメリカ人にとっては競技のルールだけでなく、仲間や家族の絆、少年時代の思い出といった、まさしく映画の『フィールド・オブ・ドリームス』みたいな文化的背景も意味しています。一方で、日本の野球では、われわれは王貞治に夢中になった世代ですが、彼は一本足打法を生みだすために、荒川道場で日本刀で素振りをしていましたよね。

古川:それで畳が擦り切れて、手は血豆だらけになり、最後に天井からぶら下げた紙がスパっと切れたときに、一本足打法に「開眼」したと。まるで柳生宗厳が無刀取りに「開眼」したような語り口ですよね(笑)。

:それもそうですし、高校野球の甲子園を見ていてもそうですけど、日本人って野球を一種の武道みたいな感じで、ある種の誤解をして取り入れているんですよね。

古川:実際、「野球道」という言い方をしますしね。「侍ジャパン」もそうです。

:ええ。侍ジャパン、一球入魂のようなものですよね。野球は、日本の武道の伝統を下敷きにベースボールを取り入れたものだと言えるのではないでしょうか。イチロー選手や大谷選手もそのような環境で育ったのでしょうが、彼らがアメリカでベースボールの世界に入り、同じルールのもとでプレーする中で、アメリカ人が思わなかったような解釈を持ち込んでいると思います。例えば、武道の伝統に端を発するような体の使い方などです。それが、「こうやるべきなのか」とアメリカの野球界に衝撃を与えてきたのではないでしょうか。

施 光恒(せ てるひさ)/政治学者、九州大学大学院比較社会文化研究院教授。1971年、福岡県生まれ。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士(M.Phil)課程修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 (集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)など(写真:施 光恒)

文化の違いによる解釈の違いが、ベースボールも野球も発展させる要因になっているのでしょうね。そして、イチロー選手や大谷選手が誕生する背景には、解釈の違いがあり、その違いをもとにみんながプレーすることで、それぞれ独自の進化が生じているのではないでしょうか。

その意味で、単一のグローバリズムやグローバルガバナンスではなく、複数の国民国家が必要だと思います。各国が独自の発展を遂げる一方で、互いに交流し学び合いもするという矛盾した形が、全体としての世界の発展に寄与するのではないでしょうか。

ここでいうユニバーサルないしインターナショナルな世界で価値観の解釈合戦が行われることで、お互いに影響を受け合い、共存できる環境が重要だと思います。そのため、多数の国からなる多元的な世界が、認識的にも面白く、発展につながるのではないかと。そんなふうに思ったんです。

ベースボールの偶発性と普遍性

中野:野球や柔道などのスポーツを見ているといつも感じることですが、九鬼の言葉を使うと、ベースボールはアメリカで偶然性から生まれ、そしてその中にはベースボールの普遍性が存在していたのです。それが日本や韓国、オーストラリア、カナダなどに移植され、具体化される中で、多様な形態のベースボールが生まれた。

裏を返して普遍性のほうに目を向けてみると、アメリカにとっては自国以外でこんなにベースボールの普遍性が発揮されるのは初めて見たと感じたのではないか。もともとベースボールは、どの国でも独自の形になるポテンシャルを持っていたのですが、アメリカで始まったことで、ベースボールの普遍性とアメリカン・ベースボールの個別性とが一致して見られていた。しかし、他国に移植されたら、ベースボールはいろんな形になって現れた。それは、各国民がみんなでベースボールの普遍性を引き出していったとも言えます。そして、ベースボールの普遍性という通約可能性があるから、WBCという世界大会も開催できるわけで。

古川:そのとおりだと思います。九鬼に則して言うと、現実の世界には「ベースボールそのもの」や「野球そのもの」というような普遍的なものは存在せず、アメリカのベースボールや日本の野球など、個別具体的なものが多様に存在する。そう考えるのがユニバーサリズムです。

