阪神甲子園駅、人知れず残る「路面電車」の痕跡

阪神甲子園球場

阪神電気鉄道の甲子園駅南側にある阪神甲子園球場。改修を重ね100周年を迎えた(撮影:伊原薫)

2024年8月、阪神甲子園球場が完成から100周年を迎えた。

同球場はもともと1924年8月1日に全国高等学校野球選手権大会(当時は全国中等学校優勝野球大会、通称「夏の甲子園」)の開催地として阪神電気鉄道が建設。翌年には選抜高等学校野球大会(当時は全国選抜中等学校野球大会、通称「センバツ高校野球」)も開催されるようになった。

阪神が沿線に球場を建設したのは、乗客の獲得が理由である。利用者を増やすため、沿線に集客施設を設けるというのは、鉄道会社のいわば“定石”だ。最寄りとなる阪神本線の甲子園駅も球場と同じ日に開業。当初は臨時駅だったが、2年後には常設化された。

野球で沿線に集客

そもそも、「夏の甲子園」の第1回大会が開催された豊中グラウンドは阪急電鉄(当時は箕面有馬電気軌道)が開設したものであり、期間中は観客輸送で阪急も大いににぎわった。

【写真】8月に100周年を迎えた阪神甲子園球場と甲子園駅。その周辺にはかつての「甲子園線」の痕跡がひっそりと残っている(21枚)

その点で阪急のもくろみは大成功だったのだが、野球人気の上昇に伴って第2回大会では前回をはるかに上回る観客が来場。早くも輸送力不足に加えて観客席も足りないなどいくつかの課題が発生した結果、第3回大会からは阪神が建設した鳴尾球場で行われるようになり、さらに甲子園球場の建設につながったという経緯がある。

もっとも、「夏の甲子園」や「センバツ高校野球」の開催期間は毎年それぞれ2週間前後であり、それだけでは安定的な乗客獲得とはならない。

そこで阪神は、1935年にプロ野球球団の阪神タイガース(当時は大阪野球倶楽部)を創設。甲子園球場はその本拠地ともなった。以来、阪神タイガースの成績によって波はあるものの、球場への来場者輸送は阪神の経営を大きく支えている。

ところで、現在の甲子園球場の観客席数は4万7359席と日本最大規模を誇る一方、開設当初は座席数が5万人、さらに立ち見などを含めた総収容人数は8万人と資料に記されている。現在よりもはるかに規模が大きく、しかも「夏の甲子園」では初年度から満員を記録するという状況だった。

ここで問題となるのが、鉄道の輸送力だ。今でこそ阪神の列車は6両編成(近鉄に乗り入れる快速急行の一部は8両編成)だが、当時は2両連結運転が開始されたばかりで、車両自体も小ぶり。1列車あたりの輸送力がはるかに小さいため、阪神は臨時列車を大増発することで乗り切ろうとした。ただし、そのためには車両を甲子園駅近くに待機させておく必要がある。

今も残る分岐線の跡

実は、その留置線の痕跡が今も残っている。甲子園駅の北側に回ると、高架構造物の一部が不自然な形状となっているのが確認できる。

かつては本線と分岐した線路がここから北に延びる形で地上へ下り、さらに折り返して南側へと続いていた。野球などのイベント開催時はここに車両が待機し、試合の進行や観客の状況に応じて本線に進出。臨時列車が何本も大阪方面に運行されたのである。

甲子園駅北側 分岐線の跡

甲子園駅北側には地上へと下りる分岐線の遺構が残る(撮影:伊原薫)

一方、この線路は球場と駅が開業した2年後の1926年に別の役割も担うようになる。阪神は甲子園エリアで宅地開発を進めており、その住民の足として甲子園駅から南に延びる路面電車を同年に開業。この甲子園線は前述の留置線を活用する形で建設され、ここを走る車両は分岐線を通って本線から送り込まれた。

甲子園線が通る県道、通称「甲子園筋」はかつて枝川という武庫川の支流だったが、武庫川の改修工事によって枝川は廃止となり、河川敷を含めた一帯の土地が阪神に払い下げられたという経緯がある。甲子園球場はこの枝川と申(さる)川の分流地点に建てられたものだ。

阪神 甲子園駅 高架

かつて枝川に架けられていた橋梁。この真上にホームがある(撮影:伊原薫)

甲子園線と国道線

甲子園線は1928年に甲子園筋を北上する形で上甲子園停留場まで延伸開業。前年に開業した国道線とつながり、やがて両線は一体的に運営されるようになった。

高度経済成長期になると、国道2号を走る国道線は渋滞に巻き込まれるようになり、遅延が常態化。もともと並行して走る阪神本線の補完的役割だったこともあり、1970年代には日中の運行が約50~60分間隔にまで減らされた。

だが、利便性の低下が乗客のさらなる減少を招いた結果、1974年には上甲子園以西が、そして翌年には上甲子園以東が廃止され、国道線は全廃となった。

阪神 甲子園線跡 甲子園筋

かつて路面電車が走っていた甲子園筋。周辺には閑静な住宅街が広がる(撮影:伊原薫)

ここで困ったのが、甲子園線の処遇だ。甲子園線は沿線住民の利用が多く、日中でも12分間隔で運行されていた。収支も悪くはなく、積極的に廃止する理由は皆無である。

だが、甲子園線を走る車両は国道線と共通であり、その車庫は国道線側にあった。国道線が廃止となれば、甲子園線の車両が車庫に出入りできなくなってしまう。さすがに、車庫を新設してまで甲子園線を残すという結論には至らず、甲子園線は国道線と運命を共にすることとなったのである。

同様の理由で野田―天神橋筋六丁目間を走っていた北大阪線も廃止された。

甲子園線の痕跡も

かくして廃止された甲子園線だが、今もその痕跡がわずかに見られる。その1つが、架線柱の跡。球場近くの道沿いに土台や根元が残っている。

甲子園線 架線柱の跡

枝川を埋め立ててできた甲子園筋。50年前まで走っていた路面電車の遺構が残る(撮影:伊原薫)

阪神高速道路の橋桁 甲子園線の痕跡

阪神高速道路の橋桁に残る甲子園線の架線を吊るしていた金具の跡(撮影:伊原薫)

また、立体交差する阪神高速道路の橋桁には架線を吊り下げていた金具が現存。知らなければ気づかないレベルだが、ここが電車道であった証拠だ。2010年代には駅の大規模リニューアルも行われ、周辺の雰囲気も一変したが、これらの遺構が地域の歴史をひっそりと伝えてくれる。

(伊原 薫 : 鉄道ライター)

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