【パリ五輪】弱点がない石川祐希、逆境も楽しむ髙橋藍…会長・川合俊一が見たバレーボール男子最強伝説

7月27日、いよいよ開幕したパリ五輪。バレーボールは実力、人気ともに最高潮に達している。オリンピックのネーションズリーグでは男女ともに初の銀メダルを獲得。“史上最強”と称されるチームの陰には、勝利の女神の寵愛を受けるラッキーボーイ、川合俊一(61)の姿があった。

川合が協会会長に就任して以来、日本代表は勝ちを重ね、勢いは止まらない。「金メダルを本気で目指す」男子キャプテンの石川祐希は言う。「メダルを取れるメンバーがそろっている」川合は断言する。

黄金に輝くメダルに向かって、跳べ、ニッポン!

「男子日本代表のオリンピック出場が決まった瞬間、コートに駆け込んで選手たちと抱き合いました。あの瞬間に立ち会えたのは、本当に幸せでした」

昨年10月に行われたパリ五輪予選、自力でのオリンピック出場権を獲得し、歓喜と熱狂の渦に包まれた会場に、元バレーボール日本代表で、現在は日本バレーボール協会会長を務める川合の姿があった。

過去2大会続けて最終予選を突破できなかった男子バレーにとって、悲願が達成された瞬間だった。

「五輪行きの切符を勝ち取ろうと、世界がそこにすべてを懸けてくるわけですから、何が起きるかわからない。2試合目のエジプトに負けたときは、正直、五輪は無理かもしれないという思いがよぎりました」

実は、その激戦の裏であることが話題となっていた。会場となった東京・国立代々木競技場第一体育館の外に設置された男女日本代表選手ののぼり。そのなかに、川合の写真がプリントされたのぼりも交ざっていたのだ。

最終予選を中継したフジテレビが、川合に内緒で行ったいたずらだったのだが、のぼりを撤去してもらったその日、エジプト戦で男子日本代表は負けてしまった。

「すると、プロデューサーから連絡が来て、『縁起が悪いので3試合目からのぼりを立ててもいいか?』と言う。それじゃあって、またのぼりを立てたら、そこから4連勝したんですよ。で、7試合目のアメリカ戦のとき、のぼりを外したらまた負けちゃって(笑)」

この一件について、川合本人も自身のSNSに写真を投稿。《またまたやりやがったなフジテレビ》とコメントしつつ、《運気が上がると思います》とつづった。

近年、“類いまれな強運の持ち主”として注目されている川合。「スマホの待ち受けにすると金運や勝負運が上がる」と評判になったことも。事実、長らく低迷していた日本の男子バレーが、“史上最強”と言われるまでに復活したのは、川合が日本バレーボール協会の会長に就任してからのこと。

当の川合本人は、日本の男子バレーが強くなった理由として、スター選手の登場と、それにともなうプレースタイルの変化を挙げた。

「ルール変更もあって、バレーは高さとパワーを重視するスポーツに変わりました。当初は日本も同じようなバレーで勝負しようとしたのですが、高さがない日本はなかなか世界に追いつけなかった」

しかし、そこに現れたのが、石川祐希や髙橋藍のような巧みな技を持つ選手。従来、日本が武器としてきた高い守備力に磨きをかけ、トスワークの質も格段に上がった。

「スパイクを打つふりしてトスを上げるフェイクセットとか、うまさで勝負するバレー。それは昔、僕らが現役だったころの日本が得意としてきたスタイルで、高さのある世界と勝負するにはトリッキーな技が必要なんです。フィリップ・ブラン監督率いる日本代表は、そういうスタイルを確立し、海外チームに勝てるようになってきたと思います」

なかでも、中央大学1年生のときにイタリアに短期留学し、その後世界最高峰のプロリーグで活躍し続ける“史上最高の逸材”、石川祐希の登場が転機となった。

「石川のように、学生のうちから海外で勝負する人はいなかったですから。本人のチャレンジ精神も素晴らしいけれど、留学を後押しした大学にも感謝したいです。石川は、自身が掲げた“世界で通用する選手になる”という目標を見事に達成し、いまや日本の大黒柱。石川のすごいところは、スパイクも、ブロックもうまい。そのうえ、強烈なサーブや安定したレシーブもできるオールラウンダーで、まったく弱点がない。しかも、食事や睡眠など自己管理も完璧で、逆に、どこで気を抜いているのだろう? と心配になるほど。石川が日本代表キャプテンで安心しています」

