「都市と山村」を行き来する「土着の思想」の実践

言葉 時代 変化

本書において繰り返し語られる「土着」という言葉。微妙にその意味が変化してきているようです(写真:genzoh/PIXTA)
奈良県東吉野村への移住実践者で、人文系私設図書館「ルチャ・リブロ」主催者の青木真兵氏が、このほど新刊『武器としての土着思考:僕たちが「資本の原理」から逃れて「移住との格闘」に希望を見出した理由』を上梓した。同書を、元起業家で作家・珈琲店店主の平川克美氏が読み解く。

「土着」の意味が変わった

『武器としての土着思考』著者の青木真兵くんとは、これまで何度か対談してきた。

彼と私には、30歳以上の歳の差がある。それはちょうどワンジェネレーション、つまり親子ほどの世代の隔たりを意味している。彼と話をしていると、彼が日々考え、実践していることが、私たちが考え、実践してきたことと驚くほどよく似ていることに、ちょっとした感動を覚える。「同じだな」と思うのである。

とはいえ、微妙に違うところもある。時代が違うと言えばそれまでだが、おなじ言葉であっても微妙にその意味が変化してきているのを感じる。

たとえば、本書において何度も繰り返し語られる「土着」という言葉の語感である。この言葉は、私たちが学生運動に没頭していた時代(1970年代)にも、思想系の雑誌の紙面に躍っていた。

「土着の思想」の反対側には、「観念の思想」「形而上学的な思考」「現実の洗礼を受けていない純血思想」といったものがあったように思う。そこには、まだ現実と相まみえることがない、頭でっかちで、ブッキッシュな思想に対する、強烈な批判があった。

真兵くんは、この「土着」という言葉に、かなり独自の意味を付与している。それは例えばこんな具合である。

土着とは、自分にとっての「ちょうど良い」を見つけ、身につけること(『武器としての土着思考』20p)
実体経済がリアルであり、金融経済がバーチャルであるという二項対立的な図式の中でどちらかを選択せざるをえないと思い込んでしまうと、生きていくのが不自由になります。この対立的に語られがちな二者間を行ったり来たりしながら「ちょうど良い」ポイントを常に探っていく。僕はこれを「土着する」と呼び、推奨しています(同書74-75p)
土着とは「逃れられない病」のことです。言い換えると「身を背けようと思っても背けられないもの」とか「わかっちゃいるけどやめられない」こと(同書172p)
ブルージーでソウルフルでアーシーという意味を含むファンキーは、「逃れられない病」である土着の訳語にピッタリ(同書176p)

敵対者は「競争社会」へ

真兵くんが「土着」という言葉に込めた思いは、私たちのそれとは少し違う。私たちにとっての「土着」の思想とは、日本封建制が強いてきた下層労働者や農民の怨念に根を張った思想だったが、真兵くんの「土着」にはそのようなルサンチマンはない。

そして「土着」の思想が照準している敵対者が少し違う。真兵くんの言う土着の対極にあるのは、私たちの時代における小児病的な左翼思想(もはや懐かしい紋切り型口調)ではなく、金銭合理主義的な、競争社会である。

私たちにとって、「土着」の思想は、自らの思考を鍛え直す指標のようなものだったが、真兵くんにとっては、「土着」とは金銭合理主義が支配的な資本主義的生き方とは別の生き方を育む苗代なのである。

真兵くんがこうした考え方を組み上げていった背景には、おそらくは文化人類学者たちが観察してきたもうひとつの社会、交換経済とは異なるもうひとつの経済、異なる原理の発見というものがあったはずだ。マルセル・モースや、クロード・レヴィ=ストロースが解読した部族社会の原理は、真兵くんたちの「彼岸の図書館」のような実践に、根拠を与えている。

私たちの時代にも、すでに上記の文化人類学者の著作にアプローチすることはできたが、当時の私にとっては、それは難し過ぎて、現実の生活のなかに、どのように実装し、実践すればよいのかよくわからなかった。

私は、もっと別の書物から、自分なりの「土着」の思想を理解しようとしていたように思う。それはたとえば、画家のセザンヌが、フランスの詩人であり、美術批評家でもあるジョワシャン・ガスケに語ったこんな言葉である。

わたしはときどき散歩に出たり、市場へじゃがいもを売りにいく小作人の二輪馬車の後からついて行ったことがある。彼は、サント・ヴィクトワールを一度も見たことがなかった。彼らは、あっちこっち、道に沿って何が植わっているか、また、明日はどんな天気か、またサント・ヴィクトワールに冠がかかっているかどうか、などは知っている。犬猫のように、彼らは自分たちの必要にだけ応じてかぎつける。(ジョワシャン・ガスケ著、与謝野文子翻訳、高田博厚監修『セザンヌ』求龍堂)
ある種の黄色を前にして、あの人たちは自発的に、そろそろ始めなければならない刈り入れの仕草を感じとるのだ。(同上)

言葉を信じない地縁共同体への反発

私にとって、「土着」の思想とは、言葉の対極にある思想であり、生き延びるための知恵でもある。そうした考え方に私が共感できたのは、私が大田区の場末の工場で生まれて育ったことと関係している。私は、工場の職工さんたちから「お前は親父の後を継ぐんだ。手に職をつけろ。大学なんて行くとバカになる」と言われながら育った。

それは言ってみれば、言葉のない世界であり、言葉を信じない世界であった。私は、自分が生まれ育った言葉のない地縁共同体に強い反発を覚え、そのしがらみの世界から逃れることに必死だったように思う。

ときおりその頃のことを思い出すことがあるが、今なら言葉のない世界の住人たちが、その価値判断や実行力において言葉の世界に生きるものたちに劣るところはないということがよくわかる。吉本隆明が同じことを書いており、私は深くその影響を受けてきた。

2つの世界を往還した私にとって、相反する2つの世界を架橋することが、自分がものを書くことの動機であるとさえ思っている。拙著『21世紀の楕円幻想論』はその試みであった。

強い意志で平凡な日常を生きる

真兵くんの「土着思想」には、私が考えていたような、重苦しい、錆色の風景はない。

『男はつらいよ』の寅さんや、嘘を嘘と知りつつ演じ切る力技としてのプロレスについて語っているように、そこにあるのは、極めて現代的な風景の中における人間的な生き方への模索である。

真兵くんがその独特の「土着」の思想に行き着くきっかけになったのは、家で友人たちと鍋やタコパ(たこ焼きパーティー)をしているとき、これ面白いよと本をすすめたり、反対に貸してもらったりした「個人的な体験」であったと言う。そして、彼が作ったルチャ・リブロという東吉野村の私設図書館は、こうした「個人的な体験」の積み重ねの延長にあるのだと言う。

私は、自分がそうだったような重苦しい、錆色の風景の中から出てくる「土着」の思想に比べて、真兵くんのそれはちょっと軽すぎるじゃないかと批判したいのではない。

反対に、極めて個人的な、どこにでもあるような体験の積み重ねのなかから、独自の「土着」の思想へと行き着いたことに驚きと、強い共感を覚えるのである。誰にでもできることではないが、日々の生活の中でさえ、やろうと思えば可能な実践。簡単な言葉でいえば、「地に足をつけ」て、人間サイズの生活を何よりも大切にするということである。真兵くんは、強い意志で、平凡な日常を生きている。

これから先、この清々しい思想家であり、実践家がどこへ向かうのか、私は応援しながら見続けてゆきたいと思う。

(平川 克美 : 作家、隣町珈琲店主)

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