他方、グローバリズムというのは、アメリカのベースボールが普遍だと考えるわけです。

中野:そうそう。アメリカのベースボールを忠実にやらないかぎり、ベースボールとは認めないという立場がグローバリズム。

:だからアメリカが自分のところこそ「メジャーリーグ」であり、「ワールドシリーズ」であるとか言っちゃうと、まさしくグローバリズムになっちゃう(笑)。

中野:本当のワールドシリーズはWBCです(笑)。

「マカロニ・ウエスタン」という偉大なニセモノ

佐藤:本当にユニバーサリズムの立場に立つなら、通約可能性へのこだわりを捨てて、通約不可能性の面白さ、誤解にひそむ創造性ともいうべきものを楽しまなければならない。

佐藤 健志(さとう けんじ)/評論家・作家。1966年、東京都生まれ。東京大学教養学部卒業。1990年代以来、多角的な視点に基づく独自の評論活動を展開。『感染の令和』(KKベストセラーズ)、『平和主義は貧困への道』(同)、『新訳 フランス革命の省察』(PHP研究所)をはじめ、著書・訳書多数。さらに2019年より、経営科学出版でオンライン講座を配信。これまでに『痛快! 戦後ニッポンの正体』全3巻、『佐藤健志のニッポン崩壊の研究』全3巻、『佐藤健志の2025ニッポン終焉 新自由主義と主権喪失からの脱却』全3巻が制作されている(写真:佐藤健志) 

いい例が黒澤明の時代劇映画です。ここにはシェイクスピア劇と並んで、西部劇の要素が取り入れられている。だから『用心棒』など、舞台となる宿場町の大通りがやけに広い。ついでにこの作品の筋立ては、アメリカの作家ダシール・ハメットのハードボイルド小説『血の収穫』を下敷きにしています。

はたせるかな、『用心棒』はセルジオ・レオーネ監督によって『荒野の用心棒』という西部劇に翻案されました。しかも『荒野の用心棒』、じつはイタリア映画。撮影はスペインで行われたものの、西部開拓というアメリカの特殊性に根ざしたものではありません。

九鬼周造なら「ニセモノだ!」と叫ぶところですが、イタリアの映画人はまるでお構いなしに、当たれば官軍とばかり、自己流の西部劇をバンバン製作しました。これにより「マカロニ・ウエスタン」(英語では「スパゲティ・ウエスタン」)という新しいジャンルが生まれ、本家アメリカの西部劇とは違った魅力を持つものとして評価されるにいたるのです。

このように誤解が誤解を生んだ結果、文化が豊かになるプロセスは確かに存在する。けれども第2回の記事で指摘したとおり、ユニバーサリズムは実践の過程の中で、ほとんど宿命的にグローバリズムへと変質します。

くだんの変質はどうやって始まるか? 簡単です。普遍性に富み、ゆえに覇権的優越性を持つと見なされる特定の文化において評価されるかどうかが、個々の文化の豊かさを計るバロメーターとなるのです。もっとわかりやすく言えば、ずばりアメリカで成功を収められるかどうか。

佐藤:大谷選手も、アメリカで活躍するからこそ注目される。日本でプレーしていたら、ここまで騒がれるはずがありません。現にわが国の報道番組は、大谷選手の活躍となるや、たいがいスポーツコーナーのトップで取り上げます。それどころか政治や経済のニュースを差し置いて、番組全体のトップニュースとなることも珍しくない。しかるに自国のプロ野球はどうか。みごとに後回しではありませんか。

ユニバーサリズムの発想に立てば、グローバリズムが入り込む余地はないと考えるのが非現実的なのです。現実の社会において、文化の豊かさは「どれだけカネが動くか」という点と切り離すことができません。そしてカネは数字ですから、グローバルな通約可能性、すなわち普遍性を持っている。

古川さんは第2回の記事で、「近代日本の誤りは、西洋文化に含まれる抽象的な普遍性を、現実的な普遍性と取り違えたこと」と指摘されました。けれどもカネ、つまり貨幣は、普遍性に加えて、抽象性と現実性まで兼ね備えている。たんなる数字でありながら、世界を動かしているのですからね。

