佐藤愛子さん100歳「誕生日もヘチマもありませんよ。みんなが乗っている電車が目の前を通りすぎていくのを、ひとりただ見送っているようなもの」【2023編集部セレクション】
2023年下半期(7月~12月)に配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします。(初公開日:2023年11月3日)
***********
2022年9月号から1年あまり連載されたエッセイ「思い出の屑籠」をこのたび単行本として上梓する佐藤愛子さんは、11月5日に満100歳を迎える。百寿者とは思えぬ仕事ぶりだが、本人のご様子やいかに(聞き手・構成・撮影◎本誌編集部)* * * * * * *
「飛脚の佐藤」も今はヨロヨロ
11月のお誕生日で100歳に。
――誕生日もヘチマもありませんよ。まだ死んでいない、それだけのこと。100だろうが、103だろうが105になろうが、何がどう変わるわけでもありません。みんなが乗っている電車が目の前を通りすぎていくのを、ひとりただ見送っているようなものです。
「思い出の屑籠」は最後の力を振り絞って書きました。今、単行本のための校正を済ませたところ。本を出すのも、これでもうおしまい。
97歳の時に、長年続いた女性誌のエッセイ連載で断筆を宣言した。しかし昨年、本誌で「思い出の屑籠」の連載が開始。
――25歳で小説家を一生の仕事にしようと決めて以来、書き続けて72年。精根尽き果てスッカラカンになって、もう書けないと筆をきました。でも、そのうちヒマでヒマでたまらなくなって、思い出すままによしなしごとを書き始めていたんです。それが溜まりに溜まってどうしようかと編集者に見せたら、いつの間にか『婦人公論』での連載になっていたわけです。
どのくらい前から書いていたかって? さあ、どうだったかしらね。もう今じゃ、いろんなことを片っ端から忘れるんですよ。これは、死に支度ですね。すべて忘れるっていうことは。余計なことは覚えておく必要がないんだから。
仕事をやめた今は、退屈なもんですよ。半分ボケたバアサンに仕事の用件で訪ねてくる人もいないから、毎日ウツウツとしています。
以前は目が覚めるとすぐに「今日は何をするんだっけ」と考えて、あの原稿の締め切りがあるとか、インタビューがあるとか思い出し、「いざ出陣!」と起きるわけです。それが今では、目覚めてしばらく床の中で「今日は何をするか」と考えるんだけど、特にすることもなし。仕方なくモソモソと起きる。いざ出陣でも何でもないわけです。起きる時からもう元気がないんですよ。
そのうえ、体調がいいか悪いかも、目覚めたばかりじゃよくわからない。
体調は、日によっても時によっても違いますね。起きたはいいがソファに横になって、天井の格子模様を眺めている日も、一日ベッドの中にいることもあります。この夏はとりわけ暑かったので、へばっていました。
そういえば昨年は帯状疱疹とやらで、2ヵ月くらい寝込んでいました。でも、原稿が気になって、片足棺桶に突っ込んでたのに、引っ返してきた(笑)。床上げしてからは、歩けなくならないように廊下を行ったり来たりしてね。昔は「飛脚の佐藤」と呼ばれるくらい速足だったんだけど、今やヘナヘナ、ヨロヨロです。
体重も落ちました。すっかり痩せたけど、なぜか顔だけは変わらない。おまけに耳が遠くて自然と声が大きくなるから、みんな元気だと誤解して困るんです。腰が真っ直ぐだって? それは昔から背中が反っていたから、腰は曲がらないの。目はメガネをかければ読書もできますけど、耳がいけませんね。聴こえがすっかり悪くなりました。
一日の過ごし方は。
――起きるのは6時ごろかしら。それから杖をつきつつカーテンや雨戸を開けて歩いて。顔を洗ったら、表へ新聞を取りに行くのだけど、最近は足が上がらないものだから、やたらにつまずく。我ながらちょっと危ないなあ、と思っています。
新聞を読んでいるうちに娘がパンと卵やスープなどを持ってきてくれるから、お腹はすいてないけれども食事する。朝昼兼帯です。食欲はめっきり落ちましたね。
食後はもうすることがなくて、ぼんやりと庭を眺めたり、テレビを見たり。夕食は自分で作って食べて、寝室で本を読み、10時ごろには眠くなって寝る。寝つきは昔からいいんです。まァ、何も予定がないので寝過ごしたって別にかまわないんだけど。(笑)
少女時代のあの家が人生で一番幸福だった
「思い出の屑籠」では、最初の記憶から小学校高学年までの自身の日常が綴られる。記憶の緻密さに驚かされるが。
――物を書く人は記憶が必要だから。作家なんてのは過去をずっと引きずって生きているんですよ。同窓会で女学校の先生の口グセを真似すると、友達はみんな「よくそんなつまらんことを覚えているね」ってあきれかえっていましたね。
もっとも、作家の頭の中ですから、事実に空想やいろんなものがない交ぜになっているかもしれません。でももうみんな死んでここにいないから、何を書いても文句は言われない(笑)。無責任なもんですよ。
書き始めてみると、その時の子どもになっちゃう。5歳のアイちゃんを書いていると、5歳の目になるのね。作家はみんなそうだと思います。
エッセイには作家の父・佐藤紅緑と元女優の母シナ、4歳上の姉・早苗、そして異母兄たちが登場する。紅緑は前妻と別れ、女優だったシナを奪い去るように妻にした。
