島田珠代「内弁慶の人見知りから、クラスの《面白枠》へ転身のきっかけは、小2の書写での褒めちぎり。日常的にギャグを連発する父が大好きで」

(写真提供:『悲しみは笑い飛ばせ!島田珠代の幸福論』/KADOKAWA)
「パンティーテックス」「男なんてシャボン玉」など唯一無二のギャグと独創的な動きで部人気の、新喜劇を支える看板女優・島田珠代さん。そんな芸歴36年になる島田さんが、幼少期から仕事、恋愛、自分らしさ、女として生きることなどを赤裸々に綴った初エッセイ『悲しみは笑い飛ばせ!島田珠代の幸福論』。今回はその中から、お笑いの道へと歩むきっかけとなった、幼少期のエピソードを紹介します。

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【写真】子どもの頃の島田さん

楽しくておせっかいな父

私は、根っからのお父さんっ子で、父の面白いところが大好きでした。父は大学生の頃、NHKの裏方としてバイトをしていたらしく、芸人さんを間近で見ていたからか、日常的にギャグを連発する人でした。

明るくて、面白くて、頼もしい父。私が舞台で白目を剥くのも、父の影響です。

そんな父の快活な部分が悪い方向に出てしまったときのことは、今でも鮮明に覚えています。きっかけは、私の初恋でした。

小林くんというすごくカッコいい男の子が同じ幼稚園に通っていて、ただただ見ているだけで私は胸がいっぱい。まわりの女の子も小林くんのことを大好きだったし、いわゆるみんなの王子様みたいなポジションだったと思います。

話すことも一緒に遊ぶこともできなかったけど、私はそれで十分でした。

島田さんのご両親(写真提供:『悲しみは笑い飛ばせ!島田珠代の幸福論』/KADOKAWA)

幼稚園では寡黙でしたが、家では「今日、幼稚園でこんなことがあってな!」と話していたので、同じようなテンションで「小林くんっていうカッコいい男の子がいてな!」と得意になって両親に報告していたのです。

その日も私は「今日の小林くんもかっこええわ~」と思いながら部屋の隅から眺めていました。すると、私の父がズカズカと小林くんに近づいて、ニヤリと笑いながら一言。

「うちの娘があんたのこと好きって言ってたわ! これからもよろしくねぇ」

その瞬間、初めて父を見る目が変わりました。心の中で「イヤーー!!」と叫びながら、どこかへ走り去りたい衝動に襲われて、しばらく父を直視することができませんでした。

親って、こんなことすんねや。信じられへん。

当時はそう思っていたのですが、いざ自分に子どもができてみると、段々とその気持ちが分かるようになってきました。そう、親って信じられないようなおせっかいを焼きたくなっちゃう生き物なんです。

『悲しみは笑い飛ばせ!島田珠代の幸福論』(島田珠代:著/KADOKAWA)

人見知りから人気者へ

今の私からは想像できないかもしれませんが、幼稚園に通っていたときは、極度の人見知りでした。しかし家では普通に話すし、なんならうるさいくらいのテンションで振る舞っていたと思います。

しばらくは、両親ですら私が人見知りだったなんて知らなかったでしょう。幼稚園での申し送りに「珠代さんは人見知りですね」と書かれても「そんなバカな」となかなか信じられなかったのではないでしょうか。

話せなかった理由は……正直ハッキリとは覚えていませんが、「こんなことを言ったら怒られるかもしれない」という気持ちが働いていたんでしょうね。今でもお笑いに振り切れているかというとそんなことはなくて、人の目を気にするタイプなのは実は変わっていません。

そんな私が幼稚園でやっと言葉を発したのは、年長クラスになってからでした。きっかけは、全員分の誕生日を色紙に書いて紹介する掲示物をつくったとき。

「わたし、5月!」

たった一言でしたが、今でも深く記憶に残っています。でも、たった一回勇気を振り絞っただけでは、自分の性分は変わりません。小学校に上がってからも2年生の頃まで人見知りは続きました。

しかし、小学2年生のある日。私は人見知りを克服することになったのです。その日は書写の授業があり、担任の先生の代わりにやってきた先生が授業を見てくれるという、ちょっとしたイレギュラーがありました。それでも、やることは変わりません。いつもどおり黙々と筆を動かして文字を書くだけです。

先生の元へと自分の書いた半紙を持っていくと、先生は信じられないくらいのリアクションで褒めちぎってくれました。

「この字だ! みんなこれを手本にしなさい。本当に潔い字だ!」

子どもながらに少し戸惑いはあったものの、褒められることがこんなにも気持ちがいいというのを初めて感じた瞬間でした。子どもは褒められて伸びる、とよく言われますが、あれは本当です。私は身をもって体験しました。

この出来事以降、私は学校で積極的に話せるようになり、当時流行っていた志村けんさんのモノマネまでするようになりました。クラスの中で自分の立ち位置が「面白枠」だと認知されるようになってからは、テレビで流行っているモノマネをどんどん取り入れるようになりました。

ちなみに小学生のときに会得したモノマネを『4時ですよーだ』で披露して、吉本に入ることになったので、本当に人生は何があるか分からないなと思います。まだそんな未来を知らない私は、ただ友だちが笑ってくれるのが嬉しくて毎日を過ごしていました。

当時、テレビ番組は一日に何本もまとめて収録するのが一般的で、水をかぶった後で、次週のオープニングを撮影することもあったそう。

だからドリフではオープニングなのになぜか毛束感のある風体で、だるそうに歩いてくる志村けんさんが面白いと思いモノマネに取り入れた結果、友だちにも『4時ですよーだ』でもウケたのです。

最近の言葉で表現するなら、いわゆる陽キャへと変貌した私は、クラスの中心的な存在になっていきました。自然と友だちが集まってきては、女の子が話しかけてくれるのは純粋に嬉しかったです。

これは私だけの感覚かもしれませんが、小学生の頃から男の子の前でモノマネをするよりも、女の子の前でモノマネをしたときのほうが、なんとなくウケている気がしていました。女の子の笑い声はスッと通るし、いつもは静かな女の子を笑わせたときなんて、気持ちよくて仕方がない。

そんな経験があったので、この頃から「女の子は大切にせなあかん」と思っていたような気がします。

※本稿は、『悲しみは笑い飛ばせ!島田珠代の幸福論』(著:島田珠代/KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

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