漱石の孫・半藤末利子「結婚後も〈愛しています〉と言い続けてくれた夫・半藤一利。『週刊文春』編集長時代は、ストレスから離婚の危機も」

「美容院から帰ってくると、〈今日はきれいですね〉(笑)。基本的に彼は敬語なんです」(撮影:洞澤佐智子)
『日本のいちばん長い日』『昭和史』など数々のノンフィクションを執筆し、昭和史の語り部と称される作家で歴史研究家の半藤一利さんは、2021年1月、90歳で亡くなった。妻でエッセイストの半藤末利子さんが、疎開中の出会いから始まった二人の思い出を辿る(構成:篠藤ゆり 撮影:洞澤佐智子)

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【写真】祖父・漱石や夫・一利さんの著作の前でやわらかく微笑む半藤末利子さん

前編よりつづく

夫婦の危機

結婚後、彼は相変わらず「好きです」「愛しています」などと言葉にしてくれました。日本人の男性としては、珍しいわよね。

美容院から帰ってくると、「今日はきれいですね」(笑)。基本的に彼は敬語なんです。でもまぁ、私はいつも言いたい放題でしたけどね。(笑)

彼は編集者と作家の二足の草鞋を履いていたこともあって、おつき合いも多く、とにかく忙しくてしょっちゅう午前様。引っ越しをする際は、土地探しから建築選び、後片づけまで、すべて私一人でやりました。

朝、「今日からこの住所に帰ってきてください」とメモを渡しても、やっぱり午前様。しかも、道に迷って新しい家に辿り着けないの。(笑)

彼はユーモラスで面白い人でしたが、別人のようになった時期があります。ある日、帰宅して背広を畳にたたきつけているところを見てしまい、見てはいけないものを見た気がしました。

それで会社の人にこっそり様子を聞くと、好きでもないのにタバコをひっきりなしに吸っている、と。確か『週刊文春』の編集長をしていた時代です。

週刊誌は人のスキャンダルも書かなければいけないし、相当ストレスが溜まっていたんじゃないかしら。追い詰められた彼が何かのはずみでビルから飛び降りでもするんじゃないかと、気が気ではなかった。

でも、「どうしたの?」と聞ける状態ではありませんでしたね。私に口をきかなかったり、自分でも理不尽な振る舞いをしているとわかっているだろうから。

あの時期の私たちは、危機的でした。結婚というのは、常に平穏というわけにはいかないものですね。

そんな時期が1年半か2年くらい続いたでしょうか。気づいたら、元のあの人に戻っていた。『文藝春秋』編集長にもなって、松本清張さんや司馬遼太郎さんなどとの仕事のほか、「歴史探偵」を名乗り作家活動に打ち込んでいました。

会社をやめて、物書き一本でやっていく肝が据わったんだと思います。

書くことで耐えられる

父が亡くなると、母を引き取り、8年間、自宅で介護しました。母を見送った後、私はすることがなくなり──確か当時、60代前半だったと思います。

このまま何もせずに老いて、母のように寝たきりになるのはイヤだなぁと思って。ふっと思いついて、朝日カルチャーセンターの文章教室に通うことにしました。

それを夫に告げたら、興奮したように「うれしい」と言って、なんと泣き出したんです。それには、本当にびっくりしました。彼はそれまで何も言わずに、私が「書く」ことをずっと待っていてくれたんですね。あら、思い出語りをしている私まで、涙が出てしまいました。(笑)

課題を提出したら、教室の先生(作家の高井有一氏)から、「半藤さんは書ける人ですよ」と言っていただけた。私、おったまげちゃって(笑)。だって、それまで書いたことがなかったんですもの。

そうしたら、夫の元に来ていた編集者が「ぜひ見せてください」。書き溜めたものをお渡ししたところ、「これは売れますから、私が本にします」と言ってくださいました。

物書きが家に二人になり、私にとっては思いがけず、夫との新しい人生が始まったわけです。夫は書斎で膨大な調べものをしながら書き、私は台所のテーブルなどで書いていました。

彼が原稿に目を通してくれることも。いつも「あなたはもう作家なんです。堂々としていていいんですよ」と励ましてくれました。

戦争の悲惨さを次世代に伝えようと90歳まで仕事をした夫は、幸せな人生だったと思います。

そうそう、彼が亡くなった時、訊きたいことがあったの。「死んだらどこに行くの? そこでまた会えるのよね?」って。愛を教えてくれた最高の伴侶でしたから。

今は日々寂しいけれど、「書く」ことで救われています。何もすることがなかったら、89歳の一人暮らしに耐えられないんじゃないかしら。

振り返ってみると、半藤との結婚が、私の人生をつくってくれた。本当に楽しかったし、悔いはありません。

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