――母はあの時代の女性としては進歩的な考え方の持ち主でした。10代のころから平塚らいてうの女性解放運動に触発され、自立したくて女優を志した。それなのに芝居や小説の世界で飛ぶ鳥を落とす勢いだった流行作家・佐藤紅緑に見初められ、狂おしいほどの情熱で求められて、人生を捻じ曲げられたんです。
世間からは駆け出しの女優が作家を籠絡したと見られましたからね、プライドの高い母にとっては歯がゆいことだったと思います。男に養ってもらってペコペコしなきゃならなくなったことを、ずっと情けなく思っていたのでしょう。
私を身籠ったから、母はその暮らしを受け入れざるをえなくなったんです。姉を産んだ後も、母は女優を続けていけると思ってたんだけど、赤ン坊の姉とその乳母を連れて地方巡業なんかに出かけることの大変さ。
女優といっても今のように映像が発達している時代じゃない。ナマの舞台を見せるんですから。赤ン坊を連れての地方巡業には無理があって、それでやめざるをえなくなった。結局、母は舞台を断念し、姉と私を育てる普通の母親になりました。
サトウハチローは父の前妻が産んだ長男です。ほかに3人男の子がいて、母は4人のママ母になったわけですね。そんな波瀾の一族の最後に私が生まれて、それでようやく波瀾が一段落ついたってわけ。
母は父の息子たちに喜怒といったものはまったく見せなかったけれど、それなりによくやっていたと思います。干渉しない、いじめない。いつでも味方をする。悪く言うことはいっさいありませんでしたね。兄たちが不良になったのは自分のせいもあると思っていたんでしょう。
兄たちにしてみれば、余計な女優がしゃしゃり出てきて、母さんと呼べと言われることになったわけだから。それはやっぱり理不尽なことだと思うでしょう。でも私のことは可愛がってくれましたね。昔の不良は外で暴れても女の子にはおとなしかったですよ。
父は毎月何本も連載を抱えて、盛んに仕事をしていた時期です。書生や居候、使用人も多く、家じゅうに活気がありました。
私は父が50過ぎてから生まれた子どもだったから、めったやたらに可愛がられました。ちょっとでも泣き声をあげると、誰が泣かした、誰が悪いって大騒ぎ。だから使用人たちはみんな、父の顔色を窺って、私の機嫌ひとつで不穏な空気にもなったものです。私のワガママはこんなところに根があるようですね。(笑)
幼き日の佐藤さんが、寝る前に2階の書斎にいる父におやすみなさいを言うと、「おう」と返事が返ってくる。それが「全生涯での一番の幸福の時」であったとエッセイに書かれている。
――あれは本当に、ありありと思い出すことができるんですよ。「おう」と機嫌のいい声が階段の上から降ってくると、台所にいる使用人たちまでみんなほっとする。いつも怒ってる人でしたからね。
あの家には、働き盛りだった作家・佐藤紅緑の隆盛と同時に、私の幸せもあったわけです。小学校5年の時に越した家は広すぎて、人の気配が感じられなくなった。姉は女学校や洋裁学校に通っていたから、一緒に遊ぶこともないし。
私が女学校を終えるころに戦争が始まり、そこからは苦労の連続です。最初の亭主は戦争でモルヒネ中毒になり、別居しているうちに亡くなりました。再婚した亭主の大借金を肩代わりすることになったり、波瀾は続きました。
けれど夫の借金と離婚に材をとった作品で1969年に直木賞を受賞して、作家として生きていくことができたのですから、人生は捨てたものじゃないですよ。
直木賞をもらう前後から最近までずっと、締め切りに追われる生活でした。夜中に寝床でうつらうつらしていても書きたいことがひらめくから、すぐに起きて書けるように寝室と書斎をひとつにしてね。原稿用紙と文鎮と万年筆はいつでも机の上に広げてあるんですよ。仕事一筋に生きてきましたね。
多忙だったころの珍事件
仕事を終えて、作家の日常はどう変化したか。
――今じゃ、原稿用紙の上にホコリが溜まっています。万年筆は礼状を書くくらい。それすらなんだか億劫なことが多いですね。
忙しかったころはよく読者から電話がかかってきて、相手をするのもいい気分転換でしたが、今はそれもない。読者からの手紙や電話は、どれだけ仕事をしているかのバロメーター。仕事をしていないと、静かなもんです。
そういえば以前、見知らぬ男が靴のままドタドタ台所へ上がってきて、「佐藤愛子はいるか。佐藤愛子はどこだ」って叫んだことがありました。仕方がないから出ていって「私が佐藤だけど、それが何か」と言っても、何も言わない。
私が「なんですか、あんた。土足のまま上がってきて」と怒っても、「お前が佐藤愛子か」と言うばかり。ところが別棟にいた甥夫婦はその男に後ろ手に縛りあげられていましてね。甥の妻が後ろ手に縛られたままピョンピョン跳ねて庭へ出てこようとしているのが見えたから、塀を乗り越えて隣家に助けを求めに行ったんです。
広いお庭でねえ。名前を呼びながら走っていくと、中から奥さんが出てこられて、「あらあなたは佐藤さん? どこからいらしたの」って。(笑)
そのころ、美人作家の家に白昼強盗が入るというのが何件か続いていて、遠藤周作さんや北杜夫さんに「まだ来ないかねえ。美人じゃないってことかねえ。泥棒にも見捨てられたか」なんてさんざんからかわれていたの。それが「作家の佐藤愛子さん宅に白昼強盗」とニュースに出たら、電話がリーンと鳴って、北さんが、「おめでとうございます」って。(笑)
今はあまりにヒマだから、泥棒でも入ったら大立ち回りでもしてやろうと思って待ってるんだけど、そんなこともないから本当に退屈でね。セコムとかいうんですか、防犯システムとやらもあるし。世の中はつまらなくなりましたね。
10/05 11:30
婦人公論.jp