「全部嫌になった」角田光代、34年目の働き方改革

2024年から仕事の仕方を180度変えたと話す角田光代氏(撮影:今井康一)
『対岸の彼女』で直木賞受賞、『八日目の蟬』などヒット作を多数持つ角田光代氏は、作家生活34年目となる2024年、「働き方を180度変える」という大きな決断をした。締め切りに追われ、気持ちが追い付かないままに書き始めることもあったこれまでのスタイルが「全部嫌になってしまった」という。
今後の働き方についてどんな構想を持っているのか。また、デジタルを含むコンテンツ産業のめまぐるしい変化をどう捉えているのか。じっくり聞いた。
東洋経済オンラインでは角田氏の新訳版『源氏物語 1 』(河出文庫)から第1帖「桐壺」(全6回)、第4帖「夕顔」(全10回)など、名帖を厳選して配信しています。
制作:こばやしとなかむら

オファーを受けず「持ち込む」スタイルに

――2024年から仕事の仕方を180度変えたと伺いました。

2023年のうちに、それまでに決まっていた連載のお約束はすべてナシにしてもらいました。3年くらい先まで依頼をいただいていたんですが、お約束していた会社の方々に「すいません、できません」と謝って。

今後はオファーを受けずに、自分で書きたいものを書いて、出来上がったら自ら出版社に持ち込む、という方式にチャレンジします。

何を書きたいのかわからないままに連載の時期が迫って、そこに向かって書きたいことを探し、資料を集め、気持ちが追いついていなくても書き始める……みたいな仕事の仕方が、全部嫌になってしまったんですね。

――何がこれまでと最大の変化になりますか。

誰にも依頼されていないのに小説を書くというのは、デビュー以来やったことがないので、そこですね。

(デビューして)最初のころは、1年に1本くらいしか書けませんでしたが、書くための場所を作るのに必死だったので、「物理的にこれ以上無理」となるラインまで、お声かけいただいた仕事は受けてきました。

源氏物語の訳に取りかかる直前はとくに仕事が多く、「締め切りは(1カ月に)28本まで。29本目からは断る」というのが基準でした。小説を28本というのは無理なので、エッセイなどほかの仕事も含めてですが。

――ものすごく大変そうですが……。

ずっとやっていれば技術や筋肉がついて、なんとなくできちゃうものです。でも、このままでいいんだろうか、もうちょっと違うことを目指さないといけないんじゃないかと、ひしひしと感じていました。

そんな矢先の、源氏物語の仕事だった。いったんすべての連載を終えて源氏に入って、その間は本当に時間がない。訳している間、ほかの依頼を全部断れたのは、むしろとてもラッキーなことでした。働く環境、書く環境を根本から見つめ直すことができたので。

――依頼を受けずとも、書きたいものは溢れてくるものですか?

正直まだわかりません。実は、源氏の文庫化の仕事などがまだ少し残っていて。順調にいけば夏くらいにはすべて終わるので、そこで初めて、本当に締め切りのない”更地”からの仕事が始まります。

もしかしたら書きたいものを何も思いつかないかもしれないし、満を持して持ち込んだ小説がボツになるかもしれない。箸にも棒にもかからず、来年はアルバイトをしているかも(笑)。本当に始めてみないとわからないことだらけです。

テーマ決めは「媒体ありき」だった

――そもそも扱うテーマというのは、これまではどう決めていましたか。

媒体ありきでした。例えば源氏物語のすぐ後に出た『タラント』(中央公論新社)という本は、基が読売新聞の連載小説でした。依頼を受けたのは、ちょうど東京オリンピックの誘致が決まったくらいの時期だったので、それに絡めてほしいという要望もいただいたりしました。

依頼してくれた会社はどこか。出版社なら、載せるのが週刊誌なのか、文芸誌なのか。書いてほしいのはどんなジャンル、テーマの小説なのか。そういう側面から決めていくケースが多く、ときには「興味が湧かないな」と思うテーマを扱うこともありました。

――そういった不本意な状況は今後なくなるわけですが、では逆に、今後もご自身のスタイルとして変えないであろうことは?

どこに目をつけるかを考える際、毎日暮らしている中で社会に対してなんとなく抱く”違和感”みたいなものを大事にしていて、その感じは今後も変わらないだろうと思います。

――近年ではドラマ化、映画化をめぐって原作者と制作者がトラブルになる事例が出ています。角田さんの作品にも映像化されているものは多数ありますが、どう感じますか。

作品の二次使用については本当に人それぞれ考え方が違うので、そこは原作者の考えを尊重しなきゃいけないと思っています。

私の場合は二次使用にまったく関わっていないんですね。預けたら預けっぱなし。でも、関わりたい人もいるし、どちらが正解というものではない。作った人の気持ちが尊重されるべきでしょう。

