「千年古びない浮気描写」の妙を角田光代と語る

小児性愛や連れ去りといった、現代においては不適切とされる場面も多々ある『源氏物語』。訳者としてどう向き合った?(撮影:今井康一)
NHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部。彼女が書いた『源氏物語』は、光源氏が女たちとさまざまな恋愛を繰り広げる物語であると同時に、生と死、無常観など、人生や社会の深淵を描いている。
『対岸の彼女』で直木賞受賞、『八日目の蟬』などヒット作を多数持つ作家・角田光代氏は、54帖からなる『源氏物語』の新訳に5年をかけて取り組んだことで、「仕事に対する考え方がすごく大きく変わってしまった」と話す。
千年前に書かれた物語が、現代人に何を語りかけるのか。新訳が順次文庫化されている角田氏に、改めて聞いた。
東洋経済オンラインでは角田氏の新訳『源氏物語 1 』(河出文庫)から第1帖「桐壺」(全6回)、第4帖「夕顔」(全10回)など、名帖を厳選して配信しています。
制作:こばやしとなかむら

あえて”乱暴”な方法で訳した理由

――源氏物語の現代訳に取り組むことになったきっかけは?

河出書房新社で池澤夏樹さんが個人編集する「日本文学全集」という、古事記から現代の作品までをそろえるプロジェクトが立ち上がった際、源氏物語はぜひ角田さんに、という依頼をいただき、断れずに……(笑)。

「3日くらい考えさせてください」とは言ったものの、私自身池澤さんの大ファンだったので、断る選択肢はありませんでした。

源氏物語は高校時代、教科書に載っていた部分を読んだ程度で、(訳者が)私でいいのかという不安はありました。ただ、これまでそうそうたる作家の皆さんが訳しているわけだから、今になって私がこっそり訳してもいいんじゃないかと、力まずに済んだ部分もあります。

――訳に取りかかる前、初めて通しで読んだ際の感想は?

「とくにわかりやすい」とおすすめされた現代訳を読んだのですが、それでもやっぱり長いし、よくわからない。読み切るのには苦労しました。

そんな折、平安文学研究者の山本淳子先生の『平安人の心で「源氏物語」を読む』という本に出合って、これがものすごく面白かった。いわゆるダイジェスト版です。当時平安で何がはやっていて、どうしてこういうことで皆がキャーキャー言っているのか、みたいな解説も入っていて。

ダイジェストならこんなに面白いのに、全文だとのめり込めないのはなぜ?と思いました。そこで私の訳では、かなり乱暴ではあるのですが、”敬語を抜く”という方法を採りました。

――「乱暴」というと?

源氏物語は敬語の文学と言われていて、謙譲語、尊敬語、二重敬語など、誰を上げて誰を下げる、という行為から人物同士の関係性がわかるんです。ただ、敬語がたくさんあるがゆえに読みにくいのも事実。ならば、敬語から関係性を探る楽しさはあえて捨ててしまおうと。

会話文以外は基本、敬語を省いて訳しました。あとは、長い文章を短く区切ったり、主語をはっきりさせたり。とにかく端的な文章で、今何が起きているのか明確にわかるようにと心がけました。

話がクリアにわかると人間ドラマが際立ちます。あのときこういうことがあったから、この場所で2人は出会ってしまって、出会わなければ起きなかった悲劇が起こり……みたいな、小説本来の面白さですね。

千年前の「浮気描写」がすごい

――確かに角田さんの訳を読んで、現代に置き換えても古びない言動や場面描写がたくさんあると感じました。

私が現代風にアレンジしたのではまったくなく、紫式部が書いていることそのままなんですよ。びっくりしますよね。

例えば、夕霧という男性の話が印象的でした。長らく引き離されていた相思相愛の人とやっと結婚できて、子どももたくさん生まれて、源氏物語にこんなに幸せな人はほかに出てこないよ、というくらい幸せなんだけど、やっぱり浮気をして。

その描写がすごい。家の中は散らかっていて、子どもが泣いてわめいて、奥さんは片乳出して赤ちゃんをあやしている。一方、浮気相手は未亡人で、しーんとしたきれいな部屋で、しっとりみやびやかに暮らしている。煩わしい日々の生活から逃げ出すような浮気なんですね。

これって、現代でもほぼ同じようなことが起きているじゃないですか。今小説に書かれていても、全然不思議ではない。そういう描写が千年前にすでにあったというのは、すごいなと思いますよね。

――一方、源氏物語には小児性愛や連れ去りといった、現代においては不適切とされる場面も多々あります。訳者として、また読者として、どう向き合いましたか?

