鉢合わせた正妻と愛人、祭見物で勃発した「事件」

(写真:terkey/PIXTA)
輝く皇子は、数多くの恋と波瀾に満ちた運命に動かされてゆく。
NHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部。彼女によって書かれた54帖から成る世界最古の長篇小説『源氏物語』は、光源氏が女たちとさまざまな恋愛を繰り広げる物語であると同時に、生と死、無常観など、人生や社会の深淵を描いている。
この日本文学最大の傑作が、恋愛小説の名手・角田光代氏の完全新訳で蘇った。河出文庫『源氏物語 2 』から第9帖「葵(あおい)」を全10回でお送りする。
22歳になった光源氏。10年連れ添いながらなかなか打ち解けることのなかった正妻・葵の上の懐妊をきっかけに、彼女への愛情を深め始める。一方、源氏と疎遠になりつつある愛人・六条御息所は、自身の尊厳を深く傷つけられ……。
「葵」を最初から読む:光源氏の浮気心に翻弄される女、それぞれの転機
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若い者たちが騒ぎ立てはじめ

日が高くなってから、あまりあらたまった支度もせずに一行は出かけた。隙間もなく物見車が立ち並んでいるので、一行は華々しく何台も牛車(ぎっしゃ)を連ねたまま、立ち往生する羽目になった。身分の高い女たちの乗った車が多い。身分の低い者のいない場所を選び、そのあたりの車を立ち退(の)かせていると、その中に、少々使い古した網代車(あじろぐるま)があった。牛車の前後に垂れる下簾(したすだれ)も趣味がよく、下簾の端から少し見える乗り手の袖口、裳(も)の裾、汗衫(かざみ)も、着物の色合いがうつくしい。そんなふうに、わざと人目を避けたお忍びであることがはっきりとわかる車が二台ある。

「これはけっして、そんなふうに立ち退かせていいお車ではない」と従者はきっぱりと言い、手を触れさせない。

しかしこの一行も、葵の上の一行も、どちらも若い者たちが酔いすぎて、どうにも止めようがないほど騒ぎ立てはじめる。年配の、分別ある従者たちは、「そんな乱暴はよせ」と止めるが、制しきれるものではない。

この一行、斎宮の母である六条御息所が、あまりにもつらい悩みから少しでも気を晴らそうと、お忍びで出かけた車であった。御息所のほうは、そうとは気づかれないようにしているが、葵の上方の従者たちは自然と気づいてしまった。

「それしきの者の車にえらそうな口を叩(たた)かせるな。源氏の大将殿のご威光を笠(かさ)に着ているんだろう」などと、葵の上の従者たちは当てこすりを言っている。葵の上の一行には光君方の者も混じっていて、御息所が気の毒だと思いながらも、仲裁などしてもっと面倒なことになっても困るので、みな知らぬ顔をしているのである。とうとう従者たちは葵の上の一行の車を立て続けに割り込ませてしまい、御息所の車はおのずと後方に押しやられてしまうかたちとなった。

見物どころか何も見えない。情けなさはもとより、こうして人目を忍んで出てきたのにはっきりと知られてしまったことがくやしくてたまらない。牛車の轅(ながえ)を載せる榻(しじ)なども押し折られて、轅はそのへんの車の轂(こしき)に打ち掛けてあるのも、なんとも体裁が悪い。いったいなぜのこのこと出てきてしまったのか、と御息所は苦々しく思うけれど、後悔しても詮ないことだ。もう見物もやめて帰ろうと思うが、抜け出す隙もないほどの混雑だ。そこへ「行列が来たぞ」という人々の声がする。そう聞くと、あの薄情なお方の姿をひと目見たいと心弱くも思ってしまう。光君は御息所の車に気づくことなく、ちらりとも見ずに通りすぎていってしまう。その姿をひと目見ただけで、また御息所の心は千々に乱れる。

「葵」の登場人物系図(△は故人)