――作家にとって、自分の作品は子どものようなものだとも聞きます。角田さんはどう折り合いをつけていますか。

角田光代(かくた・みつよ)/1967年生まれ。1990年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。著書に『対岸の彼女』(直木賞)、『八日目の蝉』(中央公論文芸賞)など。2015年から5年をかけて取り組んだ『源氏物語』の現代訳では読売文学賞受賞(撮影:今井康一)

子どものような感覚は、私にはないかもしれない。小説を書いて世に出したとき、「メッセージは何ですか?」とよく聞かれますが、私にはとくにない。ただ書いただけなんですね。読み手が10人いれば受け取るメッセージは10通りあるのが当然と思っています。

読み手が「つまらない」「クソみたいな本だ」と言うのも、自由だと思う。せっかく書いた私の本を「クソ」と言われたらそれは傷つきますけど、「クソじゃないよ」と私が訂正して回ることはできない。そこに関してはしょうがないというか。

映像化についても、例えば映画と小説って、まったく別物だと思っています。原作ありきで映画を見た人、あるいは映画を先に見て原作を読んだ人が「がっかりした」みたいな感想を漏らすことがよくありますが、たぶんその観念が、私には欠けているんだと思います。

書いているときにまったく絵が浮かばない

――『八日目の蟬』の映画版を見た角田さんが号泣されていたというエピソードを聞きました。書いたのは角田さんじゃないか、展開もすべて把握しているじゃないか(笑)と思いました。

作家によって、書いているときに絵が浮かんでいる人と、そうでない人がいるんです。前者の人は、主人公は女優さんだとこの人、みたいに、ぱっと名前が出てきたりする。でも私は真逆で、書いているときにまったく絵が浮かばないタイプなんです。

なので映像として見たときに、本当にびっくりするというか、「生きてる!」と感動してしまいます。主人公を誰が演じていても「ぴったりだ!」と思っちゃう(笑)。

『八日目の蟬』でいうと、冒頭、主人公は赤ちゃんを抱いて逃げています。映像で見ると初めて、赤ちゃんに重さがあることを感じる。それを抱いて、自分の体を駅まで運んで、逃げているところを見ると、もうわーっと泣けてきちゃって。こんなに大変なことなんだなって。

でももちろん、私と違う人もいて、映像化するならキャスティングなどまでしっかり関わるという人もいる。どちらがいいという話ではないです。

――源氏物語もまた、現代訳や漫画化、映像化などで、何度も形を変えて世に出されてきた作品の1つです。源氏が読み継がれてきた理由はどこにあるのでしょうか。

源氏物語の訳を通して私なりに結論付けたのは、「源氏物語が千年読み継がれたのは、紫式部の力による結果ではない」ということです。

本人は千年読み継がれるものを書こうと思っていなかっただろうし、千年という時間の感覚があったかすらわからない。ただ書いた。読み継いできたのはやっぱり読み手です。だから読み手によって、時代によって、解釈も違う。

そこは書き手がコントロールできるものではないし、書いたものは手放すしかないんだなと実感しました。

「フィクションの役割」とは

――デジタルも含めコンテンツが氾濫する中で、小説も昔ほどの影響力がなくなっています。フィクションを扱う小説家の未来はどうなると思いますか?

本はどんどん売れなくなっていくし、お休みする文芸誌なんかも出ている。本屋さんも激減して、そういうことを考えると、厳しい世界なんだろうと思います。

私自身、源氏物語を訳しているときに、どうして源氏物語ってこんなに読まれているのかな、どうして人は物語を読むのかなと、ずっと考えていました。そんな中で、源氏物語の中に出てくる「物語論」が目に留まりました。紫式部の考え方であろうものを、光源氏が語っている場面です。

源氏物語 1 (河出文庫 か 10-6)

ある女性が、自分の数奇な運命に似た人はいるのだろうかと言って、絵巻物をずっと見ています。それに対して光源氏は「女性は本当に作りものが好きだね、わざわざ騙されるようなもんだよね」みたいなことを言う。

でも彼は、「そうはいったけど、本当に大切なこと、人間の営みを伝えるのは史実ではなく、物語だ」とも話す。今の説明は私の意訳ですが、その場面を読んで、ああ、もうこれが答えじゃないかと思いました。

人間がどうやって喜んだり苦しんだりして一生を終えていくのかは、歴史を勉強してもあまりわからない。それよりフィクションを読んだほうが、本当のことに触れられる。それが千年前に出された答えだったんだと、私は感じました。

源氏物語が今も読まれているのは、ある意味、その言葉が真実である証明なのかなと。であれば、小説やフィクションというものの未来はそんなに明るくないかもしれないけれど、時代が進んでも決してゼロになることはないだろうと思います。

前編:「千年古びない浮気描写」の妙を角田光代と語る

(長瀧 菜摘 : 東洋経済 記者)

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