カネの前には、「抽象的な普遍性」と「現実的な普遍性」の区別が消滅してしまうのです。こうなると、両者を取り違えるという考え方自体が成り立たなくなる。やはり九鬼周造の議論は、狭義の哲学に視野を限定しないかぎり破綻を運命づけられていると言わねばなりません。

中野:個別でしか普遍が現れないのだけれど、佐藤さんがおっしゃったように、ユニバーサリズムをグローバリズムと誤解して、みんな金と数字と力のほうに流れていくと、個別が消えるだけではなく、個別の中の普遍も同時に消えてしまう。だからこそ、哲学者の九鬼周造が倫理を声高に問うているのだと思います。

佐藤:ならば大谷のプレーからも、いずれ個別性が消えてゆくのでは。ドジャーズの現在の監督デイブ・ロバーツは那覇生まれで、日本人を母に持っていますが、ベースボールに徹した采配をしているようです。ついでに事実上、実践しえない哲学をどこまで有効なものと評価すべきかは疑問ですね。

わかりあえないことをわかりあうという「諦念」

中野:政治的に有効かどうかと、正しいかどうかとは別問題です。政治的に支持は得られず敗北して排除されたが、排除された方の方が実は正しかったということは、当然ありえます。

中野 剛志(なかの たけし)/評論家。1971年、神奈川県生まれ。元・京都大学工学研究科大学院准教授。専門は政治経済思想。1996年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。2001年に同大学院より優等修士号、2005年に博士号を取得。2003年、論文‘Theorising Economic Nationalism’ (Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に山本七平賞奨励賞を受賞した『日本思想史新論』(ちくま新書)、『TPP亡国論』(集英社新書)、『富国と強兵』(東洋経済新報社)、『小林秀雄の政治学』(文春新書)などがある(撮影:尾形文繁)

ところで、九鬼周造が通約可能性に最も遠い唯名論者だというのは、やや疑わしいと思いますね。特に「日本的性格について」の最後の部分は唯名論を徹底しているわけではないように感じます。

ただ、私は九鬼が間違っているとは思っていません。個別の中に普遍性があり、抽象的なレベルでは通約可能性があるけれど、現実のレベルでは絶対にわかり合えないという諦念が必要です。神を信じる気持ちは理解できても、イスラム教徒はキリスト教徒にはなれない。この宗教対立は絶対に消えないという現実的な諦めがあります。だから不断に努力はするけれど、結局は無理だという考え方です。

古川さんの解釈は正しくて、普遍的なメタレベルで通約可能だからといって、みんながわかり合えるわけではない。ただ、絶対にわかり合えないかというと、神というレベルで抽象化すれば、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教にも共通点があり、わかり合えないけれど、お互いの存在を認め合って距離を置いて過ごすなど、幸せに共存することもできると思います。

中野:ただ、九鬼の矛盾というわけではないですが、九鬼には文化主義的な傾向がやや強いという印象はあります。個別・普遍で理解できるレベルは抽象であり、本当は理解できないこともある。それはそうですが、しかし、これは同じ文化の中にあっても個人間で起きうる話です。日本人同士でも、理解できないことがあります。この議論の行きつくところは、自分の言っていることは誰にもわかってもらえない、俺は俺でしかないんだっていう悲しい結論に至るのではないでしょうか。

佐藤:当然、そうなりますね。あらゆる理解は幻想であることに耐えねばならない。

「いき」とは「不可能な生き方」だ

古川:私は博士論文で、「いき」というのは実は「不可能な生き方」なのだと論じました。あらゆる意味で普遍性や相互理解の可能性を否定してしまったら、正気を保てなくなってしまいます。実際、ある意味で「いき」のモデルだった九鬼のお母さんは、孤独に耐えられず心を病んでしまったわけですし。だから、お互いにわかり合えないけれど、どこか底のところではつながっているというふうに考えないと生きていけないし、共存もできない。

