『光る君へ』で定子や倫子は「十二単」を着ていない。十二単は女房たちの仕事着、中宮は「普段着」で過ごしていた【2024年上半期BEST】
*****
NHK大河ドラマ『光る君へ』の舞台である平安時代の京都。そのゆかりの地をめぐるガイド本、『THE TALE OF GENJI AND KYOTO 日本語と英語で知る、めぐる紫式部の京都ガイド』(SUMIKO KAJIYAMA著、プレジデント社)の著者が、本には書ききれなかったエピソードや知られざる京都の魅力、『源氏物語』にまつわるあれこれを綴ります。
* * * * * * *
十二単は誰が着るもの?
『光る君へ』を観る楽しみのひとつが、登場人物がまとう華やかな平安装束ではないでしょうか。戦国時代の大河ドラマとも、江戸時代が舞台の『大奥』とも異なる雅な色彩の衣装に興味津々、という方も多いと思います。
ネット上の感想では「十二単がすてき!」「普段はなかなか見られない十二単に目が釘付け!」といったコメントも見かけます。しかし、まひろをはじめとする主要な登場人物は、いわゆる「十二単」をほとんど着ていないのです。少なくとも、今のところは……。
「えっ、どういうこと!? あの衣装は十二単じゃないの?」と、驚かれたでしょうか。
今後のことは別として、この原稿を書いている4月末の時点ではそうなのです。
平安時代の高貴な女性が着ていた装束といえば十二単――何を隠そう、以前は私自身もそう思っていました。でも、よくよく考えると、「十二単って、いったい何?」と思いませんか。
皇族方が宮中の儀式で着用されている姿をニュースでちらりと見る程度。どういう衣装なのか、きちんと理解している人は少ないのではないでしょうか。
単(ひとえ)の着物を12枚重ねるから「十二単」?
平安時代は、皇族以外の女性も「十二単」を着ていたの?
わからないこと、疑問に思うことだらけです。
「十二単」は女官の“仕事着”だった
そこで少し調べてみると、意外なことがわかりました。
私たちが一般に「十二単」と呼んでいるものは、平安時代の宮中における正装にあたるもの。正しくは女房装束と呼ばれ、宮中で仕える高位女官の、いわば仕事着のようなものだったのです。
長袴を履き、単の上に袿(うちき/内側に着るもの)と呼ばれる衣を何枚か重ねて、打衣(うちぎぬ/砧で打って光沢を出した衣)、表着(うわぎ/一般的には上に着る衣を指す。豪華な織物で仕立てられている場合が多い)、唐衣(からぎぬ/正装時、表着の上に着る袖幅の短い半身の衣)の順に着用。そして、裳を腰につけて後方に広げ、小腰と呼ばれる紐を前で結べば、着装完了です。
この女房装束は「唐衣裳」(からぎぬも)とも「裳唐衣」(もからぎぬ)とも呼ばれます。「唐衣裳」は多少変化をしながら今日まで受け継がれ、皇室の儀式などで着用される宮廷装束となったようです。
たっぷりした幅の布に長い飾り紐(引腰)が付いた裳は、うしろから見ると、かなりの存在感があります。現代の生活ではなかなか目にする機会はありませんが、「衣裳」という言葉があるように、衣(唐衣)と裳で正式の服装になるというわけです。
ようやく登場した「唐衣裳」姿の清少納言
『光る君へ』の衣装をじっくり見ていただければわかりますが、これまでのところ、主要な登場人物が「唐衣裳」=いわゆる「十二単」を着ているシーンはごく限られています。
たとえば、序盤で藤原詮子が入内(じゅだい)する場面では、詮子を演じる吉田羊さんがあでやかな「唐衣裳」姿を披露。また、ききょうこと清少納言が宮中で定子に仕えるようになると、ファーストサマーウイカさんのきりっとした「唐衣裳」姿が、時折、見られるようになりました。
今後、物語が進み、まひろ(紫式部)が彰子に仕えるようになれば、主役の吉高由里子さんも、女房装束である「唐衣裳」を着ることになるはずです。まひろはどんな色の表着や唐衣を着るのでしょう。名前にちなみ、やはり紫色や藤色がメインになるのでしょうか……。
また、他の女房たちの色とりどりの「唐衣裳」姿も、できればもっと見たいもの。くるっと身体の向きを変えるときに、舞うように裳が翻る――そんなシーンはとても美しく、見惚れてしまいます。
むろん、こうした所作を習得するには、相当な努力が必要なはず。「唐衣裳」はかなりの重さがありますし、長袴の足さばきも難しい。女優さんもたいへんだなと、つくづく思います。
なぜそんなことを考えるかというと、私もこの「唐衣裳」を実際に着たことがあるからです。取材とはいえ、ほんとうに貴重な体験をさせていただきました。ご協力いただいた「十二単記念撮影館 雪月花苑」と、同施設を運営する福呂一榮さんについては、また別の回で詳しくご紹介したいと思っています。
中宮はくつろいだスタイルで
