長崎・熊本・鹿児島の「この場所」に、なぜ橋を作らないのか?

海峡横断の夢、未だ実現せず

鹿児島県・長島町と熊本県・天草、長崎県・島原を橋で結ぶ「三県架橋」構想のイメージ(画像:国土地理院)

鹿児島県・長島町と熊本県・天草、長崎県・島原を橋で結ぶ「三県架橋」構想のイメージ(画像:国土地理院)

 筆者(碓井益男、地方専門ライター)はこれまで当媒体で、次の記事で津軽海峡や豊予海峡での架橋構想について解説してきた。そこで触れたのが、1991(平成3)年に当時の建設省が立ち上げた「海峡横断道路プロジェクト技術調査委員会」だ。これは、海峡に架橋する技術的な可能性を探るプロジェクトだった。そのときに構想されたのは次の5つだ。東京湾口(千葉県・富津~神奈川県・横須賀)、伊勢湾口(愛知県・渥美半島~三重県・志摩半島)、紀淡海峡(和歌山県~兵庫県・淡路島)、豊予海峡(愛媛県・佐田岬半島~大分県)、三県架橋(長崎県・島原半島~熊本県・天草~鹿児島県・長島町)。

この5つの海峡横断プロジェクトのうち、現在までに実現したのは東京湾アクアライン(東京湾口)のみ。他の4つの構想はまだ計画段階にとどまっているが、そのなかでも特に注目したいのが

「三県架橋」

構想だ。三県架橋構想は、次のふたつの海峡に架橋を行う計画だ。

・長崎県島原半島と熊本県天草諸島間の早崎瀬戸
・天草諸島と鹿児島県長島町間の長島海峡

他の構想と比べると、

「なぜここに橋が必要なのか」

と疑問に思うかもしれない。今回の構想が目指しているものは何なのか、その背景を探ってみよう。答えにたどり着くためには、まずこの地域の芳醇な歴史の香りを感じることが重要だ。少し長くなるが、ぜひ付き合ってほしい。

架橋でつながる島々

架橋構想の概要(画像:島原・天草・長島架橋建設促進協議会)

架橋構想の概要(画像:島原・天草・長島架橋建設促進協議会)

 多くの人にとって、天草は教科書に載る島原の乱(1637~1638年)の舞台として知られている。“辺境の離島”というイメージがあるかもしれないが、その認識は現実とは大きく異なる。

 現在、天草諸島(主島は上島と下島)は熊本県に属し、

・天草市
・上天草市
・苓北(れいほく)町

の3つの市町で構成されている。そのなかでも、下島の大部分を占める天草市の人口は2024年8月時点で72,243人で、熊本県内では熊本市(737,270人)や八代市(120,389人)に次ぐ第3位だ。

 主要な島々は架橋によって道路で接続されており、都市機能も充実している。全国チェーンのコンビニエンスストアが多数出店しているほか、大型ショッピングモールのイオン天草店や、ユニクロのような全国的なアパレルチェーンも進出している。実際に訪れてみると、天草は離島というよりも、

「県庁所在地から遠く離れた地方都市」

として商業施設が集まっていることがわかる。

文化交差点としての天草

イオン天草店では、土曜日の午前中に駐車場がほぼ満車だった。2020年撮影(画像:碓井益男)

イオン天草店では、土曜日の午前中に駐車場がほぼ満車だった。2020年撮影(画像:碓井益男)

 天草諸島の特徴は、その文化圏が熊本県に所属しながら、長崎や鹿児島の影響を強く受けている点だ。この文化的な特異性は、天草の

・地理的位置
・複雑な歴史

に深く根ざしている。1956(昭和31)年に天草を訪れた、ジャーナリスト・大宅映子氏の父で、ノンフィクション作家の大宅壮一(1970年没)は、天草の魅力について次のように言及している。

「方言も、東側の本渡付近は熊本弁、西側の富岡付近は長崎弁、南端の牛深には鹿児島弁が入っている」

 このような複雑な文化圏は、歴史を通じて形成されてきた。令制国(日本の律令制に基づいて設置された地方行政区分)時代、天草諸島は

・肥後国の天草郡
・薩摩国の出水郡

に属していた。江戸時代の島原の乱の後、短期間、富岡藩が設置されたが、その後天領(幕府が直接管理した土地)となり、長崎奉行の管轄下に置かれた。

 江戸時代、天草諸島の行政中心地は富岡(現在の苓北町)だった。富岡が選ばれた理由は、

「天然の良港」

があったからだ。当時の天草諸島では、島内の道路整備が不十分で、海上交通が主要な移動手段だった。そのため、長崎と直接つながる富岡港は重要な拠点となり、ここを起点に島内の各港を経由して肥後や薩摩方面へとつながる交易路が発達した。

