グローバリズムに変質しない「国際主義」は可能か

地図と地球

哲学者・九鬼周造を切り口に、グローバリズムとナショナリズムを論じた座談会の第2回をお届けします(画像:freeangle/PIXTA)
本来であれば格差問題の解決に取り組むべきリベラルが、なぜ「新自由主義」を利するような「脱成長」論の罠にはまるのか。自由主義の旗手アメリカは、覇権の衰えとともにどこに向かうのか。グローバリズムとナショナリズムのあるべきバランスはどのようなものか。「令和の新教養」シリーズなどを大幅加筆し、2020年代の重要テーマを論じた『新自由主義と脱成長をもうやめる』が上梓された。同書にゲスト参加している古川雄嗣(北海道教育大学旭川校准教授)による基調報告をもとに、中野剛志(評論家)、佐藤健志(評論家・作家)、施光恒(九州大学大学院教授)、古川雄嗣の各氏が、哲学者・九鬼周造を切り口にグローバリズムとナショナリズムを論じた座談会(全3回)の第2回をお届けする(第1回はこちら)。

「日本主義」と「世界主義」

古川:今回は「九鬼周造の哲学を切り口にグローバリズムとナショナリズムについて考える」というテーマですので、九鬼が「日本的性格について」という講演の中で論じている「日本主義」と「世界主義」との関係を、議論の土台としてお示ししたいと思います。

新自由主義と脱成長をもうやめる

まず、「日本主義」は「日本人の国民的自覚に基いて日本独特の文化を強調して、自己の文化的生存権を高唱する立場」と定義されています。日本人の「国民主義」、すなわちナショナリズムです。他方、「世界主義」は、「自国を価値の絶対的基準というような独り良がりなことを考えないで自国以外の他の諸国の特色や長所をもそれぞれ認め、その正当の権利を尊重して人類共存を意図する立場」とされます。つまり、これはインターナショナリズムです。九鬼も、この意味での「世界主義」とは「国際主義」であると言っています。

そして、「両者の関係はつまりは個別と一般との関係に帰着すると考えられる」と。これは哲学的な背景の話ですが、「一般(普遍)は個別の中に現れる」という考え方です。各国の文化はそれぞれに独自の文化的感覚を持っていて、それに基づいて世界を知覚・認識する。その意味で、「各国の文化は世界全体に対して文化的個体とでもいうようなものを構造している」。これらは互いに同じではない、つまり通約不可能だと九鬼は言います。

古川:このことを九鬼は、都市の例を使って、わかりやすく説明しています。

たとえば同一の都市を色々違ったところから眺めたようなものである。都市そのものは同一であっても、それを眺める者の占める位置によって同一の都市が各々ちがった姿や感じを提供するのである。世界全体を一つの都市に譬えれば、各国の文化的個体はその一つの都市を眺めるそれぞれちがった仕方のようなものである。且また、現実としては、それぞれの立場から眺められるその都市の各々違った諸々の姿や感じから遊離したその都市の姿そのもの、感じそのものというようなものはない。その都市そのものというようなものは諸々の姿や感じの中に綜合的に与えられるのである。要するに文化的個体は歴史的、風土的に各々規定されている。世界的文化というものは各々の文化的個体の綜合の中に与えられるのである。

これが、「個別」と「一般」、あるいは「部分」と「全体」の関係です。

自然科学や数学にも国民的性格は現れる

古川:このたとえに基づいて言うと、日本主義とは「一つの都市を眺める日本人の国民的な独特な仕方」を「日本的性格」として自覚すること。他方、世界主義とは「自己の特殊な仕方の外にも他の多くの仕方のあることを知って、各々違った立場から眺めているものが同一の都市であることを認める」ということです。

古川 雄嗣(ふるかわ ゆうじ)/教育学者、北海道教育大学旭川校准教授。1978年、三重県生まれ。京都大学文学部および教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。専門は、教育哲学、道徳教育。著書に『偶然と運命――九鬼周造の倫理学』(ナカニシヤ出版、2015年)、『大人の道徳:西洋近代思想を問い直す』(東洋経済新報社、2018年)、共編著に『反「大学改革」論――若手からの問題提起』(ナカニシヤ出版、2017年)がある(写真:古川雄嗣)

