高級ホテルの顧客が通う「銀座の高級寿司」の実際

銀座6丁目に佇む「銀座寿司幸」が繁盛店であり続ける背景には、つねにトレンドを素早く感知し、それに対応してきている柔軟性が背景にある(撮影:梅谷秀司)

現在4代目の杉山衛氏が切り盛りする「銀座寿司幸本店」は押しも押されもせぬ、日本を代表する江戸前寿司の名店である。創業は1885年と、来年で創業140年。明治、大正、昭和、平成、令和の5つの時代で繁盛店であり続けてきたということは奇跡に近い。

2年以内に50%が廃業すると言われる飲食業界においてこれほどまでに長く人々に支持されてきた理由はどこになるのか。その歴史を探っていくと、類いまれなるサバイバル能力と繁盛店ならではのトレンドに対する感度の高さが見えてきた。

前編:おでん屋もやった「銀座寿司幸」創業140年の壮絶

「酒の品ぞろえのよさ」で他店を圧倒

戦後復興景気もあって右肩上がりの商売を続けていた、昭和30年頃。借家だった店の奥に住んでいた地権者が、高齢のため田舎に戻るので、土地を購入してほしいという話が持ち上がり、銀座寿司幸の3代目は、現在の本店を構える銀座6丁目の土地を購入することになった。

売りたいという場合と、買いたいという場合では土地の価格は変わってくることもあり、当時としても廉価に購入できたそうだ。昭和45年には5階建てのビルに建て替え、早々に借金も完済している。

銀座のこの地で家賃が、坪3万円としたら、100坪で毎月300万円、大層な出費となる。バブル景気など思いもよらないその時代に土地を購入し、ビルを建てたということは、今となっては、大変な先見の明と運のよさとしかいいようがない。

銀座が華やかになり、「銀座の高級寿司店」という立ち位置が定着してくると、客の要求もそれなりに高くなってくる。銀座寿司幸本店が圧倒的に有利だったことの1つが、早い段階から、酒の品ぞろえを豊富にしたことだと言う。

ビールなら、キリン、サッポロ、エビス、サントリー、アサヒとそろえるのはあたりまえ。当時はたとえば、「三菱系の会社の人はキリン」など、どこに勤めているかで飲むビールが決まっていたからだ。

日本酒も各地の地酒を揃えた。客が新潟の出身とわかれば新潟の酒を出し、広島とわかればそれというように。これは接待にも使えた。接待相手の出身地を事前に調べておき、用意しておいてもらうなどということもできるからだ。バブル期に重なるように吟醸酒ブームが到来し、客はこぞって高級日本酒を開けた。

その次に予想を超える焼酎ブームが沸き起こる。それこそ「森伊蔵」など、抽選でなければ購入できない、幻の超人気焼酎がいくつも登場したが、元来、酒に関する知識が豊富で、酒屋との付き合いも密であった先代の杉山氏 は、容易にそうした焼酎を手に入れることもできたという。銀座寿司幸本店に行けば、特別の焼酎が飲めると、客は喜んで訪れた。

焼酎ブームの前にバブルが崩壊したが、バブル後も客足が絶えることはなかったという。「しょせん、一升マス(料理屋のこと)には一升しか入らない、9割になってももちこたえられた」と杉山氏。料理屋の利益をマスに喩える。

「ワイン×寿司」もいち早く始めた

そして、今でこそ珍しくもなくなったが、寿司にワインを合わせるという試みをいち早く始めたのが杉山氏なのである。自身がワイン好きで、自ら勉強し、知識を深め、魚とのマリアージュを趣味として研究――穴子にはムルソー、トロにはピノ・ノワールを合わせるといった具合に――していたのだが、そこにワイン好きの顧客たちがとびついたというわけだ。

「アルコール類に力を入れていてよかったのは2008年のリーマンショックと2011年の東日本大地震のときですね。両方とも客が1/3になったけれど、ワインを目当てにやってくる客は根強かった」と杉山氏。