中野:そうか! 実存主義的な個の考え方って「いき」なのですね。だとしたら、「いき」は、西洋にもあるな(笑)。普遍のレベルで「いき」はヨーロッパやアメリカ、中国やインドにもある。ただ、具体のレベルになると一致しない。最初は「いき」の本質を輸出・輸入できると考えていたけど、よく考えると具体のレベルでは理解し合えない。抽象度を上げればわかったふりはできるけど、具体では無理だと九鬼も感じたんじゃないんですか。

古川 雄嗣(ふるかわ ゆうじ)/教育学者、北海道教育大学旭川校准教授。1978年、三重県生まれ。京都大学文学部および教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。専門は、教育哲学、道徳教育。著書に『偶然と運命――九鬼周造の倫理学』(ナカニシヤ出版、2015年)、『大人の道徳:西洋近代思想を問い直す』(東洋経済新報社、2018年)、共編著に『反「大学改革」論――若手からの問題提起』(ナカニシヤ出版、2017年)がある(写真:古川雄嗣)

古川:完全にわかり合えるのでも、完全にわかり合えないのでも、どちらであってもわかろうとする努力をしなくなってしまいます。わかり合えることとわかり合えないこととの「あわい」のようなところを、九鬼は大事にしたのだと思います。

中野:もっと言うと、「俺たちってわかり合えないね」ってことをわかり合う(笑)。

佐藤:第2回の記事で紹介したピーター・ブルックの例がまさにそれですよ。バリ島の仮面を、現地の役者と同じ所作で使うことはできない。ただし所作が違っても、同じぐらい説得力のある形で使うことはできる。

中野:どこに違いの線があるかを明確にするということは、それ以外のところをわかり合っているということですね。「必然というのは偶然じゃないということを言っている」というのも同じことで、偶然と必然は別物じゃなく、偶然じゃないことが必然。九鬼はそういう議論を展開している。

中野:それで言うと、坂部先生の議論がなぜダメか、日本の閉鎖的なのがダメと言う人たちがなぜダメかというと、あなた方の大好きな「開かれた」というのは閉じた世界じゃない状態に過ぎない。だから、開かれたらよくて、閉じたらダメというわけじゃない。開かれるというのは閉じることがあって初めて成り立つ。開かれるためには閉じることも必要で、そのバランスが大事だということでしょう。

古川:完全にそのとおりです。必然性と偶然性、あるいは普遍性と個別性とは、コインの表と裏のようなもので、だから対立しながら相互に依存する関係だと九鬼は考えていました。これは特に『偶然性の問題』になって強調されてくる見方ですが。同じように、閉じることと開くことについても、「閉じることによって開く、開くことによって閉じる」という弁証法的な関係を九鬼は考えていたはずです。

「多元的な世界」が「多様性ある世界」を生む

:そうですね、野球にこだわって申し訳ないんですが、例えばイチローや大谷のような選手が生まれたのは、日本の野球が全部開かれているというわけではなかったからでしょう。イチロー選手のプレーはまさに武道の体の使い方に近い部分があったと思いますが、彼らを育んだのは一球入魂の高校野球でしょうし。

中野:そういった意味では、大谷選手も最初からアメリカに行かなかったのが正解だったんでしょうね。

:そういうことだと思います。サッカーでは楽天の三木谷さんなどは、日本のサッカーも外国人選手の制限を撤廃して、結果的に全員外国人選手になってしまってもいいと言っていますが、全部開いてしまうと逆に多様性はなくなると思うんです。ワンワールド的なグローバル社会を作ってしまうと、近い将来、すぐに世界の多様性はなくなってしまう。

われわれの社会の外には別の社会が複数あって、それらの社会ではこちら側とは異なる解釈に基づいて様々なことが行われている。そういう多元的な世界があるからこそ、多様性ある世界は生まれるのです。だから、閉じたものと開いたものとのバランスを取ることが重要だと思うんです。「いき」の話なんかも、うまく閉じる・開く、その中でカッコよさを認めるということを言ってるんじゃないですかね。

