父親に引き取られる前に…光源氏が固めた決意

ほかの大勢とは比べものにならないくらいかわいらしい女童に出会い…(写真:Nori/PIXTA)
輝く皇子は、数多くの恋と波瀾に満ちた運命に動かされてゆく。
NHK大河ドラマ「光る君へ」で主人公として描かれている紫式部。彼女によって書かれた54帖から成る世界最古の長篇小説『源氏物語』は、光源氏が女たちとさまざまな恋愛を繰り広げる物語であると同時に、生と死、無常観など、人生や社会の深淵を描いている。
この日本文学最大の傑作が、恋愛小説の名手・角田光代氏の完全新訳で蘇った。河出文庫『源氏物語 1 』から第5帖「若紫(わかむらさき)」を全10回でお送りする。
体調のすぐれない光源氏が山奥の療養先で出会ったのは、思い慕う藤壺女御によく似た一人の少女だった。「自分の手元に置き、親しくともに暮らしたい。思いのままに教育して成長を見守りたい」。光君はそんな願望を募らせていき……。
若紫を最初から読む:病を患う光源氏、「再生の旅路」での運命の出会い
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若紫 運命の出会い、運命の密会

無理に連れ出したのは、恋い焦がれる方のゆかりある少女ということです。
幼いながら、面影は宿っていたのでしょう。

忘れられない面影が恋しく

空一面に霧がかかり、いつもとは異なる風情(ふぜい)であるのに、その上、霜が真っ白に降りている。もしふつうの恋愛の後ならばこんな朝帰りももっと趣深いだろうに、なんだかもの足りなく感じる。そういえばこのあたりに、内密で通う家があったと思い出し、お供の者に門を叩(たた)かせるけれど、返事はない。仕方なく、お供たちの中で声のいい者にうたわせる。

朝ぼらけ霧立つ空のまよひにも行(ゆ)き過ぎがたき妹(いも)が門(かど)かな
(明け方の空に霧が立ちこめて、あたりの見分けがつきませんが、素通りしがたいあなたの家の門です)

と、くり返し二度ばかりうたわせると、門の中から品のある下女が出てきて、

立ちとまり霧のまがきの過ぎうくは草のとざしにさはりしもせじ
(霧の立ちこめたこの家の垣根のあたりを素通りできかねるのでしたら、門を閉ざすほど生い茂った草など、なんの妨げにもならないでしょう)

と詠み返して、引っこんでしまう。それきりだれも出てこないので、このまま何もなく帰るのも風情がないが、空もだんだん明るくなってきて、人に見られたら恰好(かっこう)悪いと光君は二条院に帰っていった。そしてかわいらしかった姫君の、忘れられない面影が恋しくて、ひっそりと思い出し笑いをしながら横になった。

日が高く上ってから光君は起き出してきて、姫君に手紙を送ろうとするが、いつもの、朝帰りした時に相手に送る手紙とは、まったく勝手が違うので、筆を幾度も幾度も置いては、また手にして書き、きれいな絵をいっしょに送った。

ちょうどその日、姫君の邸に兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)がやってきた。この数年よりもすっかり荒れ果てて、仕える人も一段と少なくなって広々とした古い邸はずいぶんさみしい様子である。兵部卿宮は邸を見渡して、

「こんな荒れさびれたところで幼い人が、どうして少しのあいだでも暮らせよう。やはりあちらの邸に移ったほうがいい。いや、気兼ねのいるようなところではないのだよ。乳母は部屋をかまえてお仕えすればよいし、あちらには年若い姫君たちもいることだから、いっしょに遊んでたのしく暮らしていけるだろう」と言う。

「若紫」の登場人物系図(△は故人)

夜も昼も尼君を恋しがり

兵部卿宮が姫君を近くに来るように呼ぶと、あらわれた姫君の着物に染みこんだ光君の移り香が漂う。

「これはいい匂いだ。けれどお召し物はすっかりくたびれているね」と、宮は痛々しく思って言う。「これまでずっと、病気がちのお年寄りといっしょに暮らしているから、時々は私の邸にも遊びにきて、私の妻ともなじんでほしいと言ってきたのだが、こちらでは妙に嫌がって……そんなだから妻もおもしろく思わなかったようだ。尼君が亡くなった今になって、いよいよ本邸に連れていくのも気の毒なようだが……」

「いえ、そちらにお移りになるには及びません。お心細いけれど、しばらくはここでお暮らしになりましょう。いくらか分別がおつきになりました頃にお移りなさるのが、いちばんようございましょう」と少納言の乳母は言う。「夜も昼も尼君を恋しがっていらして、ちょっとしたものもお召し上がりになりません」

