1900年開業! 九州初の電車「別大電車」はなぜ別府に作られたのか? 地域開発の陰に消えた儚い歴史をたどる

温泉地から始まった「九州初の電車」

2024年7月、道の駅「たのうらら」でお披露目された別大電車(大分交通別大線)の車両(画像:若杉優貴)

2024年7月、道の駅「たのうらら」でお披露目された別大電車(大分交通別大線)の車両(画像:若杉優貴)

 みなさんは九州初の電車がどこを走っていたか知っているだろうか。

 九州の首都・福岡、製鉄と産炭で栄えた街・北九州、明治維新の九州の中心・熊本、島津氏が築いた先進都市・鹿児島――。

 実は、それよりも先に電車が走った街がある。それは、

・日本最大の温泉町「別府」
・東九州の拠点都市「大分」

だ。今回は、九州初の電車「別大電車」がなぜ東九州で生まれ、成長を遂げ、そして消えてしまったのかを解き明かす。

九州初の電車を生んだ「別府港の開港」

旧・別府港があった場所と軌道跡の国道10号線。港にはゆめタウン別府が建つ(画像:若杉優貴)

旧・別府港があった場所と軌道跡の国道10号線。港にはゆめタウン別府が建つ(画像:若杉優貴)

 九州初の電車・別大電車が生まれる大きなキッカケとなった出来事――それは

「別府港の開港」

だった。江戸時代は小さな温泉町であった別府に大きな港が完成したのは1871年、九州に鉄道が開通するよりはるか前のことだ。

 最初の別府港があったのは別府村と浜脇村の中間近くにあった河川・流川の河口付近、現在は総合スーパー「ゆめタウン別府」がある場所。別府港の完成によって別府は九州の海の玄関口となり、蒸気船などによって大阪をはじめとした本州・四国各地と直接結ばれることになったため、温泉街は急激に発展した。

 そうしたなか持ち上がったのが、県都であり城下町であった大分町(現在の大分市)と、別府港の完成によって大きな発展を遂げつつあった浜脇町(別府市・現在の東別府駅あたり)・別府町(別府市・現在の別府駅あたり)を電車で結ぶという「斬新な計画」だ。
 最初に電車計画が生まれたのは1889(明治22)年ごろ。同年は九州鉄道が九州初の鉄道となる博多~千歳川仮駅(現在のJR久留米駅の手前)間を開通させた年であった。

 21世紀の今となっては電車は全国いたるところにあるが、別大電車の計画が生まれた当時、日本国内には電車の営業路線はまだなく、東京・上野の内国勧業博覧会(1890年開催)でアトラクションとして試験運行されたのみであったため、いかに斬新な計画であったかがわかる。

明治の実業家が支えた電車の誕生

別府市の別大電車の最初の終点や発電施設があった付近。現在は石碑が設けられている(画像:若杉優貴)

別府市の別大電車の最初の終点や発電施設があった付近。現在は石碑が設けられている(画像:若杉優貴)

 1890(明治23)年には愛媛県の実業家などの出資により事務所を設立、1894年には敷設するための免許が下りた。

 区間は別府港に近い別府町南町(現在の別府市楠町付近)から大分町堀川町(現在の大分市千代町、都町の北側)。この愛媛県の実業家は別府港開港を受けて別府に銀行の支店を出店しており、開港と電車敷設が密接にかかわっていたことが伺える。

 日本初の電車が京都・伏見で開業(1895年)した翌年、1896年8月に最初の会社「豊州電気鉄道」が設立され、1900年5月に最初の営業路線となる別府~大分(堀川)間、約7.7kmが開業した。九州初の電車であり、大分県では初の鉄道でもあった。

 別府~大分間の、のちに別大国道(国道35号線 → 国道3号線 → 現在の国道10号線)と呼ばれる区間を走る場所は特に難工事で、崖と海の間の狭い土地に軌道が敷かれた場所もあった。また、これに合わせて別府町の終点近くに火力発電所が造られ、別府市内では電気街灯が整備された。

九州初の電車を育てた「別府温泉の発展」

大正時代の別大電車と別大道路(別大国道)。大分市デジタルアーカイブより(画像:大分市)

大正時代の別大電車と別大道路(別大国道)。大分市デジタルアーカイブより(画像:大分市)

 ようやく開通した九州初の電車であったが、経営は困難を極めた。

 電車開通前から別府港と大分町を結んでいた乗合馬車よりも料金が高かったうえ、未熟な運転技量から事故を起こしたり、馬車のみならず人力車と競争になることさえもあったという。

