現代演劇の女方・篠井英介「5歳で観た美空ひばりさんの時代劇映画をきっかけに踊りを習い始めて。その頃から、男より女の踊りのほうが好きだった」

「女の役のほうが引き出しがいっぱいあって、ああもやりたい、こうもやりたい、ってワクワクするんですよ」(撮影:岡本隆史)
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が聞く。第31回は俳優の篠井英介さん。現代演劇の女方としてさまざまな舞台に立つ篠井さんは、2023年12月に劇団イキウメの『人魂を届けに』と、ケムリ研究室の『眠くなっちゃった』で紀伊國屋演劇賞を受賞。篠井さんが演劇を目指したきっかけとは――。

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【写真】9歳頃、日本舞踊発表会にて舞を披露する篠井さん

「僕、チントンシャン習いたい」

歌舞伎でも新派でもない、現代演劇の女方。しかも古典、前衛、リアリズム、小劇場、商業演劇、何でもござれの広い芸域。

当たり役を挙げてみると、『欲望という名の電車』のブランチ、『サド侯爵夫人』のルネ、『天守物語』の富姫というところか。

しかし篠井さんは2023年の12月、紀伊國屋演劇賞を受けたが、対象となった出演作品は劇団イキウメの『人魂を届けに』と、ケムリ研究室の『眠くなっちゃった』で、どちらも現代演劇での女方。笑えるのは、選評に「この年齢までしぶとく女方を」というくだりがあったことだったとか。

――そうなんですよ。そうか、しぶとくやってきたんだ、って自分で思いました(笑)。確かに現代劇の女方ってあんまりいませんからね。対象になった2作品とも女方でしたので、これで評価されたのは幸せでした。

僕が演劇をめざす第1の転機って、考えてみると五つの時にテレビで美空ひばりさんの時代劇映画を観たことだと思うんですよ。芝居小屋が出てきて、そこでひばりさんが『鏡獅子』みたいな踊りで毛を振ってたの。

それ観て格好いいなと思っちゃって、母に「僕、チントンシャン習いたい」って言った。僕が生まれ育った金沢は、伝統芸能が盛んな土地柄なんですね。

すぐに母とお祖母ちゃんがどのお師匠さんに行かせようかって相談を始めて、僕はそれを、固唾を呑んで眺めてましたよ。結局、金沢は藤間宗家の地盤なので、そこに入門して、童謡の「てんてんてんまり」からお稽古を始めたんです。

その頃から男の踊りより女の踊りのほうが好きでしたね。女の役のほうが引き出しがいっぱいあって、ああもやりたい、こうもやりたい、ってワクワクするんですよ。だからこれ、格好よく言えば〈天性のもの〉なんじゃないですかね。

篠井さんは大学に入るために上京し、すぐに藤間宗家に入門する。六世藤間勘十郎(当代の祖父)は、大方の歌舞伎役者の子弟の師匠だった人。

――ええ、歌舞伎の子供たちもいらしてましたね。それが逆に僕にはいい刺激になりました。

それこそ今の(市川)團十郎さんとか、今度菊五郎を襲名する(尾上)菊之助さんとかが、ばあやさんと来てたり、(中村)勘九郎くんや(中村)七之助くんもまだ小さくて走り回って大変だったけど、あの子たちの面倒を見て、近くのマクドナルドに連れてったりしましたよ。覚えてないと思うけど。(笑)

その後、東京の日藝(日本大学藝術学部)に進学し、卒業と同時くらいに「花組芝居」の前身、加納幸和事務所という集団に入って。加納くんと僕は女方志向なので……やっぱり東京は広いな、僕みたいに女方をやりたい人間が他にもいるんだ、って喜びました。

そこで3、4年やって、それから花組芝居になって3年ほどですから、劇団にいたのは前身と合わせて6、7年でしたかね。

劇団を辞め、大海原に飛び出して

「花組芝居」の団員は男性のみで構成され、男性が女方も演じるが、時には髭を生やしたまま出てきたりするサイケデリックな劇団。

その評判を聞いて私が観に行ったのは、『かぶき座の怪人』(1989年)。加納幸和扮する女方の大立者が、クマのぬいぐるみに「あ、おはよう、あ、おはよう」とお辞儀をさせながら楽屋入り。

部屋では『一條大蔵譚』の常盤御前よろしく楊弓(ようきゅう)に興じて、パッと簾(すだれ)が落ちるとそこにはスーパー歌舞伎の『ヤマトタケル』のポスターが、という、皮肉な笑いに満ちていた。

――そうそう(笑)。歌舞伎界の縮図をこう、ギューッとパロディ化したみたいな感じでしたね。僕は売り出し中の若手女方という役どころで、その大立者に嫉妬されるという。

でも、今ならあんなこととてもできませんよ。名誉毀損ですもの。昔だからああやってできたけどね。(笑)

で、第2の転機は、その花組を辞めたことかな。とっても楽しかったんですよ。でも、劇団で芝居、アルバイト、劇団で芝居、アルバイト……の繰り返しで1年経っちゃうわけ。そろそろ30歳になる頃だったので、これはまずいな、楽しすぎるぞ、と。やはり職業としての役者で一本立ちしたいな、と思って一回辞めてみることに。

当時アトリエ・ダンカンという事務所が呼んでくださったので、そこに所属してアルバイトをしながら2年ほどしたら映像の仕事もコンスタントに来始めて、生活できるようになりました。

ですから花組を辞めて世の中に、大海原に飛び出したのが、第2の転機でしょうね。

独立後の1995年、自主公演した一人芝居『女形能晨鐘』(写真提供◎篠井さん)

篠井さんはフリーになってまもなく、世に打って出るためのプレゼンテーションとして、『女形能晨鐘』(ハナノアケガタ)という一人芝居を自主公演。

これは幕末から明治にかけて人気を博し、のちに「脱疽の田之助」(三代目澤村田之助)と呼ばれる美貌の女方を主人公にしたもの。

――はい、贅沢なことに生の邦楽で劇中劇に『娘道成寺』を入れたりして。それでだんだん田之助の病気が進んで手を使わなくなったり、「恋の手習い~」のくだりになるともう手拭いを口に咥えるだけとかにして、そんな冒険をしたんですよ。

脚本はね、日藝の文芸学科という脚本を書いたりするところの仲間。その子も歌舞伎研究会だったので、彼女に頼んで。

長唄さんは四丁四枚(三味線が四丁=四人、唄が四人の意)、お囃子も入れて。この方たちを探すのにどれだけ苦労したか。そんな小劇場でやる芝居なんかには、なかなかつきあってくれないんですよ。

で、最初は新宿のシアター・トップスという小さな劇場で四日間やって、それから4年経って銀座の博品館で再演しましたからね。

まぁ、何だかよくわからない一介の女方でもこれだけのことができるんだぞ、という気概を見せただけで、今思えば恥ずかしいですね。

後編につづく

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