福薗伊津美「60で逝った夫・寺尾。入院中、現役時代に食いしばって割れた奥歯を磨き。人生をやり直せるなら、寺尾が相撲部屋の師匠となる時に戻りたい」

若い頃の錣山親方(元関脇・寺尾)

相撲に関心のなかった伊津美さんだが、この写真で若かりし寺尾のスリムな体形を知り、「いつかこの体形に戻るなら付き合ってもいい(笑)」と思った思い出の1枚(写真提供◎福薗さん)
大相撲の錣山(しころやま)親方(元関脇・寺尾)が、2023年12月17日にうっ血性心不全で亡くなった。享年60。力士としては細身の体から繰り出す突っ張りと甘いマスクで人気を集めた。通算出場記録(1795回)、幕内の連続出場記録(1063回)はともに歴代4位、幕内在位は歴代6位の93場所。「鉄人」とも呼ばれた約23年の土俵人生で数々の記録を残し、引退後は錣山部屋の師匠として指導にあたった。妻の伊津美さんが、ともに過ごした日々を振り返る(構成:佐藤祥子)

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【写真】事務所に貼られた親方のメモ

前編よりつづく

22歳の寺尾との出会い

私は8歳上ですから、まさか寺尾が先に亡くなるとは思ってもみませんでした。「男性と女性の平均寿命を考えたら、一緒に死ねるね」などと話していたほどです。

父親(元関脇・鶴ヶ嶺)を師匠とする相撲一家に生まれた、井筒三兄弟の三男。思えば兄弟すべて短命で、次兄(元関脇・逆鉾)は58歳、その半年後に長兄(元十両・鶴嶺山)が60歳で亡くなっています。

でも、たとえ長生きはできなかったとしても、師匠である父は77歳まで存命でしたし、ひとつ持病があるくらいのほうがしょっちゅう病院で診ていただけるので、かえっていいかしら、くらいに思っていたのです。

寺尾と出会ったのは1983年、私が29歳の時でした。亡き五代目柳亭痴楽師匠のご縁です。当時、師匠はまだ小痴楽と名乗っていました。私が10代の時に2年ほどアルバイトしていた代官山の喫茶店に、同期の三笑亭夢之助さん、三遊亭小遊三さん、ヨネスケさんらとよく来ていて、それが師匠と仲良くなったきっかけです。

まだ誰も売れていない時代で、「家賃が払えない」と言うと貸し合ったりするような仲。それから私は結婚し、離婚後にまた皆で集まって会うようになりました。

寺尾と同期の元関脇の益荒雄さんが師匠と仲が良かったこともあり、また顔を合わせたのは師匠の結婚披露宴。その後、師匠の自宅で開かれるホームパーティなどでも、たびたび会うようになりました。でも私は相撲にまったく興味がなく、当時すでに幕内力士だった寺尾の名前も顔も知りませんでした。

なにかと気を使ってくれる優しい人で、まもなく食事に誘われて。まだ22歳で女性とほとんどお付き合いしたこともなく、痴楽師匠に「次のデートはいつ誘ったらいいものなんですかね」などと相談したりしていたそうです。

私がバツイチであること、子どもがいることは伝えましたが、交際することになりました。いつもグループデート。「部屋にいるやつ、みんな来い!」と、十数人を一斉に集めるんです(笑)。仲の良かったノブちゃん(格闘家高田延彦さん)とは、旅行にもしょっちゅう行きましたね。千秋楽翌日からのグアム旅行が定番でした。

寺尾は父である先代から、30歳まで結婚を禁じられていました。これは井筒部屋の伝統というか、決まりごと。先輩関取たちの中には、「師匠に結婚報告した時には、もう子どもが小学6年生になっていた」という方もいたのだとか。(笑)

10年ほどワイワイと楽しく交際し、息子と暮らす部屋に通ってきてくれていたので、私は結婚にまったくこだわっていませんでした。でも私が38歳になった時、年齢のことを考えたのか、寺尾から「子どもを作ろう」と言われて。40歳で次男を出産したのを機に、結婚しました。

