湯川れい子さんが『徹子の部屋』に出演。元夫の急逝を語る【私と戦争】音楽と映画を愛した兄は、ルソンで戦死した

撮影:藤澤靖子
2024年8月1日放送の『徹子の部屋』に、音楽評論家・作詞家の湯川れい子さんが登場。一昨年コロナ治療中に急逝した元夫との関係を語ります。そこで今回は、『婦人公論』2018年9月25日号掲載の湯川さんの戦争体験について聞いたインタビューを再配信します。

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終戦から73年。戦争の時代に少年少女だった人たちが高齢になっています。平和な時代を生きる私たちにとって戦争は無縁に思えますが、過去の大戦を体験した人々も、平穏な日常生活を送っていたのです。どのように国は戦争に向かっていくのか。普通の人の暮らしはどう変わるのか。時代の移り変わりを体験した人たちに、詩人・エッセイストの堤江実さんが取材します。(取材・文=堤江実 撮影=藤澤靖子)

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女性初の音楽評論家、ラジオDJとして戦後、道を切り拓いてきた湯川れい子さん。作詞家としても数多くのヒット曲を手がけてきました。父が軍人だったという湯川さんは、どのような少女時代を過ごしたのでしょうか。

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◆週末には父と母がダンスをしていた

私が生まれたのは、1936年の1月22日。その1ヵ月後に、日本が大きく軍事国家体制へと舵を切るきっかけになった二・二六事件が起きました。

父は軍人で、上海や青島で駐在武官や軍艦の艦長を長年務めたあと、日本に戻って作戦・指揮をつかさどる軍令部に所属し、いわば軍事国家の中枢にいた人でした。

日本中が戦時色に染まり、窮屈を強いられた時代。父は軍人だったけれど、庭には父が丹精して育てた木々や草花があふれ、家には音楽が絶えなかったのです。玄関を入るとフローリングの部屋で、その隣の応接室に蓄音機があって。海外生活が長かった父の影響もあってか、週末になると兄や姉が蓄音機係になり、父と母がフローリングでダンスをしていました。

それから十五夜の名月の時には広い濡れ縁にお団子とすすきを飾り、父が座布団の上に端然と座って月を見ながら尺八を吹いて。母はお琴、兄と姉はピアノで参加。私はまだ小さかったので、コップとかお茶碗とかを目の前に並べられて、これで好きな音を出しなさいって。そうして家族で箏曲の「六段の調」とか「千鳥の曲」とか、そういう曲を合奏したのを鮮明に覚えています。

私は、母が40すぎの時の、兄たちとすごく年が離れた末っ子だったので、もう甘やかされて。父が仕事から帰るたび、絵本のキンダーブックや虎屋の羊羹が鞄から出てくるような、本当に幸せな子ども時代でした。

◆「もう日本は終わりだな」とつぶやいた父

父の帰宅がだんだん遅くなっていったのは、私が小学校に通い始めた42年ごろだったでしょうか。その年の6月、日本はミッドウェー海戦に大敗したのです。

43年のある夜のこと、遅くに帰宅した父が玄関で靴も脱がずに、「五十六が死んだ。もう日本は終わりだな」と肩を落としてつぶやいたと、戦後になって母や姉から聞きました。

父は山本五十六と義理のいとこ同士というだけでなく、三国同盟や日米開戦に反対し、軍部の暴走をくいとめようと命懸けで闘う姿に深く共感していたようです。そんな父にとって彼の死は、一縷の望みを絶たれるようなものだったのでしょう。

戦況が悪化するにつれて、徹夜の激務が続くようになった父は、1年後、急性肺炎を患うと、わずか3日であっけなく亡くなってしまいました。

18歳上の長兄は、音楽や映画や絵画が好きでした。ピアノやアコーディオンを演奏し、対英米戦に突入した後も、離れの自分の部屋で、こっそりアメリカの音楽を聴き続けていたようです。兄のスケッチブックには、金髪に真っ赤なつば広帽子の女性がマイクに向かって歌っている絵も残っていました。レコードのジャケットをデザインして描いていたようです。

兄の大学時代の日記には、驚くべきことに当時、週に3本も映画を見ていたとあります。真珠湾攻撃の直前まで、渋谷や新宿の映画館ではアメリカ映画が上映されていたのです。その映画評が克明に記録されている。兄が生きていたら、絶対に映画評論家かイラストレーターになっていたでしょうね。

日記の中に、「自分が金髪の女性の絵を描いていたら、部屋に入ってきた弟が絵を見て、『何だ、それでも人間か』と言った」と書かれていました。次兄にとっては、もう人間ではないんですよ。忌まわしい姿の敵なの。

◆兄から聞いた 最後の言葉

長兄は学生時代、徴兵の延期願いを4度出しています。勉強をしたいからという理由で。しかし卒業するとすぐ赤紙が来て徴兵されました。

その兄がいよいよ戦地に送られる前、44年の6月に少しの休暇を取って帰ってきたときに、3日間かけて庭に防空壕を掘ってくれました。父を亡くし男手のない私たちを思いやって、家族がそっくり入れるような四畳半ぐらいの大きさのものを、たった一人で。