とくに嫌悪感はありませんでした。千年前の、しかもフィクションに、現在の不適切という感覚を当てはめては考えませんでした。ただそんな中でも、時代の変化みたいなものは確かに感じました。

『源氏物語』には、歴代の専門家たちの中でも解釈が別れている部分がある(撮影:今井康一)

どういうことかというと、例えば、藤壺のお話。光源氏は父親(帝〈みかど〉)の後妻である藤壺と浮気して身ごもらせてしまうのですが、この逢瀬のとき、藤壺自身は光源氏をどう思っていたのか。つまり、忍び込んでくるのを待っていたのか、それとも拒んだのに犯されてしまったのか。

この点、実は歴代の源氏物語の専門家たちの中でも解釈が分かれているんです。訳し終わってしばらくしてからそのことを知って、びっくりしました。

何がびっくりって、解釈の入り込む余地なんてないと思っていたんです。「待っていた」とはどこにも書いてないし。だから、それぞれの解釈には「どう読みたいか」が少なからず影響しているのではないかと感じました。

ちなみに私は、藤壺は「嫌だった」派なんですね。嫌だったのに犯されてしまって、だから帝に顔向けできないと。創作が入るなら別ですが、原文を読む以上はみんなそう受け取るだろうと、疑いもしませんでした。

「#MeToo運動」広がった後の訳者

――角田さんがそう読んだ背景に、「時代」があると。

私が、#MeToo運動(セクハラや性犯罪被害の体験を共有し、それにあらがう運動)が広がった後の訳者であるのは大きいと思います。たぶんその考え方が、私の中にも根付いている。だから藤壺も、ウエルカムだったはずがない、嫌だと言えなかったのだと、自然に捉えたのかなと。

実際、そういう話がよく騒がれていますよね。被害を受けたと告発した人が、「それならなぜ被害に遭ったそのときに言わないの?」みたいに責められるケースもある。いや、言えなかったんでしょう。そうされた自分が悪かったのだと思い込んでしまったんでしょう。

やっと最近「そのとき言えなかったのは、受け入れたのではなくて、嫌すぎて認められなかった」という声が理解されるようになりましたよね。完全に理解されたとは言いがたいですが。

そんな時代の中にいると、やっぱり藤壺もそうだったんじゃないかと思ってしまう。10年前に読んだならこういう感想を持たなかったかもしれないし、もし50年後に訳す人がいるなら、また別の読み方、感じ方をするのかもしれません。

――以前のインタビューで、「源氏物語は少年ジャンプの人気連載のよう」と語っているのが印象的でした。

源氏物語は紫式部が1人で書いたという前提で考えると、その過程で、式部という人は物語づくりがどんどんうまくなっていくんですね。

角田光代(かくた・みつよ)/1967年生まれ。1990年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。著書に『対岸の彼女』(直木賞)、『八日目の蝉』(中央公論文芸賞)など。2015年から5年をかけて取り組んだ『源氏物語』の現代訳では読売文学賞受賞(撮影:今井康一)

最初は拙い短編のような感じなんですが、宮中にお勤めして、日々きらびやかな世界を見て、いろいろな人の話も聞いて盛り込んでいったのでしょう。読者の反応も届くようになったと思うんですが、そうするとそれに応えるかのように、さらにエンターテインメント性を帯びていきます。

とくに「若菜」の帖はすっごく面白い。作家としてまさに脂が乗り切っているな!と感じました。現代小説でいう、伏線があって回収して……という流れが詰め込まれていて、さらに人間の複雑な気持ちもしっかり描かれている。すごい完成度だと思いました。

この感じ、現代の作家にも重なります。1人の作家がデビューして、編集者や評論にもまれながら一生懸命勉強して、成長していく。昔も今と同じだったのではないかと想像します。

なぜ「光源氏の死後」まで物語が続いた?

――そのピークを過ぎても、源氏物語は続いていきます。

そうですね。あるところから、具体的には「宇治十帖」のパートですが、紫式部は皆を喜ばせるためじゃなく、仕事を失わないためでもなく、自分のために書き始めたような気がします。これは先に紹介した山本淳子先生の話などを聞くにつけ、最近強く思うようになったことです。

読者として不思議なのは、源氏物語なのだから光源氏が死んだところで終わっていいじゃないか、ということ。でも、終わらなかった。そう考えると、作者に光源氏の栄光よりもっと書きたいものがあったんじゃないかと思わずにいられません。

「宇治十帖」みたいな地味で人間臭い話が、宮廷で続きを待っていた人たちを喜ばせるはずはないと思うんですね。するとやっぱり、ここは本人が書きたくて書いたパートなんじゃないかなと思うようになりました。

――現代訳に取り組んだ5年間をどう振り返りますか。

とにかく長い、終わらないというのが大変でした。自身のスタイルとして、以前から基本的には平日9~5時で仕事をしてきましたが、それでは全然終わらない。残業しまくり、休日出勤しまくりの日々でした。

その間、エッセイの仕事は多少続けていたものの、小説はいっさい書く余裕がなく。それだけ長い期間小説を書かないでいるのはデビュー以来初だったので、大丈夫なのかなという点も、けっこうつらかったですね。

全部嫌になってしまった

――実際、書き終えた後は?

源氏物語 1 (河出文庫 か 10-6)

次の連載の仕事がすぐ後に決まっていたのですが、資料を読んで構想を膨らませたり、書き進めたりといった、源氏の前にはすらすらできていたことができなくなっているのに気づきました。新聞連載なので毎日書くには書くけれど、どうも調子が戻らないないな……と。

仕事に対する考え方や、小説観、書きたいものも変わってしまったのだと思います。以前ならいろいろな案件を同時進行しながら、自分の気持ちが追い付いていなくても書けましたが、そんなことをしたくなくなっていた、全部嫌になってしまった、という感じです。

源氏の何が自分にそう作用したのかは、結局今でもわからない。でも、すごく大きく変わってしまったのは確かです。

後編:「全部嫌になった」角田光代、34年目の働き方改革

(長瀧 菜摘 : 東洋経済 記者)

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