そして、「同一の都市であるという同一性に世界的性格が見られる」。したがって、「日本的性格と世界的性格、日本主義と世界主義とは乖離的に対立するものではない。むしろ相関的に成立するものである」ということになるわけです。

面白いことに、九鬼は、最も客観的な自然科学や数学、今日であれば経済学や経営学を加えてもよいと思いますが、そこにも実は国民的性格が現れると言っています。

例えば、エネルギーの法則において、イギリス人のジュールは実験によって基礎を築き、ドイツ人のマイヤーは観察から一般的原理を推論し、フランス人のカルノーは特殊的なものに注目してエントロピー増大の法則を立てた。

これらはそれぞれ、経験から出発して帰納的推論を重視するイギリス人、合理的推論と一般原理を重視するドイツ人、一般法則からこぼれ落ちる例外的・特殊的なものに注目するフランス人という、それぞれの国民的性格を現している。このように、「超国民的」な科学的研究においても、実は「一種の国民的分業が行われている」と九鬼は言うんです。

古川:そうだとすると、「各国の文化の特殊性を発揮することによって世界全体の文化が進歩する」ということになります。「各国の文化に対立した世界全体の文化」などというものは、たんに抽象的な理念にすぎず、現実には存在しません。ゆえに九鬼は、「我々に日本国民として日本的性格の自覚がないならば我々の十分な存在理由もないことになる。あってもなくてもいいものになってしまう。世界的文化の創造に対して無能力者になってしまう」と警鐘を鳴らすわけです。

以上のような九鬼の認識は、ほとんどそのまま、今日のグローバリズム批判になっていると言えるでしょう。「各国の文化に対立したグローバルな世界的文化」など、現実には存在しません。ナショナリズムとグローバリズムが対立するわけではないのですね。むしろ、各国の特殊的・個別的な文化的感覚に基づいた、ナショナルな世界認識としての文化が多様に存在し、それが協働していくことによって、はじめて「グローバルな世界的文化」が、具体的な内実をもって発展していくわけです。

にもかかわらず、ナショナリズムはグローバリズムに対立すると考えて、ナショナリズムを否定してしまえば、まさに九鬼が言うように、日本人は「世界的文化の創造に対して無能力者になってしまう」でしょう。いわゆる「グローバルに活躍する日本人」を育てたいのであれば、まずナショナリズムに立脚して、日本の文化的特殊性に自覚的でなければならないということです。

そのうえで、日本とは異なる各国の文化的特殊性を尊重して、お互いに学ぶべきところを学び合っていく。こうして本当の意味で世界が発展していくわけです。これはまさしく、国民保守主義をめぐる前回の研究会で施さんからご提言のあった「国際化」の路線ですね。「グローバルに」というよりも、「国際的に」活躍できる日本人をめざしていくべきだというのが、九鬼の主張でもあったわけです。

中野:ありがとうございました。それでは、施さんからコメントをいただけますか。

一般性は個別性の中にこそ宿る

:はい。どうもありがとうございました。非常に面白く拝聴しました。九鬼が望んでいたこと、「グローバル化」と「国際化」に関する考え方もまさにそのとおりだと思います。普遍的なものや一般的なものは個別性の中にしか現れないという見解にもまったく同感です。

例えば、日本や他の国々が自分たちの個別性を追求する中で、その過程で一般性というものの中身が充実していく、という構造が確かに存在すると思います。このあたりのことについては、昨年私が書いた「ポスト・グローバリズムの世界秩序の探求 : カール・ポパーのナショナリズム論に対する批判的検討を手がかりとして」(『政治研究』第70号、2023年)という論文でも触れていますので、古川さんにもぜひ読んでいただきたいです(笑)。

:それで、今のお話を聞いて、言語を例に取ると理解しやすいかもしれないと感じました。つまり、わたしたち日本人は、世界を認識するためには母語である日本語を通じてでなければ、より深く理解することは難しいと思うんですよね。外国語を一所懸命勉強すれば、ある程度使えるようにはなるでしょうが、皮膚感覚まで理解するためにはやはり母語が必要です。ですから、われわれの認識の道具でもある日本語を徹底的に洗練しなければ、よりよい認識にはたどり着けないと思うんですね。

