『光る君へ』を彩る<彰子サロン>女房たちの裏事情。倫子の姪<大納言の君>は道長の愛人で「藤式部と呼ぶ」と宣言した<宮の宣旨>はまさかの…

(写真:stock.adobe.com)

大石静さんが脚本を手掛け、『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマの放映をきっかけとして、平安時代にあらためて注目が集まっています。そこで今回「彰子サロンの女房たち」について、『謎の平安前期』の著者で日本史学者の榎村寛之さんに解説をしてもらいました。

『光る君へ』次回予告。命懸けで金峯山寺への山道を進む道長一行。その一方で高笑いする伊周。そして中宮彰子は涙ながらに一条天皇への想いを言葉にし…

* * * * * * *

彰子付きの女房の話

『光る君へ』では紫式部の同僚たちとして、彰子付きの女房が多く登場しています。そして『紫式部日記』にも、三十人近くいたとされる女房の話が数多くでてきます。

なお、その中で確実に上臈女房、つまり式部の上司だったと見られる人たちがいます。

そのことがなぜわかるか。ヒントは「呼び名(職場ネーム)」です。

まず「大納言の君」。ドラマでは真下玲奈さんが演じていらっしゃいますが、呼び名だけで、大納言の家族か親戚で、大臣級のコネを持つ“いいとこの子”だとわかります。

倫子の姪「大納言の君」は道長の“公認の愛人”

この人は『紫式部日記』の後一条天皇出生記事と『御産部類記』(宮内庁書陵部蔵)、つまり天皇が産まれた時の記録集成の記述の比較から、参議源扶義の娘の源廉子(実は養女、なお扶義は当時すでに亡くなっており、大納言の名はその兄の源時中に由来するか)と推定されています。

『謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)

時中・扶義は彰子の母、源倫子の兄なので、道長の正妻源倫子の姪で、中宮彰子の従姉妹、まさにトップクラスのコネです。

ところが『栄花物語』によると、道長は彼女を「召人」、つまり妾ではないが公認の愛人ともしていたようです。

小柄で、髪は身長より三寸(約9センチ)ほども長く、色白で「つぶつぶと」肥えていて、「こまかにうつくしき」、つまり繊細で、細部に至るまで当時の美人の条件をみたしていたといいます。

「宰相の君」は道綱の娘

続いて「宰相の君」(宰相は参議の中国風の呼び方)。ドラマでは瀬戸さおりさんが演じていらっしゃいます。

この人は道長の異母兄である道綱(『蜻蛉日記』の作者の息子で、ドラマでは上地雄輔さんが演じています)の娘の藤原豊子ですね。

こちらは、身長はほどよく、ふっくらとして、顔立ちは繊細、容姿や動きが洗練されていてすばらしいとしています。

なおドラマには出ていないようですが、「宰相の君」と呼ばれる女房はもう一人いて、師輔の子、故従三位藤原遠度(つまり道長の叔父)の娘です。やはりふっくらとしていますが才気を感じる人で、親しくなると気品が伝わり恥ずかしくなるとしています。

紫式部の親友「小少将の君」とキャリアを買われた「宮の内侍」

次に「小少将の君」。ドラマでは福井夏さんが演じていらっしゃいますが、彼女は「大納言の君」の妹で、紫式部の親友です。

「二月(旧暦、今なら三月後半)の若芽が出て枝垂れ始めた柳のような人」とされ、この表現は『源氏物語』「若菜下」にある、光源氏の二人目の正妻、女三宮と共通します。

小少将はひきこもり系の子供っぽい人ということなので、自分を表に出さず、なよっとした女三の宮のモデルかもしれません。

その中で少し例外的なのは「宮の内侍」で、本名を橘良芸子という、藤原氏以外の出身です。

彼女は彰子が中宮になった頃から内侍(掌侍)、つまり秘書官長を務めています。もともと道長の姉の東三条院詮子に仕えていた人なので、キャリアを買われて送り込まれたようです。

清楚で堂々とした中に華やかで愛嬌があるとしています。

これら上臈の女房たちは、ルックスや礼装の色使いなどのファッションセンスがいかに素晴らしいかを絶賛されていいます。

紫式部は意外に計算高い人なので、読み手の印象を意識した、いわゆる「ヨイショ」も多いのかもしれませんが、やはり彼女たちは採用の段階でセレクトされた人たちなのでしょう。ということは、上臈女房らは特別な教育を受けていたエリートと考えられます。

でもそれって、彼女らが上臈女房になるのではなく、もっと上、つまり「妃がね(お妃候補)」として育てられた人だということではないのでしょうか?

<藤式部と呼ぶ>と宣言した「宮の宣旨」、実は…

そうした中に「宣旨の君」あるいは「宮宣旨」という女房がいます。

ドラマ内では値踏みするような視線でまひろを迎い入れ、これからは藤式部と呼ぶと宣言した、あの「宮の宣侍」ですね。小林きな子さんがその役を演じていらっしゃいます。

ちなみに『紫式部日記』では、「小柄でほっそりしており、きれいな髪が一尺ほどの着物の裾から伸びている。気品のある人というのはこういう人のことを言うのだろう」と絶賛されています。

彼女は中宮の言葉を貴族たちに伝えるスポークス・パーソンを務めており、のちには彰子の産んだ後朱雀天皇の乳母になったとも言われます。

その本名を源陟子といい、実は醍醐天皇皇子の兼明親王の孫にあたります。

兼明親王は、一度臣下に降りて左大臣源兼明になったのに、また皇族に戻されたという、体よく左遷された大臣。その兼明の嫡子が権中納言源伊陟といい、宣旨の君はその娘にあたるので、醍醐源氏ということになります。

つまり天皇の子で政界有力者だった人物の孫が、彰子の女房務めをするようになっているのです。確かにエリートなのですが、まさに醍醐源氏の衰退を象徴しているような人物なのですね。

兼明親王の歌が表しているもの

兼明親王には「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞあやしき(かなしき、とも)」(後拾遺和歌集1154)という歌があります。

ヤマブキの花には一重と八重があり、園芸植物としては八重が『万葉集』の時代から親しまれていました。しかし八重のヤマブキは花が華やかでも実は一つもならないのだそうです。

そのため、雨に降られた友人に「蓑」を所望された時に山吹の花を出して「みの一つもない」と答えたという歌だとしています。

しかし面白いのは、たくさん美しい花が咲く、というのは、醍醐天皇の多才な子女のことを指していて、みの一つだにない、と言うのはその子孫が恵まれていない、とも取れそうなことです。

その話をしたら、平安朝を愛好する知人が教えてくれました。「七重八重」は「九重(宮中、つまり天皇)に届かないと言うことですね」と

「みのひとつだになき」、というのは、自分の身分は高いけれど子孫を繁栄させられない、源陟子たち上臈女房にも共通した思いかもしれませんね。

ジャンルで探す