「実は東日本大震災の前は景気がよかったものだから、ワインをしこたま買い込んでいて、不良在庫が山のように地下のセラーに眠っていたんです。原価を払い終わっていると考えると、2万円のワインを1本開けてもらえば、2万円の利益が出るんですよ」

銀座寿司幸の4代目、杉山衛氏(撮影:梅谷秀司)

「寿司を握って、2万円の利益を出そうと思ったら、どれくらいの寿司を握らなければならないと思う?」と杉山氏から聞かれ、「5万円」と答えると、「そんな寿司屋は1週間で潰れるよ」と笑われた。

【2024年9月18日14時00分 追記】初出時、利益率に間違いがあったため、下記の通り訂正いたしました。

寿司の利益率は約1割。つまり、売り上げベースで15万~20万円握らないと、2万円の利益は出ないのだという。客が1/3に減って売り上げは減ったが、利益率の高い酒の購買量が増えたため、利幅はぐっと上がったというのが現状だったのだ。それで、リーマンショックも東日本大震災も窮状をしのぐことができたそうだ。

リーマンショックでも利益を出せたワケ

接待で利用していた客はまったく来なくなったが、ワインを飲む客が減らなかったのは、客との個人的なつながりが強かったためだ。中小企業の社長や作家、資産家など、自分のお金で飲み食いできる個人客が残ったのである。

その頃には、銀座寿司幸本店に行けば素晴らしいワインが飲めるというのは、ワイン通の間ではよく知られるところとなっていった。けれどそれはけっして店を流行らせるためやブームを狙ってやったことではなく、たまたま好きだったことが流行った結果だという。そこにもまた、繁盛店であり続けるための客のニーズをいち早く察知できるだけの先見の明と運のよさを感じる。

そんなこともあって、不景気の間も客足が絶えることはなかったが、横浜そごうに出店していた支店は持ちこたえることができずに潰れた。これにより、いきなり従業員が3倍になったわけだ。

「給料は同じだけ払うけれど、銀座店は土・日も全部営業するから、それでもかまわないという人は残るようにと言ったところ、ほとんどの人がやめなかったんです。そんなときに、2002年オープンの丸ビルに出店の話がきたんです」と杉山氏。高い投資だったけれど、思い切ってその話にのって正解だったとふりかえる。

魚は当たり前だが、一尾単位で仕入れる。本店では使えない、最上等の部位でなくとも、使える部位はまだまだある。銀座店だけであればそれらは廃棄するしかないが、丸ビルであれば、ランチの素材として大喜びされる。こうして、丸ビル店では本店とは違う切り口の店で勝負をすることにした。

丸ビル店は若手が人前で寿司を握る修業の場にもなった。「銀座寿司幸本店」ほどの老舗となると、板前さんたちも、20~30年クラスという人がざら。そうすると、若手はなかなか、客前で握る経験ができないからだ。

握る技術だけなら1人で鍛錬することも可能だが、的確に手を動かしながら、言葉巧みに客あしらいをする、これは、経験を積まなければできることではない。また、人間というものは、任されればやる気にもなる。杉山氏曰く、そうした“ディスポーザー的”な店は本店を守り、潤滑に回していくためには必ず必要なのだという。

コロナ禍を救ったのは「インバウンド」

リーマンショックや東日本大震災を乗り越えた飲食店を次に襲ったのはコロナ禍である。ところが、これを救ったのが意外にもインバウンドだという。

杉山氏のもとには20年ほど前から、香港、シンガポール、台湾など、多くのアジアの大富豪が訪れるようになっていたのである。「口コミですか?」とその理由を尋ねると、まずは香港の大富豪と仲良くなったのだそうだ。

インフルエンサーであったその彼が、セレブ仲間に次々と同店のことを薦め、気づいたら自家用飛行機で来るようなインバウンド客が何人もいるような状況になっていた。

そこで、杉山氏は店のスタッフたちに英会話を習わせたのである。週4コマのレッスンがもう10年も続いている。だから、若い板前たちは、海外からのゲストの対応をしっかりと任せられるまでになっている。10年以上も前にそうしたアイデアを思いつくというのはさすがとしかいいようがない。