施 光恒(せ てるひさ)/政治学者、九州大学大学院比較社会文化研究院教授。1971年、福岡県生まれ。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士(M.Phil)課程修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 (集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)など(写真:施 光恒)

しかし、いかなる言語も所詮一つの角度からの眺めでしかないということも事実です。どの言語もその言語の持つ世界観は非常に限定されているため、私たちは日本語を洗練し充実させると同時に、その限界や偏りも認識しなければなりません。

だから、カントやポパーが言ったような一種の統制的理念として、客観的世界の完全な把握は絶対にできるものではないけれども、いわば、あこがれてというか、まさに媚態を発揮して他の文化や言語から学ぶ。だけど、自分の限界もよく知っている、つまり、まさに諦めも知っていて、ある種、ジタバタしていくしかない存在というのが人間なんだろうなと思うんですね。

そういう意味で、よりよき認識にたどり着くためには、やはり私はネーションにこだわりたい。もっと具体的に言ったら、ナショナルな言語にやっぱりこだわる。それは他の国々も同様だと思うんですね。ですから、世界のさまざまな国々の人びとが自分のネーションにこだわり、その文化や言語を洗練する一方で、他の文化や言語からも積極的に学ぶという姿勢を持つ。これが真の国際主義の実現につながるのではないでしょうか。

日本語を豊かにすることへのこだわり

古川:まったく同感です。特に、他の言語や文化から学ぶことで自国の言語や文化を豊かにしていくというのは、それこそまさに九鬼が実践したことです。「実存」や「被投」「投企」など、現代の哲学用語の多くは、九鬼が作ったものです。それぞれの哲学の概念について、どういう日本語が訳語としてふさわしいかを慎重に考えて、他の哲学者と論争もしています。西洋の言葉をそのまま片仮名で使うのではなくて、日本語化することに非常にこだわったわけです。

なぜかというと、それによって、日本語の語彙が増え、日本語が豊かになるからでしょう。語彙が増えて豊かになるということは、それだけ日本人が日本語で認識する世界が豊かになるということです。もっと言えば、そこまでいかなければ本当の意味で他の文化から何かを「学んだ」ということにはならないと考えていたのではないかと思います。

第1回の記事でもお話ししたように、九鬼は「外来語所感」というエッセイで、外来語を翻訳する努力をせずに片仮名で済ませてしまう風潮を激しく批難しています。これも、国粋主義的な外国語排斥のように思われがちですが、けっしてそうではないと思いますね。

中野:次に、佐藤さんのご意見を伺えますか。

『マッドマックス』も「いき」ではないか

佐藤:九鬼周造にはまったく詳しくないものの、古川さんの論文は非常に面白く拝読しました。言語と翻訳の問題をめぐる施さんの発言も、たいへん重要だと思います。

佐藤 健志(さとう けんじ)/評論家・作家。1966年、東京都生まれ。東京大学教養学部卒業。1990年代以来、多角的な視点に基づく独自の評論活動を展開。『感染の令和』(KKベストセラーズ)、『平和主義は貧困への道』(同)、『新訳 フランス革命の省察』(PHP研究所)をはじめ、著書・訳書多数。さらに2019年より、経営科学出版でオンライン講座を配信。これまでに『痛快! 戦後ニッポンの正体』全3巻、『佐藤健志のニッポン崩壊の研究』全3巻、『佐藤健志の2025ニッポン終焉 新自由主義と主権喪失からの脱却』全3巻が制作されている(写真:佐藤健志) 

ただし九鬼の思想については、無自覚な前提が議論にいろいろ入り込んでいる印象を受けました。そのせいで論理的に話を展開すればするほど、結論がおかしくなってくるというのが正直な感想です。

では、具体的にどこが引っかかったか。まずは、普遍主義と個別主義の分類が曖昧な点です。九鬼は最初、「いき」の理念自体は普遍的で、欧米人にも理解しうると主張しましたが、その後、「いき」は日本の特殊性のもとに成り立っているので、欧米人にはせいぜい表面をなぞることしかできない、そんな普遍性はニセモノだと主張するにいたりました。