石川とともに日本男子の躍進に貢献しているのが、22歳の髙橋藍。攻守にわたってチームの要として活躍しているが、プレーだけでなく、そのポジティブな性格が、チームにとって大きな役割を果たしているという。

「髙橋の性格を垣間見られたのは、五輪予選でエジプトに負けたとき。選手のほとんどが落ち込んでいたなか、彼だけは負けたことをまったく気にする様子もなく、『ここから全勝してオリンピック出場権を取ったら、カッコいいですよね』と言ったんですよ。あの状況で、あそこまでポジティブに楽しめるなんてすごいなと驚きました。チームにそういう発想ができる人間がいるというのは、とても重要だと思います」

■一緒に焼き肉を食べながらお金の話をしたことで、選手の意識が変わった

川合が日本バレーボール協会会長に就任したのは、’22年3月。この2年間で行ってきた改革は、協会の行動規範の策定に始まり、メディア露出の拡大やスポンサー企業の獲得など多岐にわたる。協会公式のSNSを積極的に利用し、選手の密着動画やインタビューなどを公開。大会の舞台裏などが見られると評判で、フォロワーも急増中だ。さらに、人気バレーボール漫画『ハイキュー!!』とのコラボなど、PR戦略にも一役買っている。

そうした取り組みによってバレーボール人気に再燃の兆しが見えると、選手たちのメディアでの露出を増やすことに力を注いだ。

「僕が会長になってから、男女の両監督に言ったんです。広報が取材を入れたらOKしてください、と。それまでは、取材を受けるかどうかは監督が決めていましたが、取材のことは広報に一任してほしいとお願いしました」

また、これまで培った人脈を使って、新聞や出版社、テレビ局などの知り合いに「一度でいいから取り上げて」と頼んで回った。

「すると、どこも一度は取材してくれるんですよ。で、よければ2度、3度とやってくれるし、実力があれば一気に来る。昨年男子がネーションズリーグで銅メダルを取ってからは、爆発的に増えました」

さらに、選手たちに対しても、メディアに出ることの意味や、取材を受けるときの心構えなどを自ら説明してきた。

「選手の待遇を改善したり、強化費を確保するためには、お客様に試合会場に足を運んでもらわなければならないし、テレビ中継の視聴率を上げなければならない。そのためには、どんどんメディアに出て、世間に顔を知ってもらうことがとても重要なんです。

練習や試合会場で会ったときにもそういう話はちょくちょくします。昨年のネーションズリーグ前、男子と女子の選手たちとそれぞれ焼き肉を食べに行ったとき、『応援してくれる企業が増えたおかげで合宿が増えたんだよ』『移動の飛行機やバスもよくなったでしょう』という話をしました。お金の話というのはなかなかしづらいものですが、そういう事情を知ることによって、選手たちの意識が変わったと思います」

川合のSNSには、選手と一緒に撮った写真がたびたび公開される。若い選手たちと積極的に交流し、風通しのよい組織を作ってきたことも、日本のバレーボールが強くなった要因の一つなのだろう。

■大学選抜の補欠から運よく日本代表に。ラッキーボーイの才能は学生時代から

選手自身の主体性を大切にする、そんな川合の気質は、高校時代に身に付けたものだ。新潟で生まれた川合は、8歳から家族とともに東京都大田区に移住。のんびり屋の少年は、とにかく動くことが嫌いで、男子と野球をやるよりも、女子とゴム跳びやおはじきをやったり、オルガンを弾いたりするほうが好きだった。

しかし、地元の中学に進むと、父親の勧めでバレー部に入部。高校は、スポーツの名門校、明大中野高校に進学した。

「中学1年から高校3年までの6年間、帰宅後は、毎日必ず2時間、食事をしながらとミーティングですよ。練習内容や自分はどう取り組んだかを報告して、できていないと延々と説教された。寝ている弟を横目に見ながら、『次男は気楽でいいなあ』と(笑)。休みの日には多摩川の土手に行ってサーブの練習をしたりね。結構、厳しい父親でした」

