おでん屋もやった「銀座寿司幸」創業140年の壮絶

銀座6丁目に佇む「銀座寿司幸」本店は創業約140年(撮影:梅谷秀司)

現在4代目の杉山衛氏が切り盛りする「銀座寿司幸本店」は押しも押されもせぬ、日本を代表する江戸前寿司の名店である。創業は1885年と、来年で創業140年。明治、大正、昭和、平成、令和の5つの時代で繁盛店であり続けてきたということは奇跡に近い。

2年以内に50%が廃業すると言われる飲食業界においてこれほどまでに長く人々に支持されてきた理由はどこにあるのか。その歴史を探っていくと、類いまれなるサバイバル能力と繁盛店ならではのトレンドに対する感度の高さが見えてきた。

「新橋」が超絶に栄えた理由

時は明治維新直後のこと。静岡生まれの下級武士だった杉山幸二郎は、日々の生活を営むのも苦労するようになり、芝の増上寺の門前町、芝大門に店を構える「かねたま寿司」を頼って上京した。

十数年修業し、新橋(現在のゆりかもめの発着所の近く)で独立。当時、芝の神明町から愛宕警察のあたりまでの新橋は、薩長の役人たちの会合が多くあったこともあり、夜も暮れないといわれるほどの繁華街だったそう。

当時、最も格の高かった花街は芳町といわれた人形町や柳橋だったが、そこでは大きな顔をした薩長の田舎役人は受け入れられなかった。そこで彼らが流れたのが新橋だ。場所的に政治の中枢である霞が関が近いことも功を奏し、気づけば、数十年のうちには新橋が花柳界の中でもトップに立つように。これにつれて「寿司幸」も順調に業績をのばしていく。

初代は明治のうちに亡くなり、2代目があとを継ぐ。兄弟で店を切り盛りしていたが、長男もまた明治のうちに亡くなり、明治の終わりには弟(杉山氏の祖父にあたる)が経営を任されるように。第1次世界大戦が近づくと、景気がさらによくなり、大正ロマンと言われたように、粋な客が大勢来るようになった。

関東大震災→火事で一から出直しに

ところが、店が軌道に乗り始めた大正12年、関東大震災が起こる。仕込みの最中だったというが、食器は割れなかったというから、揺れはそれほどではなかったのかもしれない。

が、2~3時間もすると、リヤカーに家財道具を積んだ人たちが日本橋のほうから押し寄せてきた。空を見上げればどす黒い煙で覆われている。火事である。

2代目主人は当時、町会長をやっていたこともあり、ここにいては大変だと、皆を引き連れ、水の湧く愛宕山の上まで皆で逃げたそうだ。仕込み中だった寸胴いっぱいの煮鮑を持って走ったというのだから、無我夢中ぶりがうかがえる。

その晩は皆で鮑をかじりながら飢えをしのいだという。当時は、お金は銀行に預けるものではなく、タンス預金が普通。そのため、一切のお金が燃えてしまった。それでも命あってのものだね。火事の被害が大きかった浅草方面へ逃げていたら助からなかったはずだから。  

その後、東京都が再開発を始めるのを待たずに銀座通連合会の前身である京新聯合会はただちに銀座復興策を打ち出した。移転するという消極策を禁じ、以前の場所で2階建てのバラックでもよしとし、早々の立て直しをはかった。

こうして銀座の整備が進むも、 料理屋はどこも再興に時間がかかった。その間、関西の料理店が次々と進出してきた。それまでの江戸料理とは違う、洒落た割烹スタイルの店が人気を博した。昭和の初めのことだった。

「寿司幸」も、親戚一同が力を合わせ、無事、新橋に再建することができた。その後復興景気で銀座界隈の町全体が立ち直っていったという。

飲食店でコメを出せなくなったが…

しかし、そうこうしているうちに太平洋戦争の影が忍び寄ってくる。昭和11年の二・二六事件あたりから景気がまた悪化していく。繁華街はまだなんとか軍関係の客で景気は成り立っていたが、昭和14、15年になると、いよいよ働き盛りだった男たちが兵隊にとられ、物資もなくなり、店がたちゆかなくなる。

早めに兵役を終え、一族郎党を引き連れ奈良に疎開していた2代目は終戦後、焼け野原だった東京に戻り、親戚で力を合わせて再び店を始める。当時は食料統制が厳しく、コメは家庭に配布された“お米の通帳”を通してでないと手に入れられず、飲食店で出す(売る)ことはできなかったのだという。

寿司幸4代目の杉山衛氏(撮影:梅谷秀司)

そうした中、客にコメを2合もってきてもらって、それを炊いて出すという仕組みでなんとか店を回していったというから驚く。

魚介の仕入れは、築地よりも先にいち早く整備された鶴見の市場で行った。どの店も自転車の後ろに四角くて深さがあり、くくりつけやすい石油缶をのせて、買い出しにでかけた。帰路、玉川の橋を渡ったところに警官が待っていて、見つかったら魚は没収。というのは闇営業だったから。だから、どの店も時間をずらしたり、道を変えたりのいたちごっこだったという。

その後、料理店の統制は解除されたが、なぜか寿司屋の統制が解けるのが一番遅く、法にのっとって営業できるようになったのは、昭和24〜25年になってからのことだったという。

それまで「寿司幸」では、店の前におでんの鍋をおいて、おでん屋として営業している体を装い、2階で寿司を握っていた。警察の見回り時に、階段下に靴があることが見られると違法営業がバレてしまうので、靴のしまい方にはとにかくうるさかったそうだ。しかしそんな中でも新橋もどんどん人が増えて、商売は右肩上がりだった。

昭和26~27年頃は客の数に比して店の数が少なかったからどこの店も大繁盛だった。2代目も当時3軒の店をやっていた。一軒は銀座7丁目、現在資生堂がある隣の場所だった。が、一大決心をし、それらを全部親戚に譲り、「これからは銀座だ」と、数寄屋通りに移った。

現在、寿司幸が本店を構えるその場所は、銀座の中でも焼け残った場所で置き屋の通りだった。近くには国鉄があり、三井系の大きな会社もあり、いわゆる「社用族」の需要が高く、商談のために飲食店を使うことが日常的になっていった。商売は場所が大きく運命を左右するということがよくわかる。

カウンター商売ならではの「転換」の早さ

寿司屋の在り方も変わっていった。それまではせいぜい、刺身を切りつけて出す程度で、あとは寿司を握って出していればよかった。しかし、そのころからつまみに工夫を凝らすようになった。酒を出すために、つまみの種類をどんどん増やし、酒の種類も増やしていったのである。

カウンター商売の寿司店だからこそ、客との会話や、客同士の会話から彼らのニーズをいち早く察知することができたのだ。仲居さんが間に入る料理屋ではそうはいかない。

銀座はこのようにして、商談に華を咲かせるハレの場としてのイメージがついていった。当時、いわゆるクラブやバーが盛んに創業し、それを目当てに集まる人も増えていった。

だが、一軒目から飲みに行くわけにもいかないし、一人で飲みに行くのも気がひける。そんなときに寿司屋が恰好のクッション材になったというわけだ。「おい君、ちょっと寿司でもつまんでから飲みにいかないか」と。

大会社の重役となれば5時には早々に会社を出て、その後は接待が仕事だった。そんなわけで、「銀座寿司幸本店」は右肩上がりの昭和経済の中で、安定した不動の地位を築いていくのだった。

(後編に続く)

(小松 宏子 : フードジャーナリスト)

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