異質な文化が生み出した表現を、ただ模倣してもニセモノに終わる。これは確かに正しい。ただし、そのことをもって「いき」の理念に普遍性はないと結論づけていいだろうか。

「いき」の理念自体は普遍的だが、具体的な表現との対応関係は文化ごとに違っていると考えることもできるわけです。この場合でも、日本流の「いき」の表現を外国人が模倣したらニセモノに終わる。しかしそれは、「いき」の理念を理解できるのが日本人に限られるからではありません。外国人ならば、自国の文化を踏まえた形で「いき」を表現しなければならないのに、それをやっていないというだけの話。

オーストラリアの映画監督ジョージ・ミラーは、代表作『マッドマックス』シリーズについてこうコメントしています。いわく、『マッドマックス』はオーストラリア独自の自動車文化を踏まえたカーアクション映画であり、その意味では特殊性が高いが、英雄神話という点では普遍的だ。物語の舞台が日本だったら、主人公マックスは侍になる。アメリカなら流れ者のガンマン。バイキングの勇士になることもあるだろう。しかし、本質は変わらない。自分が「個別の特殊性」にこだわる立場を取っているという以外に、九鬼はこれを否定する論理を持ちえているのか。

現に「日本的性格について」に登場する都市のたとえは、普遍主義の発想に基づいています。個別主義に立つのであれば、「異なる文化に生きる国民は、それぞれ違った都市に住んでいる。同じ都市を違った角度から見ているように思いたがるかもしれないが、それは錯覚である」と言わねばなりません。ミイラ取りはこうしてミイラになるのです。

続いて文化の「通約可能性」について。どうも九鬼は、言語を使って抽象性や観念性を高めることだけが、文化間の相互理解を可能にすると思い込んでいるふしがある。そのような「翻訳」は、ナマの人生体験から遠ざかってしまうので、実感をもって理解したことにはならないというわけです。

佐藤:しかし論理や観念とは異なる手段で、異文化を理解することもできる。イギリス出身の名演出家ピーター・ブルックは、『鳥の会議』という芝居でバリ島の仮面を使いました。とはいえ欧米の役者が、バリ島の仮面劇の所作をただ模倣しても説得力がない。

そこでブルックの役者たちは、仮面を観察したり、その性質を探ったりすることで、自分と仮面の関係を見つけようとした。その結果、バリ島に伝わる所作とは異なる形で、仮面を使いこなすにいたったのです。役者の肉体を媒介にして、観念と実感を融合できるのが演劇の強みですが、九鬼はこのことを知らなかったのでしょう。

「偶然の必然化」は覇権志向への道

佐藤:以上の点を踏まえて、日本主義と世界主義に関する議論を検討します。九鬼は両者の関係について、無窮(=永久)の道徳的実践と規定しました。自己の個別性・特殊性を尊重しつつ、異質なものに触れることで自己を解釈し直し、その結果、「個別的なものの総合」たる普遍のあり方も再解釈するというプロセスです。

では、なぜそんなことをしなければならないか。九鬼の言葉を使えば「偶然の必然化」を実現するためです。どんな国の文化も個別性を持っていますが、それが単なる偶然の産物でしかなかったら、そんな文化はあってもなくてもよいことになる。言い換えれば、われわれ自身の存在も、あってもなくてもよいものになってしまいます。アイデンティティを安定させるには、個別性を「偶然の産物」にすぎないものから、必然的なものへと高めねばならない。

しかし「必然に高める」ためには、おのれの個別性の中に普遍性が宿っていると構える必要がある。普遍性に到達するのは不可能とされているものの、偶然の必然化をめざす行為自体が、普遍性の追求へと不可避的に行き着くのです。けれどもこうなると、十分に必然化された文化は、普遍性を実質的に獲得しているはずだという話になる。