 それゆえ経営はうまくゆかず、早くも1904(明治37)年にいったん倒産。その後、

「馬車よりも速く」

をキャッチフレーズに立ち上げられた新会社「豊後電気鉄道」、発電事業を主業とする「九州水力電気」(現在の九州電力)の運営を経て、1927(昭和2)年には阪急グループの「別府大分電鉄」の運営となった。この頃には別大電車と呼ばれるようになっていた。

 大正から昭和初期にかけて別大電車の成長を後押ししたのは「別府温泉の発展」だった。

 別府港開港に加えて電車開通もあって市街地が一体化した別府町と浜脇町は1906年に合併、約20年後の1924年に市制を敷き別府市となった。また、1911年には豊州本線(現在のJR日豊本線)が開通、全国各地と鉄道で結ばれた。

別府急成長、人口3倍の魅力

別府市が誕生したのは大正時代の1924年。今年は市制100周年に当たる。別府温泉の発展によって別大電車も利用客が増加、1929年から1956年までは別府駅前に乗り入れる支線も設けられていた(画像:若杉優貴)

別府市が誕生したのは大正時代の1924年。今年は市制100周年に当たる。別府温泉の発展によって別大電車も利用客が増加、1929年から1956年までは別府駅前に乗り入れる支線も設けられていた(画像:若杉優貴)

 開港により人気温泉地となった別府は、人口も別府・浜脇合併から市制までの18年間で約3倍に急増した。1924(大正13)年には油屋熊八が別府亀の井ホテルを開業、1928(昭和3)年に亀の井自動車(現在の亀の井バス)が

「地獄めぐり」

で日本初となるバスガイド付き定期観光バスの運行を開始したほか、同年には別府市公会堂が開館。1929年には市内の鉱山跡に別府遊園(現在のラクテンチ)が開園するなど、21世紀となった現在も残る観光インフラの整備が進められた。

 この頃、大正時代に入ると別府の発展にともない別大電車の路線も徐々に伸びていった。別府地区では1929年から1930年にかけて別府市の北側にあった石垣村や亀川町まで延伸したほか別府駅前支線を開業(1956年廃止)、大分地区では堀川沿いの線路を新川経由に移設、1919年には大分駅への乗り入れを果たした。さらに、車両の近代化も進められ、1928年には廃線まで主力車両として活躍することになる鋼製ボギー車・100形の運行が開始された。

 別大電車が石垣村・亀川町まで延伸したのち1935年には別府市が石垣村や亀川町などを合併、現在の市域となった。昭和に入るとバスやトラックなどといった自動車交通が増えはじめたことから、1930年代には別大国道も少し拡張されて自動車が通行しやすくなった。道路整備が進むなか1927年には別府大分電鉄も路線バスに参入、さらに1933年には子会社「別杵自動車」が設立された。

復興の波、別府の躍動感

別府大分電鉄が走っていた時期の大分市・別府市の地図。新制最近日本地図、1940年(画像:若杉優貴)

別府大分電鉄が走っていた時期の大分市・別府市の地図。新制最近日本地図、1940年(画像:若杉優貴)

 別府大分電鉄は1940(昭和15)年に阪急グループから九州電気軌道グループ(現在の西鉄)となったのち、1945年に耶馬溪鉄道、国東鉄道などと合併して大分交通となった。

 同年の空襲により大分市街地は壊滅した一方、別府市街地は戦災をほぼ免れており(米軍が意図的に空襲しなかったともいわれる)、1945年から1957年まで進駐軍(米軍)が駐留したほか、多くの引き揚げ者が別府を目指したため、戦後は大きなにぎわいを見せた。

 それにともない別大電車も復興を遂げ、車両の増備と近代化を進めたほか、1950年代に入ると、別府の観光客をサル寄せ場で有名になった高崎山(別院前電停)に誘致する取り組みも行うようになった。

 電車の利用客が増え続けるなか、1961年10月には集中豪雨により大分市田の浦の仏崎で電車が崖崩れに巻き込まれる事故が発生。死者31人、重軽傷者38人(運転士・車掌を含む)を出す大惨事となった。

九州初の電車を成長させた「大分市の発展」

たのうららから見る大分市沿岸部の工場地帯。(左端は愛媛県伊方町)1960年代に多くの工場が進出、当時20万人台(合併自治体調整後)だった人口は半世紀で48万人にまで増加した(画像:若杉優貴)

たのうららから見る大分市沿岸部の工場地帯。(左端は愛媛県伊方町)1960年代に多くの工場が進出、当時20万人台(合併自治体調整後)だった人口は半世紀で48万人にまで増加した(画像:若杉優貴)