天草諸島の行政区再編

海産物は島内で豊富に流通している。2020年撮影(画像:碓井益男)

海産物は島内で豊富に流通している。2020年撮影(画像:碓井益男)

 この地理的・歴史的背景は、天草諸島の行政区分にも大きな影響を与えた。1871(明治4)年に廃藩置県が行われた。

 廃藩置県とはは明治政府が実施した行政制度改革の一環で、日本全国の藩を廃止し、新たに県を設置した政策を指す。この改革によって、約300の藩が廃止され、代わりに47の県が設けられた。

 その結果、天草諸島は一度長崎県に編入された。これは江戸時代から続く長崎との強い結びつきを反映したものである。しかし、その後の行政区画の再編により、肥後国天草郡の地域は八代県を経て最終的に熊本県に編入され、薩摩国出水郡に属していた地域は鹿児島県に編入された。

 行政上は熊本県に編入された天草諸島だが、長年培われた

「長崎や鹿児島との結びつき」

は簡単には薄れなかった。実際、天草諸島が熊本県との関係を深め、現在のような一体性を形成するまでにはかなりの時間がかかった。

離島の人口増加と航路

富岡~茂木航路の長崎側にあたる茂木港は長崎駅前からバスで20~30分程度。小型船のため欠航も頻繁。2020年撮影(画像:碓井益男)

富岡~茂木航路の長崎側にあたる茂木港は長崎駅前からバスで20~30分程度。小型船のため欠航も頻繁。2020年撮影(画像:碓井益男)

 天草での近代的な海上交通は1884(明治17)年に始まった。この年、富岡と長崎(茂木)間に汽船による定期航路が開設された。富岡から八代間の航路も翌年に開設された。

 その後、1899年には九州鉄道(明治時代に存在した私設の鉄道会社で、九州で初めて鉄道路線を開通させた)が三角港までの路線(三角線)を開業した。三角港は1884年から国策として開発され、当時としては画期的な貿易港だった。九州鉄道がこの港まで路線を延ばしたのは、三角港を拠点に島原や天草との海上交通網を構築するためだった。

 戦後までの間、天草諸島は離島であり、多くの航路が外部と接続されていた。明治以降に開設された航路は多数あり、記録が不明瞭なものもあるため、正確な総数は不明だ。九州運輸局の資料によると、1967(昭和42)年時点で天草管内には

・47の事業者
・57の航路

を運航していた。道路事情が悪いなか、なぜこれほど多くの航路が必要だったのか疑問に思うかもしれない。その理由は、天草諸島が

「非常に多くの人口」

を抱えていたからだ。島原の乱以前、天草諸島の人口は約3万5000人と推定されているが、乱の後に大幅に減少したものの、他藩からの移民が増え、徐々に人口が回復した。1870年には16万7231人に達し、ピークの1950年には24万750人にまで増加した。江戸時代から戦後にかけて耕地面積が少なく、食料も限られる状況で人口が増え続けていた。このため、天草諸島では

「からゆきさん」

に代表される出稼ぎが活発に行われるようになった。また、増え続ける人口を支えるために、食糧や日用品の流通も活発化した。さらに、天草の特産品である陶石(陶磁器の原料)の国内他地域への輸出も盛んになり、陶石は江戸時代から重要な産業のひとつだった。加えて、明治時代には炭鉱の開発も始まった。

 こうした経済活動により、道路が貧弱な天草諸島では海上交通の重要性がますます高まっていった。

架橋実現で変わる天草経済

現在でも狭い道路が残っていて、ここもバスが通る道路だ。2020年撮影(画像:碓井益男)

現在でも狭い道路が残っていて、ここもバスが通る道路だ。2020年撮影(画像:碓井益男)

 海上交通に頼らざるを得ない状況は、島々の経済発展に大きな障壁となっていた。特に問題だったのは、豊富な漁場を持ちながら、漁獲物を迅速に本土市場に流通させることが難しかったことだ。

 生活必需品や郵便物も海運に依存していたため、物資の安定供給が非常に不安定だった。海が荒れると物資が届かなくなり、新聞の朝刊も毎朝船で運ばれるため、島内での配達は昼過ぎになってしまった。

 そんな天草に橋を架けることを実現したのは、地元出身の3人、

・旧大矢野町長の森慈秀氏
・旧龍ケ岳町長の森國久氏
・元県議の蓮田敬介氏

だ。最初に天草諸島と本土を橋でつなぐ構想を提唱したのは森氏で、彼は天草郡湯島村(現・上天草市)出身。尋常小学校を卒業後、上海に渡り財を成した。帰郷後、熊本県会議員になった森氏は、1936(昭和11)年に県議会で

