村松友視「昭和を代表する小説家・武田泰淳さん、ベストセラー『富士日記』を著した妻・百合子さん、DNAを受け継いだ娘の武田花さん。稀有な才能に満ちあふれた一家だった」
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【写真】花さんが撮影した、武田山荘のベランダでくつろぐ百合子さんと猫のタマ
父から贈られたカメラ
花さんが泰淳さんからペンタックスSVをプレゼントされたのは、19歳の時だそうです。
泰淳さんが「うちの娘は、何もしなくてぼーっとしている。学校の勉強もできないし、困った」とある方に相談したところ、「カメラでも持たせれば何かやるんじゃないか」と言われたとか。結果的に、それが花さんの人生に大きな意味を持つことになったわけです。
写真家・武田花が使っていたのは、フィルム交換がしにくいライカM2だそうですが、交換にかかる時間を煩わしくは思っていなかったみたいですね。一瞬のシャッターチャンスを狙って、ピュッと写真を撮るタイプではないんでしょうね。
最初は、一般的な目にはわかりにくい写真かなと思っていましたが、徐々に多くの人が武田花の写真に魅力を感じるようになった。90年には『眠そうな町』で、写真界の芥川賞とも言われる木村伊兵衛賞を受賞しました。
花さんの写真がそういう認められ方をしたことをちょっと意外に感じましたが、本当によかったなと思いました。
そのうち花さんはエッセイも書くようになっていきます。百合子さんのように160kmのズバーンとした速球ではなく、ゆるくて回転していないナックルボールみたいな感じというか。
それは、花さんの生き方にも通じるんじゃないか。そんなふうに、じわ~っとした存在感があることを、百合子さんはある時期から理解していたのではないか。
ちょっぴり困った娘だと思っていたわが子のなかに、やっぱり見るべきものがあったと確信した時があるような気がしますね。
その頃から、母子の距離が近づいていったんでしょうね。武田山荘で、二人で過ごす時間も増えていったと聞いています。
唯一無比の表現者
よく、少し人慣れした野良猫が、あちらの家でもこちらの家でも、なんとなくそこが居場所みたいな感じでしばらくいついたりしますよね。花さんもそういうところがあったのか、ある時期から、男性の家で過ごしたりするようになった。
ある年の元日、泰淳さん亡き後、たぶん百合子さんは一人で寂しい思いをしているに違いないと思って、「うちでお正月やりませんか?」と声をかけたことが2~3回あります。
当時、わが家は半分壊れかけみたいなボロ家で、隙間風がビュービュー入ってくる。百合子さんは毛皮のコートを着たまま炬燵に入り、おせち料理をつまんだりしていました。
好きな音楽は、遠藤賢司やブルースバンドの憂歌団。ジャズは、ジミー・スコット以外は受けつけないと花さんは言っている。
ジミー・スコットはしわがれ声を絞り出して、おじいさんだかおばあさんだかわからないような声を出す特異なシンガーです。花さんとジャズはそれほど結びつかないけれど、ジミー・スコットならわかる気がします。
いろいろなバイトもしたそうで、水商売の経験もあるようですけど、口下手だったし、男性を相手にするような商売は難しかったんじゃないか。ちょっとうらぶれた小さな店で、お客さんの悩みを聞いてあげて、ぼそっと何かひとこと、アドバイスともつかないようなことを言う――そんな人生相談請負人なら想像できますが。
百合子さんは、「この中のものは私が死んだら燃やすこと」と書いた紙が貼ってある茶箱を残して旅立ちました。
花さんは百合子さんの没後、その箱を富士山荘に持っていき、箱の中のノートや本を約束通り中身を見ずにすべて燃やしたそうです。百合子さんは、花さんなら必ず遺言通り燃やしてくれると信じていたんでしょうね。
僕はずっと、百合子さんは唯一無比で、あんな人はほかにいないと思っていました。その娘である武田花さんも、けっきょく唯一無比の表現者に仕立て上がった。本当に稀有な才能に満ちあふれた一家でした。
08/25 12:30
婦人公論.jp