『光る君へ』道長の<二人の妻>倫子と明子。倫子より天皇に近くとも露骨に差がつけられた明子だが、子孫には日本文化に多大な貢献をしたあの人物が…

(写真:stock.adobe.com)

大石静さんが脚本を手掛け、『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマの放映をきっかけとして、平安時代にあらためて注目が集まっています。そこで今回「道長の二人の妻」について、『謎の平安前期』の著者で日本史学者の榎村寛之さんに解説をしてもらいました。

『光る君へ』次回予告。押し寄せる興福寺の僧兵を前に狼狽する道長。一方でまひろは中宮彰子の問いに「殿御はみな、かわいいものでございます」と答え…

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道長の二人の妻<倫子と明子>

いよいよ『源氏物語』が書き始められた『光る君へ』。

その中で主人公「まひろ(紫式部)」とともによく目立っているのが、藤原道長の妻である二人の女性です。

それが、文献では「鷹司殿」と呼ばれる源倫子(演:黒木華さん)、そして「高松殿」と呼ばれれる源明子(演:瀧内公美さん)。

道長の妻は当然「藤原氏トップの妻」を意味するのですが、ともに藤原氏ではなく源氏の出身です。そしてどちらも多くの子どもを授かりますが、扱いはかなり異なっていました。

まず源倫子は左大臣源雅信の娘で、道長を婿取っています。

左大臣の娘ですから、妃がね(中宮や皇后の候補者)として育てられていたと思われますが、関白家の五男だった2歳年下の道長とともに栄華の道を歩みます。

『御堂関白記』や『栄花物語』などを見ても、道長も頭が上がらない<しっかりものの妻>という雰囲気が伝わってきます。

一方、源明子は先の左大臣源高明の娘で、やはり道長より少し年上と思われます。

倫子とほぼ同じ頃に結婚したと見られていますが、立場は正妻とは言えなかったよう。かといって妾でもなく、次妻とされることもある人です。

二人につけられた差異

二人の差が露骨に出るのはその子供達の立身です。

『謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)

倫子の娘は、彰子をはじめ、中宮三人と東宮(次期天皇)妃一人。息子が頼通・教通の関白二人とズラリ。

対して、明子の娘の結婚相手は親王と貴族、息子は一番上の頼宗の右大臣が最高位。あとは権大納言二人と出家した者が一人と露骨に差をつけられています。

ではなぜ明子はこうした扱いを受けたのでしょうか?

そもそも、同じ源氏といっても二人は直接の親戚関係にあるわけではありません。

もともと源氏とは、平安時代初期の嵯峨天皇が、あまりにも増えすぎた子供達を整理するため、皇族ではなく貴族・官人として生きていくために設けた姓で、以後も多くの天皇の子供達が源性をもらうようになります。

最も有名なのは、源頼朝や足利尊氏を出した「清和源氏」でしょうか。

実際には、俗に二十一源氏とまで言われるほど、多くの天皇から源氏が分かれていたのです。

代数でいえば明子の方が天皇に近いのに…

なお源倫子の父の雅信は宇多天皇の孫で、彼女は<天皇のひ孫>(宇多源氏)です。

一方、源明子は宇多の子の醍醐天皇の皇子の子で、<天皇の孫>(醍醐源氏)です。

つまり代数でいえば明子の方が天皇に近い、ということになる。確かドラマの中でも、そうした背景を明子が道長に話すシーンがありました。なのに、現実をみれば明子の方が扱いは悪いのです。

実は同じ源氏でも、宇多源氏と醍醐源氏ではずいぶん性格が違います。

まず宇多源氏(倫子系)は、醍醐天皇の同母弟である敦実親王以外には繁栄した系統はほとんどありませんでした。

倫子の父・雅信は敦実親王の長男。雅信と弟の重信は左大臣に上り、一時は雅信左大臣・重信右大臣になります。

ただし、この時期は彼らより年下でやり手の藤原道隆から道長に政権が移る頃で、彼らはその下で「うまく立ち回った」という感じだったのでしょう。

一方、醍醐源氏(明子系)は少し性格が違います。

醍醐天皇には男女合わせて40人近くの子がいて、下の方の子供は、天皇の子供でも“源”をもらうようになっていました。そして、明子の父の源高明と、異母弟の兼明はその代表格です。

