【追悼】写真家・武田花さん。直木賞受賞作家・村松友視さんが語る、武田家との思い出「泰淳さんに百合子さん、そして彼女もいなくなった」

『婦人公論』2007年9月7日号での武田花さんインタビュー記事

武田山荘を取り壊した際、本誌でインタビューを受けた花さん(『婦人公論』2007年9月7日号)
2024年4月30日、写真家の武田花さんが亡くなった。父は昭和を代表する小説家・武田泰淳さん、母・百合子さんは夫の死後に発表した随筆が大ベストセラーに。そんな二人を編集者として担当したのが、後に作家となった村松友視さんだ。武田家と長く親交を重ねてきた村松さんが花さんを偲ぶ(構成=篠藤ゆり

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【写真】山荘のリビングルームにて、父・泰淳さんとタマ

独特の息遣いが聞こえてくる

花ちゃんが僕より早く亡くなるとは思わなかったな――写真家・武田花さんの訃報を聞き、まずそう思いました。享年72ですから、今の時代、なんとも早い。

同時に、この歳まで生きたのかとびっくりもしました。面白いし、すごく魅力的だけれど、なんとなく薄命そうな感じがありましたから。

晩年は甲状腺の病気を患っていたそうですが、若い頃から元気ハツラツとした姿は思い浮かばないので、調子が悪いことがわかりにくい人でもあった気がします。

最後に会ったのは2012年11月。劇作家の唐十郎さんがかつて泉鏡花文学賞を受賞した縁で、「金沢泉鏡花フェスティバル」で紅テントを張って芝居が上演されるというので、麿赤兒四谷シモン、大久保鷹など状況劇場の元メンバーが出演して。その観劇ツアーの中に、花さんもいました。

村松友視さん

編集者として武田家と長く親交を重ねてきた村松さん(撮影:大河内禎)

芝居がハネた後、だらだら町を歩いて、一人欠け、二人欠け。最後にラーメンを食べて解散しようとなってテーブルに座ったら、目の前に花さんがいた。「花ちゃん、今いくつ?」と聞いたら「61」。彼女自身、自分がそんな年齢になっていたことにびっくりしているようでしたし、僕もびっくりしました。

その後は時々届くハガキが唯一のつながりというか……。本を出すたびに送ってくれるし、目立たないようなところで書評めいたものを書くと、必ずお礼のハガキが来る。あんな記事、よく見つけるなぁ、と思ったものです。

花さん独特の嗅覚というか、人があまり注目しないようなところに行ってカメラのシャッターを押す、あの感じに通じるなと思いました。

ハガキの文面は、いかにも花さんらしく、ぼそっとした感じで、独特の息遣いが聞こえてくる。「花さんらしい」がそのまま形容詞になるような言葉の選び方でした。

花さんは、忘れ去られたような風景の中に猫がいる写真でよく知られています。発表されているのは、ほぼすべてモノクロ写真。でも、現実の世界はモノクロではなく、カラーなわけです。

たぶん、花さんがじーっと風景を観ていると、花さんの感覚で色彩が漂白されていくのではないか。それは彼女が観た世界であって、現実の風景に向かってシャッターを切ったというのとは、ちょっと違う。いわば、花さん色に染まった白黒写真という感じです。

そこには、特殊な環境で育った屈折した娘の感性も、垣間見えます。

犬の足あと猫のひげ

根強いファンの多い花さんのフォトエッセイ集『犬の足あと猫のひげ』(中央公論新社)

両親と距離のある少女

花さんの父親である作家の武田泰淳さんに初めて会ったのは、僕が中央公論社の編集者だった1969年。文芸誌『海』で泰淳さんが「富士」の連載を始めるにあたり、編集担当となったことから、その後、たびたび武田家を訪れるようになりました。

初めて訪ねた頃、花さんは確か高校3年生だったと思います。立教女学院の寄宿舎に入っていたので、年中家にいたわけではないけれど、時々帰ってきていたんでしょうね。

飼われていない猫がすーっと入ってきて、また出ていくような感じで、目立たないお辞儀をして部屋を出ていく。その場の空気にあまり長く身を置きたくない多感な少女なんだな、という雰囲気でした。

武田家を訪れると、玄関の鉄の扉の内側にもうひとつ木の鎧戸のようなドアがあって、外扉を開けると泰淳夫人の百合子さんが、桟の隙間からじーっと見ている。そしてちょっと間を置いてから、「どうぞ……」。

今、それを思い出すと、なんとなく花さんがファインダーを覗いている時もそんな感じがあったのかな、という気がします。

百合子さんはカーッと照る太陽のような人ではあるけれど、猫が物陰からじーっと人を窺っているような一面もある。自分の出自に対して複雑な思いを抱えていただろうし、敗戦直後はかなり大変な思いもしたから、そういう空気感をまとったのかもしれません。

一方、泰淳さんは、戦争中に大陸で日本軍の軍人としての重く痛い経験を背負っていた。作品にもそれが色濃く反映しているし、人柄にもそうした影があります。そんな二人の間に不思議な引力が働いて、一緒になったわけです。

思春期の娘が、そこに馴染むのは難しかったのではないか。寄宿舎に入ったのは両親の意思だったようですが、それがよかったんじゃないかと思います。

『富士』武田泰淳:著

今も長く愛される名作、武田泰淳:著『富士』(中公文庫)

そんなわけで、花さんとたまに会っても、ほとんど会話らしい会話を交わさなかったけど、どういう流れだったか、ある時、フォークシンガーの遠藤賢司の「ほんとだよ」という曲が入っているレコードを貸してくれた。

後に『富士』の中に、「ほんとうだよ、ほんとうだよ」と言いつのる人物が出てきたので、遠藤賢司の歌詞から取ったんだなと思った。当時すでに泰淳さんは作家としては大家でしたが、娘からそんな影響を受けたりもしていたんですね。

たぶん、百合子さんの感性からもかなり刺激を受けていたんじゃないでしょうか。

百合子さんは泰淳さんの没後、『富士日記』を上梓し、名随筆家として注目されるようになります。当時、世間の人は、作家である夫の影響で文章が磨かれたとか、さすが作家の奥さんだ、などと言ったものです。

でも、僕はそうは思わなかった。百合子さんがもともと持っていたものが、泰淳さんの死後、花開いたのだと思います。

『富士日記』に登場する「武田山荘」にも、何度かお邪魔しました。富士山が間近に見え、近くに大岡昇平さんの別荘もあったりするんだけど、山荘を建てる時に泰淳さんがこだわったのが、富士山を背にすることだった。

普通、目の前にバーンと富士山が見えるように建てますよね。でも、富士山の側に壁があるんです。これはどこか花さん的でもある――。やはり花さんは、二人のDNAを引き継いでいる気がします。

後編につづく

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