「天草島の産業を振興し文化を促進し、国際観光客の誘致を全うするには、大矢野島と三角港に橋りょうを架設し、九州本土の一部たらしむるにある」

と演説し、架橋の必要性を訴えた。

しかし当時、数百mの橋を海上に架けるという構想は現実味がなく、森氏の提案を聞いた人々は笑い、

「山師」

とまでののしった。最近はあまり使われなくなった「山師」という言葉だが、これは知識や経験が足りないにもかかわらず、大きな夢や計画を持ってそれを実現しようとする人を揶揄する意味で使われる。

 これに嫌気が差した森氏は県議を辞職し、戦後に大矢野町長に就任。建設大臣などに架橋の必要性を訴え続け、

「架橋男」

と呼ばれるようになった。この動きに、龍ケ岳町長の國久氏も賛同し、当時県議だった蓮田氏は「五橋構想」の実現に向けて、過去の台風の記録や海底の様子を丹念に調査し、構想を実現可能なものに進化させていった。

 こうした地元の熱意のもと、1966年9月に天草五橋が開通し、天草諸島は本土と結ばれることになった。これにより経済状況は一変した。それまで福岡までが精いっぱいだった生鮮野菜の販路が拡大し、関東圏にも輸送できるようになった。これを契機に、天草のかんきつ類は全国的に知られる産物へと成長していくことになった。また、南部の牛深で水揚げされた魚も、その日のうちに大都市圏へ輸送できるようになった。

交通手段の大転換

牛深市街地の繁華街だったエリアは、ほぼ廃墟となっている。2020年撮影(画像:碓井益男)

牛深市街地の繁華街だったエリアは、ほぼ廃墟となっている。2020年撮影(画像:碓井益男)

 天草五橋が開通しても、すぐに航路が激減することはなかった。それは、島内の道路整備がまだ不十分だったからだ。開通直後の現地を描いた記事には、次のように記されている。

「橋を渡ると、そこから大矢野島縦断ハイウェーがはじまる。十数キロ走ると二号橋にさしかかる。この二号橋から五号橋までは、つぎつぎに現れて、去っていく。上島の入り口、松島町の合津港の家並みが望まれると、もう夢の架け橋天草五橋は終わりである。舗装道路ともここでお別れ。あとは上島の北岸沿いに35キロ余りのデコボコ道が続いている」(『週刊読売』1967年3月10日号)

 特に牛深では、天草五橋に到達するまでの距離が遠く、

・本渡(ほんど、熊本県)
・水俣(熊本県)
・阿久根(あくね、鹿児島県)

などの航路は開通後も活発だった。しかし、天草五橋が開通した後、島内の道路整備は急速に進んだ。1974(昭和49)年には、上島と下島を結ぶ天草瀬戸大橋が開通し、同時に道路事情も改善されたことで、主要な交通手段が船から自動車へと転換された。その結果、1974年には牛深~阿久根航路が廃止され、水俣航路も2006(平成18)年に廃止された。

 現在残っているのは、国道389号の海上国道として機能している牛深~蔵之元航路だけだ。こうして道路でつながり、航路が失われたことで、天草諸島は長崎・鹿児島両県とのつながりが薄れ、熊本県とのつながりが強化されていった。

 しかし、熊本県以外とのつながりを維持しようとする動きも続いていた。1991年には、長崎から高浜港経由で鹿児島県西部の串木野を結ぶ高速船航路が開設された。この航路は高浜港と長崎港を1時間で結び、1日2便運行される予定だったが、住民からの期待は大きかったものの、年間1万人を見込んでいた乗客数は実際には500人程度にとどまり、1995年には休航を余儀なくされた。

 富岡~茂木航路は長崎市内への通院などの目的で維持されてきたが、2011年にはフェリーから高速船に移行し、2013年10月には運航会社が撤退する危機に直面した。しかし、翌2014年3月に地元漁業者11人が出資して新会社を設立し、航路を復活させて現在に至っている。

天草五橋の光と影

リゾラテラス天草。2020年撮影(画像:碓井益男)

リゾラテラス天草。2020年撮影(画像:碓井益男)

 長くなったが、ここからが本稿の本題だ。

 住民の悲願だった架橋により、天草の経済は好転したが、次第に弊害も目立つようになった。最大の問題は人口の流出だ。天草五橋が開通した当時、20万人を超える人口があったが、現在は11万人台まで減少している。また、島内での格差が広がる現象も深刻化している。天草五橋の開通から50年を迎えた2016年、地元紙『熊本日日新聞』は次のように論じた。

「五橋開通で大きく変わった島の経済圏。それまで天草上島の姫戸や倉岳、離島の御所浦などでは、海路で対岸の八代市へ買い物に行く人が多かった。下島の苓北や牛深はそれぞれ長崎、鹿児島両県とつながりが深かった。だが、天草が陸続きになったことで、旧本渡市は交通や物流、経済、政治などさまざまな面で、名実ともに天草の中心地となった」

