漱石の孫・半藤末利子「嫁入り道具として持参した、夏目家の糠漬けを共に食べて59年。昭和史の語り部と称される夫・半藤一利は、静かに逝って」

祖父・夏目漱石の小説、夫・一利さんの著作やポスター、大学ボート部の写真が飾られた自宅にて(撮影:洞澤佐智子)
『日本のいちばん長い日』『昭和史』など数々のノンフィクションを執筆し、昭和史の語り部と称される作家で歴史研究家の半藤一利さんは、2021年1月、90歳で亡くなった。妻でエッセイストの半藤末利子さんが、疎開中の出会いから始まった二人の思い出を辿る(構成:篠藤ゆり 撮影:洞澤佐智子)

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【写真】穏やかに微笑む半藤末利子さん

意外だった最後の言葉

夫・半藤一利が亡くなって3年以上たちますが、一人の生活はイヤなものですね。楽しくもなんともないですよ。考えてみたら、一人暮らしは人生で初めてですから。

夫が体調を崩したのは、2019年に大腿骨を骨折したのがきっかけでした。大酒呑みでおっちょこちょいな人なので、酩酊して足元がおぼつかなくなり、転んでしまったのです。

じつは、それ以前にも、酔って玄関の前で転んで、夜中にお向かいのご主人様が担いで運んでくださったことがあって。「もう二度とそんなバカな真似はしないでよ」ときつく叱ったのに。

手術後、リハビリ病院に転院したものの、年が明けてから再手術することに。その後、なにかを誤嚥した結果、下血したりして、計10ヵ月ほど入院しました。退院後はリハビリをしながら、原稿を書いたり、ゲラを読んだりと、それまで通りの生活を取り戻していたんです。

でも、どこかで死期を察していたのでしょう。「コロナの時代に一ついいことがあるとしたら、派手な葬式を誰もやらなくなったことです。私が死んだ時も、葬式はしないでください」と言っていました。ですから、いたしませんでした。

そのうち臥せるようになり、1週間ほど下の世話をしたのかしら。すると、「あなたにこんなことをさせるなんて、思ってもみませんでした。申し訳ありません」と泣きながら謝るんです。そんなこと言われたら、こちらも胸がいっぱいになって。

そして亡くなる数日前から、「私、死にます」と真剣な声で言うようになったのですが、私にとって死という言葉は重くて、とても返事をする気になれず涙がこみあげたものです。

夫と私の子はいませんが、夫には、前の結婚で生まれた娘がいます。ある朝、彼女が様子を見に来てくれました。「まだ寝てるのかしら」と、朝食を食べていた私と一緒に寝室に行ったのですが、娘が夫をひょいと見ると、「あれっ、息をしていない!」。びっくりして私に飛びついて、わっと泣き出しました。

でも私は、すぐには涙が出ませんでした。やるだけのことをやったし、これ以上私に大変な思いをさせないよう、静かに逝ってくれたんだ。なんと見事なんだろう、すごいなぁと、感謝の気持ちでいっぱいでした。

あれは亡くなる前日だったでしょうか。明け方、隣のベッドにいる私に「起きてますか?」と声をかけてきて。「墨子(ぼくし)は2500年前の思想家だけど、あの時代に、戦争はいけないと言っている偉い人です。だから、墨子を読みなさい」。今思えばそれが遺言でした。それなのに私は、まだ墨子を読んでいないんですけどね。

彼は終戦の年、東京の向島区(現在の墨田区)に住んでいました。一晩で約10万人の非戦闘員が亡くなった3月10日の東京大空襲を、かろうじて生きながらえたのです。

その経験が原点となり、終始一貫して、「戦争のない、平和な世の中を続ける」ことを願い続けたのだと思います。ちなみに打ち上げ花火はずっと嫌いでした。音と光が空襲を思い起こさせたのでしょう。

熱意にほだされて結婚

半藤と初めて会ったのは、小学5年生頃。父の故郷、新潟県長岡市に疎開中、兄の友人の一人としてうちに遊びに来ていました。彼は空襲で焼け出され、長岡で暮らしていたんです。

戦後、社会人になった兄のところに遊びに来るようになり東京で再会。大学生の私はふわふわしていて、バスケットボール選手に憧れたり、いろいろな男の子とデートしてはすぐ飽きたり。

あの人は東大のボート部で活躍していましたがハンサムボーイではないし、5歳しか違わないのに、なんだかじいさんみたいな顔で惚れる対象じゃなかったの。(笑)

ところが彼は、「好きです」「結婚してください」と、懲りずに何度も言ってくるんです。しまいには「あなたの奴隷にしてください」なんてことまで言い出して(笑)。「ほんとかしら?」と思ったけど、女性に対してそこまでへりくだれる男の人は初めて。私はそんなふうに人を愛する感覚がわからなかったので、断り続けていました。

一つには、彼は離婚歴がありましたから、私が子持ちの男と結婚したら親が悲しむと思ったんです。姉はアメリカ人と結婚するなど、きょうだいみんな自由というか、親が願っていたのとは違う生き方をしていて。末っ子の私は、親を悲しませてはいけない、という気持ちが強かったのかもしれませんね。

私の父は作家の松岡譲で、母・筆子は夏目漱石の長女です。なんでも同じく漱石門下の久米正雄と父が母をとり合ったとかで、今風にいうとスキャンダルになり──でも、母が父を好きになってしまったのだから仕方ありません。

半藤も文藝春秋社で雑誌の編集者をしていたので、大きな声では言えませんが、今も昔もマスコミは勝手なことを書きますよね。母も傷ついただろうし、屈託を抱えた結婚生活だったと思います。

漱石の妻・鏡子も、悪妻の見本みたいに言われたでしょう。でも、母はいつも「母は父に対して、正座して手をついてお話しするような人でしたよ」と言っていました。悪口も一切言わなかった、と。

漱石は精神を病み、妻への暴力や暴言もあったそうです。それでも漱石を支える覚悟を決めたのですから、肝が据わった女性だったんでしょう。まぁ、結婚の実態というのは当事者にしかわからないですよね。

ただし祖母は朝寝坊で、料理は下手。ですから、料理が上手だった私の母は、「あの味では父が気の毒でした」と言っていました。(笑)

話を戻すと、私は半藤の熱意にほだされ、ここまで愛してくれる人はそういないだろうと思うように。そんなわけで私が27歳の時に結婚し、彼の娘は義母が面倒をみることになりました。

結婚する際、「嫁入り道具」として持参したのが、代々伝わる糠床です。祖母が漱石の家に嫁ぐ際に持参し、母がそれを受け継ぎ、さらに私が受け継いだので、江戸時代からずっと続いていることになります。

半藤はお酒が好きだから、酒のさかなになるおかずをよく作りましたが、糠漬けも毎日の食卓に欠かせないものでした。

後編につづく

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