転機は、高校3年生のとき。監督が月に一度しか練習に顔を出さないバレー部は、3年生が自分の頭で考え、自主的に行動するようになっていった。そのおかげで、プレーの面では急成長。卒業後は日本体育大学に進学。3年のときに初めて日本代表入りをはたした。

実は、川合の強運ぶりは、このころからを見せていた。

「当時、大学選抜が日本代表と試合をやって、そこで活躍した大学生は日本代表に入れるという話があったんです。僕は、それまでは大学選抜の補欠で、日本代表になれるなんて思いもしなかった。ところが、僕と同じポジションの選手が、試合中に肩を脱臼しちゃって、それで急きょ、出場することに。しかも、そのときの大学選抜が強くて、日本代表に勝っちゃったものだから、僕も含めた6人はそのまま日本代表に。本当、ラッキーでした(笑)」

当時20歳。ロサンゼルス五輪の出場権がかかったアジア選手権に向けた、アメリカ遠征に参加した。

「ほかの選手がみんな時差ボケに悩まされるなか、僕一人だけが絶好調(笑)。というのも、日体大のバレー部は、先輩の許しがないと寝られないというルールがあったので、ふだんから睡眠時間は2~3時間。だから、寝なくても全然つらくないし、練習中の声もでかい。『あいつ、時差ボケがない、すげえ!』となって、最終メンバーの12人に滑り込めたんですよ」

ラッキーボーイの快進撃は止まらなかった。アジア選手権決勝の中国戦に途中出場した川合は、一人時間差攻撃などのさまざまな攻撃パターンを見せ、五輪切符の獲得に貢献。

「2セット先取され、もう後がないというところで投入されて。それまでの試合でやっていなかった“流れ攻撃”をやったら、次々と決まって日本チームのムードが一変。3、4、5セットを取る大逆転につながりました。

流れ攻撃というのは、体を流すように斜めに跳んで打つ攻撃で、漫画の『ハイキュー!!』にも似たような攻撃があるんですよ。練習では、変な攻撃するなと怒っていたコーチも、流れ攻撃が決まると、『どんどんいけ!』って。『やるなと言って怒りましたよね?』って感じですよ(笑)」

そして、ロサンゼルスオリンピックで五輪初出場をはたした川合。

大学卒業後は、実業団「富士フイルム」に入社し、日本リーグで5連覇を達成。第一次バレーボールブームの火付け役となった。『平凡』や『明星』など、雑誌にも取材され女性ファンが急増。会社の体育館や実家のトンカツ店には、大勢のファンが押しかけたが、当の本人は、「どこか人ごとだった」と意外にあっさり。

アイドル的な人気を誇った川合は、ファッションも注目された。

「日本代表のスーツがカッコ悪くて、『移動のとき私服でいいですか?』ってコーチに言ったら、最初はすごく怒られたのだけど、しつこくお願いしたら、僕だけ、Tシャツとジーパンで移動してもいいと許可が出たんです。ただし、試合で調子が悪かったらただじゃおかないと言われて。人生でベスト3に入るくらい頑張って活躍したら、その後、日本代表の移動の服装は自由になりました(笑)」

時代は、日本が好景気に沸いたバブル期。私生活では、学生時代から通い慣れた六本木を拠点に交友関係を広げた。

「大学4年ごろから芸能人の友達は多かったですね。少年隊の東山紀之や、陣内孝則さん、真田広之さんと仲がよかったなあ。そのころは、六本木で飲んでいても、お金がいらなかったんです。会計のとき、『おいくら?』って言うと、『若いが、何言ってるんだ!』と大人がおごってくれた。とにかく、お金はどんどん入ってくるから、それほど重要じゃなかった時代。

毎日が楽しいのがいちばんで、2番目は人が持っていないものを持っていること。そして3番目は、深夜タクシーを呼べることがステータスでした。当時の六本木は、夜中になるとまったく空車がなくて、飲み代30万円払うよりも、タクシーを呼べる人のほうがすげえ! って感じでしたね(笑)」

夜の街で培ったコミュニケーション能力は、選手引退後の人生でも、おおいに役立つこととなった。

【後編|パリ五輪】バレーボール協会会長・川合俊一の勝利予想は…「ラッキーボーイの甲斐優斗がメダルを左右する」へ続く

(取材・文:服部広子)

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