新幹線開業以外も激変「福井の鉄道」60年の記憶
ふるさとで迎えた新幹線
2024年、福井県の鉄道は大きな転換点を迎えた。3月16日、北陸新幹線が金沢から敦賀まで延伸開業し、北陸地方で唯一新幹線が乗り入れていなかった福井県にもついに新幹線が走るようになった。
1946年に武生市(現在の越前市)に生まれた筆者が、意識して鉄道にカメラを向けたのは1964年、米原付近で偶然遭遇した開業直前の東海道新幹線の試運転列車だった。そして新幹線の開業60年でもあり、鉄道写真を撮り始めて60年となった今年2024年、今度はふるさとで新幹線の開業を迎えることとなった。
今回は60年間記録し続けてきた「福井の鉄道」について、当時の取材の記憶などを交えて紹介したい。
鉄道の写真を本格的に撮影するようになったのは東海道新幹線の試運転を撮ったことがきっかけだったが、鉄道への関心自体は幼少期からあった。
最初の記憶は、福井鉄道の南越線(1981年全線廃止)、そして福武線だ。全国の鉄道が急速に近代化を遂げた昭和30年代は、北陸、そして福井の鉄道も大きく変貌しつつあった。1957年には北陸本線の木ノ本―敦賀間が新線に切り替わり、田村―敦賀間は日本で2番目の交流電化線区となった。1962年には北陸トンネルが開通した。
そんな中で今も強烈な印象があるのは、1960年に福武線に登場した200形電車だ。
憧れだった福井鉄道「200形」
200形はそれまでの福鉄の電車とはまったく異なるモダンな車体で、車内は北陸本線の急行電車のようにクロスシートが並んでいた。鉄道線では高速運転でき、路面区間にも乗り入れられる「名車」で、近代化する国鉄の北陸本線に負けないという福鉄の「起死回生」ともいうべき意気込みを感じた。
そのころ福武線に乗るのは三十八社駅が最寄りの親戚の家を訪れるときが主だったが、この駅は普通電車しか止まらない。急行の200形に乗るために、わざわざ途中まで急行で行って普通に乗り換えたものだった。200形は2023年春に美しく修復されて「北府駅鉄道ミュージアム」に保存されており、この塗装再現は筆者の撮影したフィルムの色彩を元にしている。
中学校卒業後に名古屋に移り、さらにその後アニメーション制作会社へ就職して東京に住むようになってからも、お盆と年末年始の帰省の際には福井の鉄道を記録していた。
昭和40年代前半、鉄道撮影の主なターゲットは姿を消しつつあった蒸気機関車(SL)だった。全国各地の路線でSLを追ったが、福井でとくに撮影したのは越美北線だ。同線では8620形が活躍しており、その均整の取れたスタイルに魅せられて帰省のたびに記録を続けた。
消えゆくSLとともに、北陸本線を走る特急・急行列車も重要な被写体だった。特急「雷鳥」や「しらさぎ」「白鳥」「加越」、そして急行「ゆのくに」「立山」「兼六」など、当時の北陸本線はまさに特急街道と呼ぶにふさわしい路線だった。
特急はグリーン車2両に食堂車を連結した長大編成で北陸路を駆け抜けた。生まれて初めて乗った国鉄特急が、在来線時代の「こだま」だった筆者にとって、ボンネット型の特急が北陸本線を走る姿は強い印象が残っている。
特急は1978年10月ダイヤ改正(ゴーサントオ)以降、ヘッドマークがイラスト入りとなり、当時「ケイブンシャの大百科」取材で全国の特急やブルートレインを追っていた筆者はさまざまな列車を撮影した。北陸本線を走る特急列車はJR化後も重要な被写体であり続けた。
廃線のショック、そして新時代へ
だが1980年代の国鉄末期は、鉄道の衰退を感じる時期だった。特急は2両あったグリーン車が1両に減り、食堂車も廃止された。12両の長編成を誇った列車が8両に減車された姿は寂しかった。撮影を通じて「廃れていく国鉄」を強く実感させられた。
さらに、全国で国鉄ローカル線の廃線問題が浮上する中、筆者の原点ともいえる福鉄の南越線が1981年に全線廃線となったのは、福井の鉄道を60年以上見続けてきた中でもとくにショックの大きな出来事だった。
1987年の国鉄分割民営化・JR発足後は、北陸路も少しはにぎやかさを取り戻した感があった。特筆すべきは、1989年に登場した「トワイライトエクスプレス」だ。招待を受けて初の運転に乗車したが、ホテルのようなスマートなサービスの豪華寝台特急が北陸を走ることは感慨深かった。JR化後、運行中は福井に帰るたびに撮影していた列車だ。1995年に「雷鳥」に投入された681系も優れた車両だと感じたが、北陸本線の文化でもあった「雷鳥」の名を「サンダーバード」に変える必要はなかったと思う。
21世紀に入ってから進化を遂げたのは私鉄だ。福井はもともと私鉄2社が存在し、鉄道といえば私鉄文化の地域だが、近年は全国的に見てもローカル私鉄の活性化がとくに進んだ地域といっていいだろう。京福電鉄の越前本線・三国芦原線を2003年に引き継いだ第三セクターのえちぜん鉄道はアテンダントの乗務などで話題を呼び、ローカル線活性化の例として注目を浴びた。
さらに2006年には、福鉄がほぼすべての車両を路面電車タイプに置き換えるという大胆な施策を実行した。当時は驚いたが、LRTが脚光を浴びるようになった今から見るとこれは先見の明があった。2013年には低床車両の「FUKURAM(フクラム)」が登場し、2016年からはえちぜん鉄道と福鉄の相互直通運転も始まった。2023年には低床車両の新型として「FUKURAM LINER(フクラムライナー)」もデビューした。
地域の鉄道文化を守りたい
フクラムは福井の鉄道の新たな姿を示す存在であるとともに、カラフルな車体は被写体としても魅力がある。今、筆者が福井に行くと必ず訪れるのが福武線の三十八社付近だ。ここで四季折々の風景の中を走るフクラムの姿を撮るのが定番となっている。写真集の表紙に往年の車両でなくフクラムを選んだのも、福井の鉄道新時代を象徴する姿だと感じているためだ。
北陸新幹線の延伸も、1964年に東海道新幹線の試運転を撮影したのが鉄道写真家人生の始まりだった筆者にとっては、ちょうど60年後にふるさとの新幹線開業を見届けることができたのは感慨深い。だが、敦賀での乗り換えが今後も当分続くという課題を残す開業である。その点、手放しでは喜べない思いもある。
今、福井は新幹線を降りると駅前にフクラムのようなスマートな路面電車が停まっている街になった。60年前とは大きく姿を変えたが、伝統ある福井の鉄道の文化は引き継がれ、そして発展していると思う。乗務員不足での減便といった残念なニュースもある中、行政や各界のトップは鉄道が地域の重要な文化であることを認識し、今後も守るための努力を続けていってほしい。
(南 正時 : 鉄道写真家)
09/14 07:00
東洋経済オンライン