 災害事故により別大電車は衰退の一途をたどる……とはならなかった。1960年代の別大電車の成長を後押ししたのは大分市の

「急速な発展」

だった。ときは折しも高度経済成長期。大分市周辺は産業立地を促進する「新産業都市」に指定、大分市の別府湾沿いは埋め立てられ「大分臨海工業地帯」が生まれ、

・新日本製鐵(現在の日本製鐵)
・昭和電工(現在のレゾナック)
・九州石油(のち新日本石油 → エネオスが買収)
・住友化学

などといった国内大手企業の工場が相次いで進出。九州一の重工業都市となったことで人口が急増した。

 別大電車の乗客も1964(昭和39)年まで増え続け、これに合わせて1000形連接車(1編成2両)や1100形永久連結車(2編成4両)といった大量輸送型車両の増備を行った。

 1968年には500形5両を改造して大分市内線の一部電車をワンマン運転化、また別府市では道路拡幅の進展にともない軌道の移設工事や変電所の新設などの近代化も進められた。

電車の息の根を止めた「大分市と別府市の発展」

別大電車の新川車庫跡。バスの車庫として使われたのち大分交通の商業施設「D-Plaza」となっておりドン・キホーテなどが出店。電車が並んでいた場所には自家用車が並ぶ。(画像:若杉優貴)

別大電車の新川車庫跡。バスの車庫として使われたのち大分交通の商業施設「D-Plaza」となっておりドン・キホーテなどが出店。電車が並んでいた場所には自家用車が並ぶ。(画像:若杉優貴)

 この頃、別府市や北側に隣接する日出町には新たな役割が生まれた。それは大分市の

「ベッドタウン」

だ。大分市の人口が爆発的に増加するなか、別府市や日出町では宅地開発が活発化。そうした住民の多くは鉄道沿線外に居住してマイカーで大分市に通勤するようになった。

 しかし、別府市と大分市をつなぐ国道10号線・別大国道は海沿いとあって当時は道路拡幅が難しく、クルマは片側1車線の狭い道を走るしかなかったため、ラッシュ時や観光シーズンには渋滞が起きるようになっていた。さらに、この車道は国鉄や別大電車よりも海側を走っていたため、台風などによる大波や土砂災害により通行止めとなることが度々あった。

 そうしたなか、1971(昭和46)年に

「渋滞緩和のための電車廃線」

の議論が起きた。廃線案は1971年の初めに大分県から大分交通に提案されたもので、水面下で廃止後の交通網整備や大分交通に対する補償のための補助金額なども検討されていたという。

別府温泉まつりで幕引き

トキハ百貨店前、かつての軌道跡を走る大分交通バス。別大電車のラッピングがなされている。大分交通は現在も豊州電気鉄道が設立された1896年8月5日を創業日としている(画像:若杉優貴)

トキハ百貨店前、かつての軌道跡を走る大分交通バス。別大電車のラッピングがなされている。大分交通は現在も豊州電気鉄道が設立された1896年8月5日を創業日としている(画像:若杉優貴)

 末期まで近代化が進められていた別大電車であったが、すでに当時の国内主要都市では、

・大阪市電(1969年廃止)
・神戸市電(1971年廃止)

が全線廃止・バス転換済み、

・札幌市電(のち一部存続・再延伸)
・東京都電(のち一部現存)
・横浜市電(1972年廃止)
・名古屋市電(1974年廃止)
・京都市電(1978年廃止)

などでも路面電車の全線廃止計画が進められていた。末期まで黒字経営だった別大電車であるが、1970年代に入ると赤字に転落。時代の流れには逆らうことができなかった。

 1971年12月には大分県が大分交通に対して補助金(補償金)5億5000万円を支払うことを条件として別大電車の廃止を正式に要請。わずか4か月後の1972年4月4日、別府温泉まつりのなか別大電車は72年の歴史に幕を下ろした。

 別大電車の軌道はすぐに撤去されて1978年までに道路となったため、21世紀になった現在はその廃線跡を探すことも難しい。

約50年のときを超えて

九州初の電車が走っていた軌道跡(画像:若杉優貴)

九州初の電車が走っていた軌道跡(画像:若杉優貴)

 2024年7月、大分市田の浦の仏崎に開業した道の駅「たのうらら」に、クリーム色と緑色に塗られた1台の路面電車の姿があった。

 その電車とは大分交通506号。

 別大電車の最後の生き残りだ。

 別大電車の廃止から約半世紀たった今、506号はなぜこの地に保存されることとなったのか。

 それについては、また別の機会に解説したい。

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