彼らの兄の親王たちにも、文化人や有職故実(貴族の儀式作法)に通じた優秀な人たちが多い中、この二人は貴族として頭角を表し、異母兄の村上天皇を支えていきます。

それとともに、高明は藤原師輔(兼家の父、道隆・道長の祖父)の娘の愛宮(あいみや)の婿になり、準・摂関家的な扱いを受けるとともに、村上天皇の皇子で英明の高い為平親王を婿取りました。

追い落とされた明子の父・源高明

ところが、こうした扱いが師輔の次世代らから警戒される事態を招きます。つまり、このままでは藤原氏のリーダーの地位まで源高明らに奪われるのでは、という危機感を持ったようなのです。

その後、安和二年(969)に、冷泉天皇廃位と為平親王擁立を企む謀反の密告事件「安和の変」が起こると、高明もそれに連座する形で大宰権帥(九州地域総官、ただし名誉職)に左遷されてしまいました。

藤原師輔亡き後、宮廷で最も儀礼に詳しい(つまり政治をスムーズに行える)のは、師輔から摂関家の故実を学び、異母兄たちから皇族の故実を学んだ高明でした。

ですので、「まともにいったら勝てないので裏技で」追い落とされたのです。そして師輔の娘で、明子の母・愛宮はその巻き添えで出家した…と言いますから、この事件、じつは藤原摂関家である師輔の子供達の内紛でもあるわけです。

明子は、藤原伊尹・兼通・兼家ら師輔の子供達にとっては姪、道隆や道長からは従姉妹に当たる、摂関家色の濃厚な源氏でした。さらに愛宮の母は、元伊勢斎王だった雅子内親王。

つまり明子は母方でみても、醍醐天皇のひ孫という、極めて高い血筋ということになります。

明子は、高明失脚の後は同母弟の盛明親王、さらには兼家の娘(つまり道隆や道長の姉妹)東三条院詮子(一条天皇の母。『光る君へ』では吉田羊さんが演じた)のもとにいたようです。

これほど高貴な血筋を外部に流出させるわけにはいかず、摂関家中に留めておかなければならない、という判断だったのでしょう。いわば「籠の鳥」になったわけです。

源明子と子孫たちの足跡

しかし明子の子供たちは、道長の嫡男である長兄の頼通から見れば明らかに妾の子扱い。

明子が産んだ道長にとって三番目の男子・権大納言能信(道長の子としては四男)などは頼通に反発し、同じ摂関家の中でかなり激しく対立。しかし結局、明子の産んだ子たちは関白にも中宮にもなれませんでした。

その後、能信の養女茂子は白河天皇の母となり、白河は院政をしいて摂関家を弱体化させています。

さらに明子の娘尊子の結婚相手は、藤原頼通の養子になった右大臣源師房(村上天皇の孫、一条天皇の従弟)です。

道長の娘としては最も低い身分でしたが、その子孫は村上源氏となり、平安時代後期から南北朝時代にかけて、摂関家と並び立つ権力を持つようになりました。

そしてもう1人、明子の末っ子の長家も重要な人物です。その子孫からは、かの藤原俊成、定家が出ており、和歌という日本文化に限りない貢献をしているのです。

明子の心情を記した記録は残念ながら残っていません。

当初『光る君へ』の源明子像は<藤原氏を憎む姫>というキャラクターで注目されましたが、その子孫たちの足跡を追いかけていくと、彼女に始まる、日本文化の底流に息づく、静かな熱情のようなものを感じるのです。

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