松本幸四郎「初めて出た歌舞伎以外の芝居『ハムレット』は、14歳で訪れた転機だった。18歳で初海外公演、自分を見つめ直すきっかけに」

「役を演じることで自分の気持ちを動かすという、芝居をするってこういうことなんだと気づいた、そういう時期ではありましたね」(撮影:岡本隆史)
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が聞く。第32回は歌舞伎役者、俳優の松本幸四郎さん。2018年に高麗屋の名跡を襲名、十代目松本幸四郎として活躍を続けている。松本金太郎としての初舞台から、辿ってきた道のりとは――。

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【写真】松本金太郎として6歳で踏んだ初舞台

芝居をするってこういうことなんだ

思えば、この人の松本金太郎としての初舞台(『侠客春雨傘(きょうかくはるさめがさ)』)から市川染五郎時代、14歳で演じた『ハムレット』、はるばるロンドンまで追いかけて観た『葉武列土 倭 錦絵(はむれっとやまとのにしきえ)』、それからパルコ歌舞伎の『決闘!高田馬場』や劇団☆新感線と共演した『アテルイ』、映画では『蝉しぐれ』、最近の『鬼平犯科帳 血闘』もよかった。

そして歌舞伎座では、3月の『御浜御殿綱豊卿(おはまごてんつなとよきょう)』。片岡仁左衛門の徳川綱豊卿の胸を借りて、渾身の体当たり的演技を見せた赤穂浪士の富森助右衛門役がとってもよくて感動した。爽やかな二枚目と思って観ていた幸四郎さんも、ここで座頭役者の風格が備わってきたのが嬉しい。

――ありがとうございます。僕の歴史ですね(笑)。富森助右衛門、松嶋屋(仁左衛門)のおじさまの綱豊で演らせていただくのは4回目で、少しでも成長したなと思っていただけるように、もう力一杯、飛び込んで行きました。

あぁ、それであの14歳の『ハムレット』。三百人劇場で、あの劇場ももう失くなってしまいましたけど、それまで僕の中では歌舞伎しかなくて、芝居イコール歌舞伎だったんですよね。

僕が四つか五つのころ、父(二代目白鸚)の『ラ・マンチャの男』を観たんですけど、「これ、お芝居じゃない」って言って、父をがっかりさせたくらいですから。だって明るくないし、女優さんは出るし、洋服だし、花道はないし、ですからね。

で、それがどれだけの傑作かとか、どれだけの役者であれば挑めるかとか、何もわからないで初めて歌舞伎以外の芝居に出たのが『ハムレット』なんです。

まず稽古が1ヵ月あるとか……。歌舞伎は4日間くらいだし、こういう形でこう喋って、と教わった通り演じればいいんだけど、『ハムレット』はゼロから作る。演出家に、もっと自然でいいからと言われても、自然というのはどういう型なんだろう、とか(笑)。

でもしまいには、役を演じることで自分の気持ちを動かすという、芝居をするってこういうことなんだと気づいた、そういう時期ではありましたね。

その『ハムレット』が第1の転機ともなるのだろうか。まだこの舞台の最年少記録は破られていないかも。

――そうかもしれないですね。演出の末木利文さんが父との芝居でご縁があって、14歳の『ハムレット』を是非、ということになったんですが、そこに飛び込んでみると、自分が役になって動いてないのがわかるんですよね。それで悩むし、口惜しいし。

ハムレットが父王の亡霊に出会って、殺された時の状況を聞いた後に、満天の星を見上げて語る長い独白があるんですが、夜遅く稽古を終えて一人とぼとぼ帰る途中で空を見上げて、東京でもこんなきれいな星空があるんだな、とか。

それまで父の演った役の真似をして遊んだりするくらい芝居が好きでしたけど、でも役を演じる、芝居を作るって、こういう難関を乗り越えていくことなんだな、と気づいたのがこの『ハムレット』ですね。

そういうところに14歳の僕を飛び込ませた父の考えというのがあったのかな、と思って。まさにこれが第1の転機だと思います。

歌舞伎仕立てのハムレット

歌舞伎の世界に話を戻すと、幸四郎さんが金太郎として初舞台を踏んでから2年後、8歳で七代目市川染五郎を襲名する。この時、祖父八代目幸四郎は初代白鸚に、父染五郎が九代目幸四郎に、という華やかな三代襲名となった。

披露狂言『仮名手本忠臣蔵』「七段目」の大星由良之助役の祖父に、まだいたいけな感じの幸四郎さんが力弥役で厳しく稽古をつけられる姿を私は映像で見ている。

――ええ、あの映像をご覧になった方々からはよく言われます。あれ、実を言うと稽古風景を撮影する時、まだ祖母から教わってなかったんです。祖母は初代吉右衛門の一人娘で、芝居のことは何でもわかってて僕のお師匠番でしたから。

それで映像では「違う違う、もう一回。いや違うだろ」って怒られてましたけど、あれ、教わってなかったからなんです。祖父との共演はあの時が最初で最後です。

今思えば祖父は10月11月に襲名披露興行をして、翌年の1月にはもう亡くなっているんですから、命がけの舞台とはこういうことだったんだな、と思いますね。

ところで1991年、ロンドンでジャパンフェスティバルが開催され、『葉武列土倭錦絵』が上演された。これは1886年に仮名垣魯文によって書かれた翻案物を、この時参加作品として新しく歌舞伎化したもの。

――何とシェイクスピア本場のイギリスで『ハムレット』を上演したんですね。僕は葉叢丸(はむらまる)と実刈屋姫(みかりやひめ)、つまりハムレットとオフィーリアの二役を演じました。

18歳という、何でもやってみたいと思っていた時期で、この場面はどんな衣裳で、どんな動きをするかとか考えてはみるものの、具体的には何も出てこない自分がいたんですよね。

ですから夢を見ていただけなんですけど、でもそれを実現するためには何が必要なのか、気づいただけでもよかったと思う。

とにかくあの時は字幕もイヤホンガイドもないし、どうやって観せるんだろうと思ったけど、向こうでは日常に演劇を観る習慣があるんですね。ましてシェイクスピアだし、字幕がなくてもシーンはほとんど把握してる(笑)。

現地の方は、この歌舞伎仕立ての『ハムレット』は面白いか面白くないか、という感じで観に来る。だから反応がすごくよくて、手応えがあったんです。

ロンドンを打ち上げて、ダブリンやニューキャッスルにも行きましたし、初めての海外公演で改めて歌舞伎役者としての自分を見つめ直した、という意味で、これは第2の転機だったかもしれません。

後編につづく

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