 この変化は、平成の大合併後にさらに顕著になっている。たとえば、単独市制を施行していた牛深は完全に衰退しており、市街地にあった商業施設も姿を消した。多くの住民は休日に自動車で1時間ほどかけて、イオン天草店まで買い物に出かけるようになった。

 天草市役所がある中心地・本渡は繁栄しているとはいえない。島内交通の中心であるバスセンターもあり、人の流れはあるものの、観光客の姿は少ない。

 2022年の熊本県の観光統計によると、天草地域全体の延べ入込客数は287万5614人に達した。しかし、内訳を見ると、上天草市が152万2035人と全体の過半数を占めている。つまり、架橋が実現したものの、

「本土に近い上天草市がほぼ独占的に観光客を集める構図」

ができているのだ。上天草市の観光の象徴ともいえるのが、三角港の対岸に位置する「リゾラテラス天草」で、休日には熊本県内から家族連れやカップルが訪れる人気の観光スポットとなっている。一方、天草市にはこれほどの集客力を持つ施設が整備されていない。

 この理由は、橋があってもなお遠いことにある。熊本市中心部から天草市中心部へのアクセスは決して容易ではない。産交バスの快速あまくさ号を例にとると、熊本桜町バスターミナルを朝7時55分に出発し、合津には9時41分に到着、天草市の中心である本渡バスセンターには10時32分に到着する。

 つまり、熊本市から天草市の中心部まで2時間37分もかかるのだ。上天草市は熊本市から日帰り圏内という利点を活かして成功しているが、本渡はそれが難しい。牛深などになると、さらにアクセスは困難になるだろう。

人口減少加速する島原半島

鬼池~口之津港間は物流ルートになっているため、日中でも多くの利用者がいる。2020年撮影(画像:碓井益男)

鬼池~口之津港間は物流ルートになっているため、日中でも多くの利用者がいる。2020年撮影(画像:碓井益男)

 このような厳しい現状を変えるものとして期待されているのが、冒頭で述べた

「島原・天草・長島架橋構想」

いわゆる「三県架橋」だ。この歴史は1978(昭和53)年に始まり、鹿児島県の総合計画に長島と天草を結ぶ架橋建設が盛り込まれたことがきっかけだ。その後、1986年に熊本県でも「鬼池~口之津橋」と「牛深~長島架橋」の構想が表明された。さらに1987年には長崎県も長期構想に「島原半島~天草連絡システム構想」を加えた。このように、40年以上前から三県の協力のもとで構想が進められてきた。

 三県架橋の意義は、単なる交通インフラの整備を超えて、

「広域的な地域振興」

にある。この架橋が実現すれば、長崎市から鹿児島市までの車での所要時間が約7時間から

「3時間15分」(54%減)

に短縮されることになる。つまり、新たな幹線が生まれることになるが、この効果は天草だけでなく、対岸の長崎県島原半島にとっても大きな意味を持つ。

 南島原市は島原半島の南端に位置し、長崎自動車道・諫早インターチェンジ(IC)まで車で約1時間もかかる。公共交通機関も少なく、島原鉄道の市内部分は2008(平成20)年に廃止されてしまい、外部との接続は雲仙市や諫早市との間のバス程度だ。つまり、

「交通利便性から見放された土地」

となっているのだ。その結果、人口減少と高齢化が加速度的に進行している。2023年10月1日時点での総人口は3万9543人で、前年の4万465人から減少しており、65歳以上の人口は1万6952人に達している。

交通網整備の急務

快速あまくさ号は、乗り換えが不要で便利だ。2020年撮影(画像:碓井益男)

快速あまくさ号は、乗り換えが不要で便利だ。2020年撮影(画像:碓井益男)

 三県架橋の最大の目的は、交通利便性から見放された地域を活性化することだ。

 しかし、その実現には険しい道のりが待ち受けている。この構想は1998(平成10)年に国の第5次全国総合開発計画に盛り込まれたものの、2008年には調査が中止され、事実上凍結されてしまった。

 現在は、2015年に策定された「国土形成計画」で

「長期的視点から取り組む」

と位置づけられているが、国レベルでの具体的な進展は見られない。

 とはいえ、地域レベルでは構想の実現に向けた取り組みが続いている。2023年12月には、鹿児島県出水市で三県の代表者が集まり、構想の実現に向けて協力していくことに一致した。

 この構想が示すのは、交通網が整備されているにもかかわらず、依然として利便性のない地域が存在することだ。少子高齢化が進むなかで、見捨てられた地域を作らないためにも、さらなる交通網の整備が不可欠である。

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