文化は本来、ひとしく偶然的であり、ひとしく個別的です。すべての文化がそれぞれの個別性を持つことで、世界の文化が成り立っている。しかし偶然の必然化をめざすのは、「必然化の進んだ文化は、普遍性を実質的に獲得している点で、偶然性の段階にとどまっている文化に優越する」ことを認めるにひとしい。

ジョージ・オーウェルの『動物農場』に登場した有名なフレーズではありませんが、「すべての文化は平等である。ただしある種の文化は、他の文化よりも、もっと平等である」。特定の文化による覇権が正当化されてしまうのです。となれば、他の文化に属する人々は、覇権的な文化への適応を必然的に求められる。九鬼の議論が、グローバリズムを否定するものになりえたとは到底言えません。

佐藤:20世紀後半のアメリカ文化は、このような覇権的文化の代表格でしょう。「多をもって一となす」というモットーのとおり、同国は「すべての偶然性がここに収斂するのだから、アメリカこそが普遍だ」とする姿勢を取った。そして政治的・経済的・軍事的な覇権に支えられ、この姿勢に相当な説得力を持たせることに成功したのです。

くだんの傾向をいっそう強めるのが、国境を越えた経済活動の高まり。経済を動かすのは「貨幣」という数字ですが、これは言語よりも普遍性が高い。なにせ為替によって、通約可能性が保証されているのです。けれども文化は、よくも悪くも経済を基盤にしなければ成立しえません。

要するに九鬼周造の議論は、狭義の哲学に視野を限定しないかぎり破綻を運命づけられたものであり、したがって国際主義の可能性どころか、その不可能性を浮き彫りにしているのではないかと思います。

九鬼の議論に見られる転換

古川:重要なご指摘をありがとうございます。私の見方では、実は1930年の『「いき」の構造』と、1935年の『偶然性の問題』とでは、「必然性と偶然性」や「一般と個別」「部分と全体」の関係の捉え方が大きく転換しています。この点についての説明を今回の報告では割愛したので、かえって混乱させてしまったかもしれません。

簡単に言えば、『「いき」の構造』の時点では、いわば完全な個別主義で、相互に異なる個別と個別との間にいっさいの連絡はないかのように考えられていました。しかし、『偶然性の問題』では、根底のところで普遍的なものにつながっているという見方が強くなってきます。今回取り上げた講演「日本的性格について」は、1937年のものですから、この見方に基づいています。ですから、まさに佐藤さんのご指摘のとおり、完全な個別主義ではなく、むしろ個別的なものを通路とする普遍的なもののほうが、より前景に出てきています。

私は大学院生の頃に、九鬼の偶然論をベースにして「宗教的多元主義」について考える論文を書いたことがあります。若かりし頃の雑な論文なので今となっては葬りたい過去なのですが(笑)、そこで宗教の多元性について、対立する2つの考え方があることを論じました。

寓意的に言うと、1つは、「神は多くの名前を持つ」という考え方です。キリスト教では「神」と呼ばれている普遍的な唯一の実在が、さまざまな宗教で異なる名前で呼ばれている。これは単純なイデア論で、文化や宗教によって語られ方は異なるけれども、どれも同じ「共通の本質」を持っていると考える普遍主義です。

他方、これを批判する人は、神は多くの名前「を持つ」のではなく、多くの名前「である」と言います。普遍的な実在の構造そのものが多元的なのであって、それぞれの宗教は、それぞれの仕方で、何らか普遍的なものを現している。しかし、それはあくまで個別具体的であり、相互に通約できない。個別的なものの具体性を捨象し、「共通の本質」だけを抽象して、それを普遍性だと称するのはおかしい、というのです。

古川:九鬼の立場は後者に近い。しかし、これはこれで危ういところもあって、あらゆる文化や宗教が普遍的なものを現しているというなら、じゃあオウム真理教だって普遍的なのかという話になります。それが、九鬼が批判している「恣(ほしいまま)な得手勝手な日本人」でしょう。だから九鬼は、つねに他の文化に学びながら、「日本文化を世界的理念に根付かせる努力」をしなければならないというわけです。