中野:まさに「いき」が典型で、九鬼は百も承知なんでしょうけど、「いき」は本を読んでわかるということじゃなくて、やっぱり実践しなきゃいけないでしょうね。九鬼の文章って、読めば読むほど西洋哲学をよ~く知っている手練れの人の文章で、かなりユニバーサルですね。「いき」はヨーロッパ人に理解できないって言うけれど、『「いき」の構造』を読んだら理解した気にみんななりますよ(笑)。

古川:「理解」はできるように、つまり「理屈ではわかる」ように書いているんですね。それが理性の役割であり学問の仕事であると九鬼は考えています。でも、ホントのところはお前らにはわからんよと、突き放されている感じもする。実際、『「いき」の構造』は、九鬼自身の「いき」の体験に基づいて、これは「いき」だ、これは「いき」ではないと断言されまくっているので、私のような無粋な人間は読んでもさっぱりわかりません(笑)。

佐藤:「いき」が認識ではなく、実践、体験の領域の問題だとすれば、「現実には有効性がなくても、認識としては正しい」などと弁護することはできません。そういうのは「いき」ではなく、「いきがる」と呼びます。

中野:実践をおろそかにして、認識だけでやれば間違った解釈が生まれるでしょう。しかし、実践でしか現れないものを言い表すのは難しいですね。哲学者はそういう面倒なことをやっているのです(笑)。

古川さんに少し補足的にお伺いしたいのが、エネルギーの法則を、イギリス人は実験から、ドイツ人は観察から、フランス人は特殊的なものに注目してエントロピー増大の法則を立てたってありましたよね。これに関しては、思いっきり普遍的で、通約可能なものを見つけていませんか。みんな、自然の法則を理解しているのではないかと。

「体験に基づいた認識」の重要性

古川:そういう普遍的な認識や共通理解そのものを否定しているわけではないんです。ただ、そこに至る道が違うということです。

九鬼という哲学者の面白いところは、一方では体験や実践の直接性に非常にこだわると同時に、他方では理性による論理的な分析や説明を徹底的にやるところです。体験はあくまで個別的なもので、わかり合えないけれど、だからこそ、それをできるかぎり言葉にして論理的に説明する。それが哲学だと彼は考えています。

哲学は体験そのものではなく、「体験に基づいた認識」であると彼は言います。認識は理性によるものであり、普遍性や相互理解に開かれています。しかし、その基盤になるのは、文化的な感覚を通じた個別的な体験である。だから、個別的な文化的感覚を最大限に活かすことによって、初めて真の普遍的・客観的な認識に近づくことができると考えるわけです。

:この例、面白いですよね。サイエンスにもナショナルな要素が大いにあるのではないかと。どこかで引用したくなります(笑)。

古川:数学者の岡潔も、数学には国民性が現れると言っていましたね。

中野:数式を使っていて言語を使ってないと思うんですが、それでもそうなるんですね。それで言うと、自然科学や数学にも国民性が現れるなら、政治・経済にはもっと現れるはずです。それなのに日本の政治は政権交代がないから民主主義ではないとか言って、二大政党制を目指して政治改革をやった挙句、結局元に戻ったり、あるいは、日本的経営を否定してアメリカの経営を取り入れて失敗したりと、ずっとそうだった。そして今度はその反動で、グローバルなものを否定しようとして、ユニバーサリズムまで否定して(笑)。

産業革命という「偶然の必然化」

佐藤:近代はもともと、欧米的なものこそ普遍に最も近いという前提のもとに成り立っている。つまりこれは、近代にどう立ち向かうかという問題にほかならない。

中野:近代は普遍を追求していたが、近代主義やリベラリズムはユニバーサルとグローバルを誤解して、個別を消去できると思い込んだ。それに対してロマンティシズムは個別に走り、普遍を否定したが、それもまずい。こういった議論は、近代西洋思想には、もうずっとあります。