自分だけが無視されたことがみじめに思え

通りには、常よりずっと趣向を凝らした車が並んでいる。我も我もと大勢乗りこんだ女たちの袖口がこぼれる下簾の隙間を、光君は何食わぬ顔で通りすぎるけれど、ときどき興味を引かれて笑みを浮かべる。左大臣家の車にはさすがに気づき、その前を通る時光君はきりりと表情を引き締めた。光君のお供の人々もうやうやしく敬意を表して通りすぎていく。それを見ていた御息所は、自分だけが無視されたことがこの上なくみじめに思え、たまらない気持ちになる。

かげをのみみたらし川のつれなきに身の憂(う)きほどぞいとど知らるる
(影を宿しただけで流れていく御手洗川(みたらしがわ)のような君のつれなさに、その姿を遠くから見るだけだった我が身の不幸が身に染みます)

と、涙が流れてくるのを、女房たちに見られるのは恥ずかしいけれど、止めることができない。しかもその一方では、まばゆいほどの光君の姿、晴れの舞台でいよいよ輝くようなその顔立ちを見なかったら、やはり心残りだったろうと思うのである。

供奉の人々は、それぞれ身分相応に、装束や身なりを立派に整えている。その中でも上達部たちはことのほか立派であるが、光君ただひとりの輝く壮麗さに、みな見劣りするようである。大将の臨時の随身(ずいじん)に、殿上人(てんじょうびと)などがあたることは通常はなく、とくべつの行幸(ぎょうこう)の場合のみの例外だが、今日は六位の蔵人(くろうど)で右の近衛の将監(ぞう)を兼ねた者が奉仕した。そのほかの光君の随身たちも、みな顔立ちも姿もまばゆいばかりの者たちが揃えられていた。このように世の中からかしずかれている光君には、木や草すらもひれ伏して、従わないものなどないように思える。

今日は、壺装束(つぼしょうぞく、外出着)姿の卑しからぬ女房たちや、世を捨てた尼たちも、倒れ転(まろ)びながら見物に出てきていた。ふだんならみっともないと思えるが、今日ばかりは無理もない。年老いて口元がすぼみ、髪を着物にたくしこんだみすぼらしい女も、合わせた両手を額に押し当て、光君を拝んでいる。愚鈍そうなみすぼらしい男たちも、自分がどんな間の抜けた顔になっているかも気づかずに、満面に笑みを浮かべている。光君の目に留まることもないような、つまらない受領(ずりょう)の娘まで、精いっぱい飾り立てた車に乗ってわざとらしく気取っている。そんないちいちがおもしろい見ものになっている。かと思うと、光君が忍び通いをしている女たちは、人の数にも入らない自分たちの身を嘆くのであった。

事の経緯を知った光君は

源氏物語 2 (河出文庫 か 10-7)

桐壺院の弟である式部卿宮は桟敷で見物していた。まばゆいほどに麗しくなっていく光君を見て、神にも魅入られてしまうのではないかと不吉にすら思う。その娘である朝顔の姫君は、光君がもう何年も心のこもった手紙を送ってくれていることを思う。手紙の送り主が平凡な容姿の人であってもきっと惹(ひ)かれてしまうだろうに、ましてこんなにうつくしい人であることに胸がいっぱいになる。しかしこれ以上近しい存在になりたいとはかえって考えない。若い女房たちは、聞き苦しいほど口々に光君を褒めている。

祭の当日、左大臣家では見物をしないという。あの車の場所争いのことをくわしく報告する者がいたので、光君は困ったことになったと思い、また情けなく感じていた。やはり葵の上は高い身分にふさわしく重々しいところがあるが、惜しいことに思いやりに欠けて、無愛想なところがある。葵の上は御息所をそれほど憎んではいないだろうが、妻と愛人は互いを思いやるような間柄ではないと考えている。その考えを受けて、付き添っていた下々の者がそんな争いごとを仕掛けたのだろう。気位高くたしなみ深い御息所はそんな目に遭わされてどんなにつらかったろうかと思うと胸が痛み、さすがの光君も御息所を訪れた。

しかし斎宮がまだ家にいるあいだは清浄の地であると言って、御息所はかんたんに逢ってはくれない。それもそうだ、仕方がないと思いながらも、光君は、どちらの女もそんなに強情なのはどういうわけだ、もっとやさしい気持ちになってもいいではないかとつい愚痴を漏らす。

次の話を読む:7月7日14時配信予定

*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです

(角田 光代 : 小説家)

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