では、一条天皇の中宮である定子や道長の妻・倫子や明子の衣装はどうでしょうか。
日常の場面が多いこともあってか、唐衣や裳はつけていません。これは袿姿(袿袴姿)と呼ばれるもので、袴の上に単を着て、その上に袿を何枚か重ねたもの。正装から唐衣と裳を省いたカジュアルなスタイルになります。
皇太后という地位を得て権勢を振るう詮子も、実家にいるときはもちろん、一条天皇の御前でも袿姿です。つまり、宮中の女房たちは「唐衣裳」で正装しなければなりませんが、彼女たちの主人である高貴な女性たちは、リラックスできる袿姿で日常生活のほとんどを過ごしていたのです。
そして、やや改まった席では、袿姿の上に袿より身丈が少し短い小袿(こうちき)を重ねたそうです。小袿は、唐衣などと同様に、重厚で華やかな二陪織物(ふたえおりもの/地文様の上に別の色糸で上文様を浮織した豪華な織物)などで仕立てられており、この小袿姿が高貴な女性の略装となったのです。
倫子や明子の豪華な表着
一方、女房たちも、仕事を離れたプライベートな時間は袿姿で過ごしていたようです。つまり、袿姿が貴族の女性たちの普段着だったわけです。
ただし、同じ袿姿でも、まひろの日常着と、倫子や明子のそれでは、華やかさが格段に違います。まひろの袿は質素ですが、上流貴族の倫子や明子は二陪織物の豪奢な表着をまとっていて、身分の差は一目瞭然です。
京都三大祭の葵祭や時代祭では、こうした平安装束を間近に見ることができます。特に、時代祭の「平安時代婦人列」には紫式部や清少納言も登場するので、今年は例年以上に盛り上がるのではないでしょうか。
少々不思議に思うのは、時代祭の行列では、清少納言が「唐衣裳」の女房装束姿なのに、紫式部は小袿姿であること。しかも、清少納言が前で、そのうしろに紫式部が控えているため、どうしても清少納言のほうに注目が集まってしまいます。それを残念に思うのは、私だけでしょうか。
平安の美の粋「かさね色目」
平安装束を見ていて、私がもっとも心惹かれるのが、色の「かさね(襲)」です。
袿の襟や袖口、裾などに見られる配色の妙は「かさね色目」と呼ばれ、これを美しく見せるために、上に羽織るものほど小振りに仕立てられています。
「かさね色目」には四季の移り変わりや草花の美しさを繊細に表現するためのさまざまな手法があり、「匂い」「うすよう」など、それぞれに雅な名前が付けられています。
現代日本人の色彩感覚とも、西洋の美意識とも違う、独特の色使い……。平安の貴人たちは、この「かさね」の使い方で、自身のセンスや美意識を競い合ったのです。
なんと20枚重ねる人も
競い合ったのはセンスだけではありません。平安中期になると、華やかさを誇示するように内に着込む袿の数がどんどん増え、なんと20枚近く重ねる人もいたようです。
平安時代後半の院政時代には、装束がさらに絢爛豪華に。そこで、平安末期から鎌倉時代には、袿の数を5枚までに規制する「五衣(いつつぎぬ)の制」が定められたのです。
ちなみに、現代の皇室で着用される宮廷装束の正式名称は「五衣唐衣裳(いつつぎぬ からぎぬも)」であり、その俗称が「十二単」なのだとか。
袴を履き、単の上に五衣、さらに打衣、表着、唐衣の順に重ねて、裳を着用するという形で、それが21世紀の私たちが漠然とイメージする「十二単」ということになるのです。
十二単という用語は江戸時代から
平安時代の女房装束では、重ねる衣の数に定めはなく、個々人でかなり幅があったようです。あえて推測すれば、袴と裳を除き、10枚前後が中心だと考えられるのではないでしょうか。
もともと十二単という用語も、12枚重ねるからではなく、袿を何枚も(十二分に)重ねる装束を意味するもので、江戸時代に使われるようになったとか。つまり、元来の“十二単”とは、唐衣と裳をつけない袿姿を指すと考えられるわけです。
また、装束は身につけるばかりでなく、ハレの日の室内装飾としても用いられました。
御簾の下から、美しい「かさね色目」が見えるように、御簾の内側に女房装束を束ねて置き、着飾った女房があたかもそこに座っているように見せる――そんな「打出(うちいで)」と呼ばれる演出も行われていたようです。実際に衣を重ねて置くと、まるで人が着ているようにしっかりとした立体になるので驚きです。
本連載の第2回で紹介した「風俗博物館」では、この「打出」の様子も、4分の1の大きさの人形や精巧な模型を使って再現されています。じっくりと展示を見ると、女房たちが公の場では唐衣と裳をつけ、自分たちの部屋に戻ると袿姿になることなども、見て取れると思います。
次に『光る君へ』を観るときは、二陪織物の豪華さや「かさね色目」の配色の美にも、ぜひ注目してみてください。きっと、ドラマがもっと楽しくなると思いますよ。
09/16 12:00
婦人公論.jp