その間、私は母と一緒に庭の梅の木の下にござを敷いて、汗と泥まみれになって上がってくる兄にお茶や梅干しを出したりしながら、防空壕ができあがるのを見ていました。

私と母に聞かせるためでしょう、兄は口笛でいろいろな曲を吹いてくれました。そのなかにものすごくきれいな曲があって。「それは何という曲ですか?」と聞く私に、兄はただ「僕が作った曲だよ」と。それが当時アメリカで大ヒットしていた「スリーピー・ラグーン」だと知ったのは、戦後、進駐軍の放送で聴いた時でした。当時は、アメリカの歌だなんて言えなかったのですね。

掘り終わったあと、制服に着替えて兵舎に帰っていく前に、湯上がりのいい匂いをさせながら私を抱き上げて、「あれが兄ちゃまだからね、覚えていてね」と、夕暮れの空に輝く一番星を指さしました。これが、兄から聞いた最後の言葉になってしまいました。

戦死したのは、終戦の4ヵ月前。フィリピンのルソン島。アメリカ軍の上陸に備えて、そこの村を死守せよと命令された。食べるものもなく、生きて帰れるあてもない。帰ってきたのは、遺骨箱の中の小さな石がひとつだけ。今だって遺骨の収集もできません。そんなところで、あの、音楽や絵を愛したやさしかった兄は、何で死んでいかなければならなかったのか。本当に悔しいです。

後に、「最後に家を出る時、お兄ちゃまは何とおっしゃったの?」と母に聞いたら、「最後まであの子は冗談を言ったのよ」と。出かけていく時に、「母様、もし僕が、肌の色が黒くて目のクリクリッした、髪の毛の縮れた子どもを連れて帰ってきて、その子が『ばばちゃま』って言っても卒倒しないでね」と言い残していったって。私、大泣きしました。兄は母には言えなかったけれど、南方の戦場に行くとわかっていたんですね。

1944年のお正月。この年、父が亡くなった。後列左から姉、父、母。前列左から長兄、湯川さん、次兄(写真提供◎湯川さん)

◆「かわいそうに、 これをめしあがれ」

15歳上の次兄は、父の背中を見て軍人に憧れ、猛勉強して麻布中学から海軍兵学校に入りました。

そのころの海軍の将校さんたちと言ったら、今ならロックスターのような存在で、夏の制服姿なんてめちゃめちゃかっこよかった。兄は当時のヒーローでしたね。パイロットになって、その後は特攻隊の隊長。

そして終戦後は3年間、行方不明でした。3年後に奇跡的に帰ってはきましたが、90人ほどの部下を死なせていますから、夜中に何度も飛び起きて叫ぶんです。「行くな! まだ死ぬな!」。

12歳上の姉は、女学生といっても毎日勤労奉仕。工場で兵隊さんや武器工場の人たちの食べるものを作っていましたが、「そこにはお砂糖もチョコレートもどっさりあったのよ」と話していました。

44年の夏頃、父のふるさとの山形県米沢の祖母のところに疎開しました。小学校2年生の時です。学校といっても授業らしい授業なんかありません。毎日、連合軍の上陸に備え、竹の棒を薙刀にみたてて振り回す教練ばかり。

米どころとはいえ、家に食べるものはなく、イナゴの羽をむしり、ゆでてしょうゆで煮たものや、カボチャのつるが浮かぶすいとんばかり。白いご飯をお腹いっぱい食べる夢を何度も見ました。

ある日、とうとう我慢できなくなって、家の前で「白いご飯が食べたい、食べたーい!」と大泣きに泣いて絶叫。すると、向かいの家に住んでいた若いお母さんが、赤ちゃんを背負って、炊き立てのご飯を握って持ってきてくれたの。

「まんず、もごさいこんだなし。これ、おあいなってくだいし」と言って。「かわいそうに、これをめしあがれ」という米沢弁。そのおいしかったこと! 忘れられません。この世で最後に食べるとしたら、私は絶対に塩むすびですね。

いつも太陽のような笑顔の湯川さんと(左は筆者)

◆自害の作法を 練習させられて

45年8月15日正午。母は、ラジオの前に端然と背筋を伸ばして座り玉音放送を聴いていましたが、数日後、父が私の嫁入りの時にと用意していた刀身が鈍く光る懐剣を前に置いて、こう言いました。「日本は負けました。あなたが万が一辱めを受けるようなことがあれば、これで自害なさい。切っ先を自分ののど元に向け、その上から突っ伏すのです」。何度か自害の作法を練習させられました。

軍人の妻としてお手本になるようにと生きた母は、父が亡くなり、息子が戦死し、もう一人の息子が音信不通となっても、決して涙を見せたことはありませんでした。

私が大きくなってから、母と一緒にお風呂に入っている時に、「お母様、どうしてあれだけ大変な思いをされながら、涙一滴こぼされなかったんですか」と聞いたら、母は言いました。「そりゃ私だって泣きたかったわよ」って。だから私、「私は泣きわめく女になりますからね」と言ったんです。そしたらその時、母が初めて泣きました。大粒の涙をこぼして。

戦後、私は、音楽に魅せられ、音楽の世界で生きていくことになりました。戦死した兄の想いが、私の中に生きているのかもしれません。平和があるところにしか、音楽は存在できないことを、伝え続けたいと思います。

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