確かに姫君はひどく面やつれしているが、かえって気品にあふれてうつくしく見える。

「なぜそんなに悲しむのか。亡くなった人のことはもうどうすることもできないのだ。父であるこの私がついていますよ」と宮はなだめる。

日が暮れて、宮が帰ろうとすると心細く思うのか泣き出し、宮もついもらい泣きをしてしまう。

「そんなに思い詰めてはいけないよ。今日明日のうちにお迎えにきますからね」と何度もなだめて、帰っていった。

父宮が帰ってしまい、姫君は悲しみの紛らわしようもなく泣き続ける。この先自分がどうなるのかなどと考えているわけではない。ただずっとかたときも離れずにいっしょだった尼君が亡くなってしまったと思うと悲しくてたまらず、幼心にも胸がふさがれる思いである。以前のように遊ぶこともなくなって、昼はまだなんとか気も紛らわせているが、夕暮れになるとひどくふさぎこんでしまう。これでは、これからどのように過ごしていけばいいのかと、なぐさめることもできずに少納言もいっしょに泣いた。

どう考えてもまるで不釣り合い

光君はその夕方、姫君の邸に惟光(これみつ)を使いに出した。

「私が参上すべきなのですが、宮中からお召しがありました。姫君のおいたわしいご様子を拝見しまして、どうにも気に掛かったものですから」と、惟光に伝えさせ、宿直人も遣わせた。

「まったく情けないことです。ご冗談だったにしてもご結婚というのでしたら、ご縁組の最初には三夜は通ってくださるはずが、こんな冷たいお仕打ちをなさるとは。父宮さまがこのことをお耳にされましたら、おそばの者たちの不行き届きとお叱りを受けましょう。けっしてけっして、何かのはずみにも源氏の君のことをお口にはされませんよう」

と少納言は言い聞かせるが、姫君がなんとも思っていないようなのは張り合いのないことである。少納言は惟光相手にあれこれと悲しい話をしてから、言った。

「これから先のいつか、源氏の君とのご宿縁も逃れがたいものになっていくのかもしれません。けれど今は、どう考えてもまるで不釣り合いなことと思いますのに、源氏の君の不思議なほどのご執心と、そのお申し出も、いったいどんなお考えがあってのことなのか見当もつかず、思い悩んでおります。今日も父宮さまがいらっしゃって、『心配のないように守ってほしい。軽率な扱いをしてくれるな』と仰せになりました。私もそれでたいへん気が重くなりまして、あのような酔狂なお振る舞いもあらためて気に掛かるのでございます」

昨夜、光君と姫君に何があったのか惟光が不思議に思うといけないと思い、光君の訪れがないことの不満は言わないでおいた。

惟光も、いったいどういうことになっているのか、合点のいかない思いで戻り、事の次第を報告した。光君も姫君のことを思い、惟光を使いにやったことを申し訳なくも思うのだが、三夜続けて通うのはさすがにやりすぎのように思えたのである。世間に知られたら、身分にふさわしくない奇異な振る舞いだと思われるかもしれないと憚(はばか)る気持ちもあった。いっそ、こちらに引き取ってしまったらどうだろうと思いつく。幾度も手紙を送った。日暮れになると、いつものように惟光を遣わせる。

「いろいろと差し障りがありまして、そちらに参上できませんのを、いい加減な気持ちと思いでしょうか」などと手紙には書いた。

宮の邸に移る前に

源氏物語 1 (河出文庫 か 10-6)

「兵部卿宮さまが、急だけれど明日お迎えにあがるとおっしゃいましたので、気ぜわしくしております。今まで長年住み慣れたこのさびしいお邸(やしき)を離れるのも、さすがに心細く、女房たちもみな取り乱しております」と少納言は言葉少なに伝え、ろくに相手をすることもなく、着物を縫ったりとあれこれ忙しそうにしている。惟光は仕方なく戻っていく。

光君は左大臣家にいたけれど、例によって女君(葵(あおい)の上(うえ))はすぐにはあらわれない。光君はおもしろくない気持ちで和琴(わごん)を軽く搔き鳴らし、「常陸(ひたち)には 田をこそ作れ」と風俗歌を優雅な声で口ずさんでいる。戻ってきた惟光を呼び、邸の様子を訊いた。これこれと次第を聞き、まずいことになったと光君は思う。兵部卿宮に引き取られてしまえば、そこからわざわざこちらに迎えるのも好色めいたことになってしまうし、年端もゆかぬ少女を拐(かどわ)かしたと非難されるだろう、ならば宮の邸に移る前に、しばらく人にも口止めをして二条院に引き取ろうと決意する。

「明け方にあちらに行こう。車の支度はそのままにしておいて、随身(ずいじん)をひとり二人待機させておいてくれ」と言うと、惟光は了解した。

次の話を読む:荒れ邸から二条院へ、突如始まった少女の新生活

*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです

(角田 光代 : 小説家)

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