佐藤:しかしその場合、第1回の記事で古川さんが紹介された坂部恵先生の批判にも一理あることになる。「閉鎖的な文化特殊主義だ」と言って批判するからハズしているのであって、「覇権志向的な文化特殊主義を正当化するものだ」なら間違っていない。自国の文化の中に普遍にいたる道があると構えたら最後、そうならざるをえないのです。

「理解はできるけど、同意できない」

中野:もしそうだとすると、「日本文化講義」を思想局が弾圧しなかった理由がわかりますね。おそらく、八紘一宇と同じ思想に見えたのでしょう。

古川:一歩間違えるとそうなりますね。その「一歩」というのは、個別的なものの中に含まれる抽象的な普遍性を、現実的な普遍性と取り違えるということだと思います。

佐藤:近代日本はもともと、欧米の文化に普遍性を認めて、それに合わせようとするところから始まっています。「いき」の哲学にしても、その条件のもとで、自分たちの個別性を守るべく生まれたものだと思うんですが、これではいつまでも欧米に媚びなければならない。となれば「いつか全世界がわれわれの文化の優越性を認め、こちらに媚態を示す日が来る!」と言いたくなるのは自然のなりゆき。「いき」と「いい気(=自己陶酔)」が紙一重であるように、「意気地」と「意固地」も紙一重なのです。

古川:近代日本の誤りは、西洋文化に含まれる抽象的な普遍性を、現実的な普遍性と取り違えたことです。そうなると、西洋=普遍、日本=個別ということになり、日本はどこまでも日本の個別性を否定して西洋に合わせなければならないということになる。他方、八紘一宇はそれを裏返して、日本=普遍、西洋=個別と考える。そのどちらも間違っているというのが、九鬼の講演の趣旨です。

中野:私からも一点確認させてください。「通約不可能」という言葉の意味は、「理解できない」ということでしょうか。同じものではないのは当然そうなんですが、理解できないのか、真似できないのか、同意できないのか。「理解はできるけど、同意できない」ってあるじゃないですか。認識のレベルでの一致・不一致の話なのか、それとも規範的ないい・悪いの話なのか。

古川:理解はできるが、完全には理解できない。あるいは、理解できたつもりになっても、実は異なる理解になっている。そういうことだと思います。

中野:そういうことかもしれないですね。ちなみに、マックス・ウェーバーが理念型の話をするときにも都市経済を例示しています。われわれは、ハンブルグ、東京、ロンドン、ニューヨークの4都市を見ても、それぞれまったく異なる都市だけど、それらを「都市経済」として理解している。抽象概念としての「都市経済」は普遍的ですが、実在するのは、あくまでハンブルグ、東京、ロンドン、ニューヨークといった個別具体の都市の経済であって、抽象的な「都市経済」は実在しない。

中野 剛志(なかの たけし)/評論家。1971年、神奈川県生まれ。元・京都大学工学研究科大学院准教授。専門は政治経済思想。1996年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。2001年に同大学院より優等修士号、2005年に博士号を取得。2003年、論文‘Theorising Economic Nationalism’ (Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に山本七平賞奨励賞を受賞した『日本思想史新論』(ちくま新書)、『TPP亡国論』(集英社新書)、『富国と強兵』(東洋経済新報社)、『小林秀雄の政治学』(文春新書)などがある(撮影:尾形文繁)

先ほどの神の話だと、「神が多くの名前である」よりも、「神は多くの名前を持つ」に近い。

古川:ウェーバーの場合はそうですね。共通の本質を理念として抽象している。

中野:「神が多くの名前である」というのは、ちょっと理解し難いですね。神という存在をA・B・C・Dと個別に名付けて、いろんな神がいるんだって言っているけれど、「神」と言っている時点で、神と神じゃないものの区別をつけていて、個別具体的なA・B・C・Dという神の中に「神」という普遍的な概念があると言っているわけですよ。

このように、抽象的なレベルでは通約可能だけど、具体的なレベルでは通約不可能ということなのではないでしょうか。

佐藤:個別的な経験は通約不能で、抽象的な観念のみが通約可能というのは、インテリの自尊心をくすぐるんですよ。自分たち以外に、文化の相互理解を担える者はいないことになりますから。しかしピーター・ブルックの仮面の話が示すとおり、それは多分にうぬぼれだと言わねばなりません。