佐藤:けれども近代は産業革命によって、自分たちの「普遍性」を他の地域に押し付けるだけの力を手に入れた。第1回の記事でも述べたとおり、われわれは否応なく欧米に媚態を示さねばならなくなったのです。

中野:そうですね。でも、「そういうグローバルな帝国主義は全然ユニバーサルじゃない」といったような思想も西洋から出てきています。ちなみに、西洋から出てきたのは偶然ですが。

佐藤:その偶然を必然にすること、つまり近代欧米の普遍性を確立することこそ「無窮(=永久)の道義的実践」だという話になるんですよ。こうして帝国主義が正当化される。

中野:偶然を必然にするというのは、「普遍は個別の中にある、という西洋から生まれた思想が世界中で理解される」という意味でしょうか? そうであれば、それは、まったく問題ないじゃないですか。

佐藤:いえいえ、「近代欧米の個別性に宿った普遍性を、世界中が媚態を示して受け入れる」という意味です。現実世界の力関係を無視することはできない以上、「偶然の必然化」もグローバリズム的な解釈で受け止められることになるのです。

中野:そういう意味では、京都学派的な思想は、現実の世界の力関係と混ぜられてしまった感があります。思想と現実の力関係が混ざってしまうと、戦争で負けたら、その思想も全部ダメということになる。でも、本来、力の強弱と思想の正否とは関係がありません。勝ったほうが正しいわけではない。しかし、もし京都学派が「戦争で勝ったら思想も正しいという考え方自体が間違ってるんだ」という思想だったのだとしたら、大変お気の毒です(笑)。

負けるのが嫌なら哲学なんかやるな

佐藤:現実を相対化することはできても、現実を変えることはできない。それが哲学の限界かもしれません。

中野:限界というか、そもそも、哲学は、現実を批判するためにあるのです。力関係でユニバーサルかどうかが決まる、強いものがユニバーサルだという考え方はおかしいと執拗に批判し続けるのが哲学です。哲学を基礎にして世界秩序を考えるなどという考え方が間違いなのです。批判だけしていればよかったものを、「哲学は、批判だけじゃダメだ、世界を構想するんだ」などとやったのが間違いの始まりです。

佐藤:最後までやせ我慢に徹するべきだった、ということですね。

中野:そのとおりです。

古川:西田幾多郎やその直系の弟子たちの思想が、戦争に巻き込まれて、無理やり積極的なことを言おうとしたせいでおかしなことになったという面は多分にあると思います。ちなみに、その点、九鬼は現実に対して距離をとって、戦局が激化している1940年頃に、「日本詩の押韻」などの詩論をまとめることに全力を注いでいました(笑)。賛否あるでしょうけど、あえてそういう超然とした「いき」な態度に徹することも、一種の「意気地」だったのかもしれません。

中野:まともなことを言っているほうが割を食うことは結構あるんですよ。高貴なものが勝てるとは限りません。

佐藤:なるほど、哲学とは「高貴にいきがる」ことか!

中野:最初に哲学をやったソクラテスは、毒をあおって死んでるわけです。哲学者が高貴なものを求めていれば勝てるなどとは思うな、そして、負けるのが嫌なら哲学なんかやるなということですよ。西洋哲学は、ソクラテスが毒をあおったところから始まってるんです。ついでに言うと、西洋では宗教もイエスの磔から始まってる。どちらも負け戦がスタートです。西洋も結構やせ我慢なんですよ(笑)。

佐藤:ならばグローバリズムを否定し、国際主義を説くのも負け戦では(笑)。おまけに「国際主義を説いたが受け入れられずに負ける」のならまだしも、「国際主義を説いているつもりで、いつの間にかグローバリズムを正当化していた」という負け方をする危険性が高い。

中野:もちろん、負け戦ですよ。負け戦だと「諦め」ているのに、それでも正しいと訴え続ける「意地」、それこそが、九鬼の言う「いき」を実践することなのではないですか。

(「令和の新教養」研究会)

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