さらに当時、ペニンシュラやマンダリン・オリエンタルなど高級ホテルのコンシェルジュに15枚分の招待状を出した。必ず20時すぎに3~4人で来ることを条件にして。そして、実際に、インバウンド客とのやりとりを見てもらう。すると、ホテルゲストから寿司が食べたいというリクエストがあったときに、コンシェルジュたちは自信を持って銀座寿司幸本店を推薦してくれるようになった。

「どんな飲食店も菓子折りくらいは持っていくだろうが、こうしたことをやった店はないのではないかと思いますよ。たった数十万円、広告宣伝費と考えれば安いものです」と杉山氏。

「このやり方のいい点として、高級ホテルからの紹介の客であれば、トラブルを起こすことがほとんどないということもあるんです。逆にトップ20以外のホテルからは予約をとらないようにしました」

コロナ明けにいち早くインバウンド客が戻ったのもこうしたアイデアと努力の賜物である。現状は3割がインバウンド客だそうだ。また、彼らは20時半~という遅い時間帯を好んで来てくれるというメリットもある。

予約の電話で、早い時間帯は空いていないけれど、20時半~なら入れますよと答えると、日本人客の場合8割は断るというが、インバウンド客はむしろ喜ぶ。欧米の食事文化の時間帯を考えれば当然ともいえることだが、二毛作ともいうべき、客の入りが望めるわけだ。

普通の人が行ける寿司の上限は「3万円」

”寿司バブル”と言われる今の時代、1人5万~6万円を超える店も珍しくない。しかし杉山氏は自分の店はあくまで適正な価格であり続けたいという。もちろん超一流の高嶺の花の銀座の寿司店だ。特別なワインなどを飲まなくても3万円台にはなる。しかし、それが、ある程度余裕のある普通の人が行ける上限の価格だと考えている。

温暖化による資源の枯渇、円安による諸物価の値上がり、人件費の高騰など、諸般の厳しい事情から考えると、並大抵の努力ではその価格帯におさまらない。

ちなみに2000年より前には1kg1.5万円だった鮑が今は3.5万~4万円にはね上がっているそうだ。原価を抑えるためには、まず、数字に厳しくなることが最も大切であるという。毎朝の仕入れの請求書には誰よりも厳しく目を通す。

そうした徹底した管理と客の需要へのきめ細かな対応の結果、現在も経営は順風満帆、繁盛店であり続けている。現在の悩みの種といえば、“働き方改革”の問題だそうだ。今は、2~3年の修業で独立している若い衆も多いけれど、やはり10年は修業しないと本当の意味での技術が身につかない。

また、昔なら早朝に河岸に行って、夜遅くまで働いたわけだが、労働時間が8時間と制限されている今、そんなことをしたらたちまちブラック企業のリストにのってしまい、若い子が誰も来なくなってしまう。

しかし、「週5日1日8時間では足りない」というのが本音だ。修業というものは、一時期、寝食を忘れて打ち込むくらいでなければ、一生ものの技術は身につかないのである。

海外から出店の誘いもあるが日本に集中

「次世代にどう残していこうかというのが経営プランの中の大きな柱です。これ以上大きくしようというのではなく、働く側にも客の側にも居心地のいい形でやっていこうというのが経営理念です」と杉山氏は語る。

「聞いた話ですが、韓国は100年企業が極端に少ないのだそう。それは、急速な右肩上がりを求めるからだとか。海外に店を出す話も100回以上ありましたが、早い時代から、海外との仕事もやってきて、海外でやることの難しさをよくわかっていますから、すべてお断りしました。

日本店をたたんで、海外に移り住み、私一人でやるのなら収入は倍になるだろうけれど、社長としてやるには、出張に1回100万かかることだけを考えても、3~4軒経営しないと割が合わない。それでは日本の方が手薄になってしまいます」とも。

こうした堅実な考え方の上に立つ、先見の明、そして運のよさが、100年以上続く繁盛店の背景にはあるのだ。

(小松 宏子 : フードジャーナリスト)

ジャンルで探す