古川:体験のレベルでの通約の可能性そのものは、九鬼も否定はしないと思います。というか、そもそもそれは否定も肯定もできない。わからないからです。

西洋人が、いわば本物の「いき」を体験することだって、当然あるでしょう。逆に、日本人でも「いき」がわからない人はいくらでもいます。私も全然わかりませんし(笑)。

でも、そういう体験のレベルで本当にわかっているかどうかなんて、確かめられないですよね。自分たちがわかり合えているかどうかを確かめるためには、言葉によるほかない。けれども、言葉にしたとたん、それは体験の直接性を離脱してしまう。九鬼が問題にしているのはそういうことです。

ですから、インテリかどうかというのは、あまり関係のないことではないかと思います。誰だってそうなのですから。

ユニバーサルとグローバルの違い

中野:関連して、もう一つ、ユニバーサル(普遍)とグローバルの違いについて指摘したいと思います。ユニバーサルは個別の中に抽象的なものとしてあるが、グローバルは具体的で、個別的な違いを無視して一律にするものです。

たとえば、世界中をキリスト教にすることはグローバルですが、宗教を認め、そしていろんな種類の宗教を認めることはユニバーサルです。だからユニバーサリズムとグローバリズムとは別物です。ユニバーサリズムとグローバリズムを混同することは、グローバリズムとインターナショナリズムを混同することと同じくらい誤解のもとになってるんじゃないか。

ユニバーサルをグローバルと勘違いした者が、ユニバーサリズムと称して、世界中を一つの型でならそうとするのが問題なのです。その意味では、九鬼周造の議論は最初から最後まで、グローバリズムが入る余地はないですね。

中野:つまりユニバーサルというのは、個別具体的には、いろんな姿で現れる。

例えば、自由の概念は国ごとに異なります。スウェーデン人の自由は福祉国家的で、アメリカ人の自由はリバタリアン的です。それぞれの国で「自由」の意味は異なりますが、どの国も自由そのものを否定しているわけではありません。このように、抽象概念としての自由はユニバーサルですが、具体的に表現されると一つではなく多様な形を取ります。

古川:非常に重要なご指摘だと思います。九鬼は中世哲学の伝統を受け継いでいますから、彼の言う「普遍」というのは、あくまでユニバーサルなものです。文字どおり宇宙的、あるいは神的な次元のもので、そんなものが目に見える具体的な現実の中にそのままで存在するわけがありません。グローバリズムというのは、そういうユニバーサルなものが見失われた近代世界において、現実の中にある何らか特定の具体的なものを普遍とみなす誤解に基づいていると言えそうです。

ユニバーサリズムは実践によって破綻する

佐藤:九鬼がグローバリズムを考えていないことは、九鬼の議論にグローバリズムの入り込む余地がないことを意味しません。ここでのキーワードは「実践」です。九鬼は「無窮の道義的実践」を説くものの、ユニバーサリズムの実践を試みると、遅かれ早かれグローバリズムに変質するのではないか。理由は簡単で、個別的な文化が本来すべて対等であるとしても、文化間の優劣は、国同士の力関係という形で厳然として存在するからです。

中野:その対等っていうのが、政治的・倫理的な意味だったらそうかもしれないけれど、認識の意味では別に平等とか関係なくて、どっちが優れているかって話ではないんですよ。

佐藤:道義的実践を説く思想が、実践を放棄することでしか整合性を維持しえないのでは本末転倒と言わざるをえない。そもそも「いき」の根底にあるのは、このままでは近代西洋の文化的覇権が日本の個別性を消し去ることへの不安でしょう。「普遍性を獲得した日本文化による覇権」というグローバリズムに流れるほうが自然だと思いますが。

中野:政治のレベルに落とし込むと難しいというのは、まさにそのとおりです。ただ、今、私が議論しているのは、政治的なレベルに落とし込む前の哲学的な世界についてです。ユニバーサリズムが個別の中にのみ普遍はあるとする立場なら、個別の多様性を認めないグローバリズムは、ユニバーサリズムを否定するものだということは強調しておきたい。

(「令和の新教養」研究会)

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