子煩悩で、「自分以外に大切なものが初めてできた」と言っていたそうです。最期まで、携帯電話の待受画面は幼い頃の次男の写真でした。

性格は、とにかく真面目で繊細。弟子やその家族の誕生日をすべて手書きで表にして、事務所に貼っていました。

日頃の会話では、「死んだらどうなると思う? 魂はどうなると思う?」というようなことをしょっちゅう口にしていましたね。私はこの通りの性格ですから、「うーん、考えたことはあるけど、そんなの小学生の時だったよ?」と返してしまう始末(笑)。

知人が亡くなると落ち込みがひどく、鬱っぽくもなる。17歳で最愛の母を亡くしていたからか、死に対する恐怖が常にあったような気がします。

彼は、私の最大の趣味だった

今でも思い出して泣いてしまうのは、寺尾の奥歯が全部割れていて、残っていなかったことでしょうか。最後の入院中に歯を磨いてあげている時、初めて気づいたことでした。虫歯は1本もないのに、前歯も摩耗してちっちゃくなって、もう4ミリくらいしかなくて……。

同期の八角理事長(元横綱・北勝海)が、昔、「奥歯が残ってるような力士じゃダメだ」と言っていたのを思い出しました。相撲を取る時、グーッと歯を食いしばって力を入れるから、力士は奥歯が割れてしまうんですね。

でも、まさかここまでとは思わなかった。びっくりして「こんなになるまで頑張っていたのね。ありがとう」という気持ちで、毎日、寺尾の歯を磨いていました。

寺尾と結婚して、本当によかった。優しくしてもらいましたし、女冥利に尽きた人生だったので。

たとえば女性は、ファッションの一部としてバッグを持ったりしますよね。でも寺尾は私に持たせない。「女性に物を持たせてはいけない」と言われて育ったらしく、重くもない小さなバッグを、大事そうに胸に抱えるように持つんです。こちらが恥ずかしくなるくらい。

私だけじゃなくて誰にでも優しかったから、きっと勘違いした女性もたくさんいたんじゃないかしら、とも思いますが。(笑)

寺尾の夫婦対談を掲載した『婦人公論』(2003年10/7号)

現役を引退した翌年の『婦人公論』(2003年10/7号)では夫婦対談も。伊津美さんは実母との約束で「60歳以降は写真を撮らない」ことにしており、今回の取材では顔を出すのを控えた

でも、どこかの時点で人生をやり直せるなら、寺尾が相撲部屋の師匠となる時に戻りたい。引退した2003年には、『婦人公論』で夫婦対談もしましたね。師匠とおかみさん、として過ごした18年間もたくさんの思い出がありますが、それでもあの時に戻れたら、きっと師匠になることを反対すると思います。

若い子たちの人生――それこそ、食いしばりすぎて歯がなくなる寺尾のような力士の人生を、たくさん預かるんです。ただでさえ、病気やケガがつきものの世界。弟子がケガをすると、「もしこのまま力士が続けられなくなったとしても、本人にも親御さんにも一生後悔させないように」と、最高レベルの治療を受けさせるために全国を奔走していました。

39歳まで現役を続けるなか、力士としての体を維持するために全国の医療機関を訪ねてきた人ですからね。手術に立ち会ったり、私が親御さんに治療方針を説明することもよくありました。

寝食をともにし、コロナ下では8000枚のマスクを常備してまめに取り換えさせ、外出から帰ったら即、シャワーを浴びるのをルールにしていました。人一倍、心配性で繊細な寺尾の心臓が持つわけがない。今となってはそう思えてしまうのです。

寺尾亡きあとの部屋は、一番弟子だった元小結の豊真将(ほうましょう)が継いでくれました。次の世代に寺尾の考え方を押しつけようとは思いませんが、きっと《イズム》は受け継いでくれているものと信じています。

今は三兄弟が、両親とともに仲良くひとつのお墓に眠っています。マザコンを自負していた寺尾のことですから、大好きだったお母さんと一緒のところに入れて喜んでいることでしょう。

義姉たちからは、「伊津美さん、ウエルカムよ。私たち《未亡人かしまし娘》ね!」と言われ、泣き笑いしましたが、とにかく今は寂しいですよ。稽古場の脇にあるお仏壇に、日に5回も6回も手を合わせて話しかけ、たまに若かりし頃のことで文句を言ってみたりしています。(笑)

私にとっては最大の趣味だった寺尾がいなくなってしまったわけで、これからどうやって残りの人生を楽しめるか、仏壇の前でゆっくり考えるとしましょうか。

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