今なお残る「富士重工製の鉄道車両」一族の系譜
スバルといえば、今は多くの人が自動車メーカーとして認識しているだろう。しかしかつては、鉄道車両の製造会社でもあった。とりわけ気動車については、国内を代表するメーカーでもあった。
自動車メーカーの鉄道車両
自動車会社が鉄道車両を手掛ける例は、これまでもいくつかあった。三菱自動車の母体となった三菱重工業は、蒸気機関車や電気機関車を数多く送り出し、現在はAGT(全自動無人運転車両システム)を積極的に展開。二輪車まで含めれば、川崎重工業はモーターサイクルと鉄道車両の両方を、長きにわたり製造してきた。
しかしいずれも現在は、自動車やモーターサイクルの部門と、AGTを含めた鉄道車両部門は別会社になっている。これに対してスバルが鉄道車両に関わっていた富士重工業だった時代は、同じ社内で自動車も作っていた。
なぜ富士重工業が鉄道車両を作るようになったのか。それを説明するには、この会社の前身である中島飛行機の歴史にさかのぼる必要があるだろう。『富士重工業三十年史』および『富士重工業50年史』を参考に紹介していく。
中島飛行機は1917年、中島知久平が現在の群馬県太田市に設立した飛行機研究所をルーツとする。まもなく陸軍からの受注を受けるようになり、続いてエンジンの生産もスタート。太平洋戦争が始まると海軍機も担当するようになった。当然ながら全国各地に工場が開設されることになった。
しかし敗戦により航空機は生産停止が命じられ、中島飛行機は富士産業と名を改め、平和産業への転換を図った。「ラビット」と名付けられたスクーターや船外機など、さまざまな製品を生み出す中、栃木県の宇都宮工場では、国鉄の戦災車両の復旧事業を1946年から始めた。
宇都宮工場は現在も、航空宇宙カンパニー宇都宮製作所として稼働している。本工場、南工場、南第二工場があり、戦災車両の復旧は本工場のある場所で行われた。現在のJR東日本日光線の宇都宮―鶴田間の線路沿いにあったことが契機かもしれない。
ちなみに南工場と南第二工場は、航空機の製造や整備が本業で、元は中島飛行機の所有だった陸上自衛隊の駐屯地に隣接しており、東北本線雀宮―宇都宮間のやや西に位置している。
宇都宮車両として独立
同じ頃、群馬県大泉町にあった小泉工場の技術者たちは、航空機の機体技術を生かしたバス車体の開発に取り掛かっていた。こちらは同じ群馬県内の伊勢崎工場で、国産初のモノコックボディ・リアエンジンバス「ふじ号」として生産を始めた。
その後、富士産業はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から、4大財閥に準ずる組織であるとして解体命令を受け、1950年に12の会社に分割された。宇都宮工場は宇都宮車両として独立した。
しかしながら2年後、サンフランシスコ講和条約が発効されたことで、日本の主権回復が認められるとともに、航空機の研究や製造が解禁になった。
これを受けて、富士産業から分割した12社のうち、宇都宮車両を含めた5社が出資し、1953年に航空機製造を目的として富士重工業が誕生。2年後に出資した5社を富士重工業が吸収する形で、現在のスバルに続く組織ができあがった。
「スバル360」の誕生
乗用車の研究開発はそれ以前から、伊勢崎工場で始まっていたが、同じ1955年に当時の通商産業省が出した「国民車育成要綱案」に対応する形で、目標を軽自動車に定めることになった。
伊勢崎のバスづくりで培ったモノコックボディと、東京都の三鷹工場で作っていたスクーター用エンジンの技術を合わせる形で、1958年に同社初の乗用車「スバル360」を発表。これが大ヒットしたことで、富士重工業は自動車への比重を高めていく。
富士重工業が会社としての体制を確立した1955年には、鉄道事業にも大きな動きがあった。戦災復旧の実績が認められ、当時の国鉄から気動車メーカーとしての指定を受けたのである。
国産初の量産型液体式気動車キハ17系、日本初の気動車特急「はつかり」とともにデビューしたキハ80系、急行型として全国各地を走り回ったキハ58系、現在も活躍を続けるキハ40系など、国鉄時代に生まれた液体式気動車の多くを手掛けた。
貨物コンテナや電車も製造
それ以外の製造も担当しており、「この間、1969年12月には国鉄技術陣との共同開発による新系列客車(12系)の製作指示を受け、新たに客車メーカーの仲間入りもしている」と富士重工業50年史にあるように、ブルートレイン用24系25形などを担当した。
さらに保守用の軌道モーターカー、貨物輸送用コンテナなども引き受けており、電車では生産拠点の近くを走っていた東武鉄道の8000型や10000型などを製造した。
しかしながら最大の顧客だった国鉄は、年々赤字が膨らんでおり、1980年には輸送密度の低い特定地方交通線をバス転換や第3セクター化すると発表した。
受注が減少していた富士重工業は、第3セクターに新たな挑戦の場があると考えた。そこで1982年に発表されたのが、LE-Carと呼ばれる新世代レールバスで、Lはライト、Eはエコノミーの意味を持たせていた。
「1980年12月、当社は若手技術者を集めてレールバス開発プロジェクトを立ち上げたが、そこでの開発目標は、国鉄一般気動車の3分の1という従来の延長線上では不可能と言われるものだった。そのため、車体・内装はバスボディを使用、下回りは1軸台車を中心として小型軽量化を図ることとし、エンジンをはじめとする主要部品は、極力、量産されているバス・自動車用のものを採用する方針をとった」(富士重工業50年史)
富士重工業はかつて、青森県の南部縦貫鉄道などへ車両を供給していた。バスと鉄道の両方の経験を持つという特徴を生かせるジャンルといえた。
各地の3セクで導入
当初は1軸台車だけだったが、定員増加を望む声があったことから、ボギー台車を採用した車両も加わり、全国各地の第3セクター鉄道に導入された。
さらにこの経験を生かして、一般の鉄道車両に近い軽快気動車LE-DCも開発された。車体構造は鉄道車両のそれだったものの、エンジンなどはバスの部品を転用していることが特徴だった。
富士重工業の生産拠点がある群馬県や栃木県を走るわたらせ渓谷鉄道も、LE-CarやLE-DCを導入した。理由について同社営業企画課は「ドアやクーラーなどにバス用部品を多用し製造コストを下げた第3セクター向けの軽快気動車を富士重工業が製造し、多くの会社が採用していたため決定した」と説明する。
一方で自動車分野における水平対向エンジンや運転支援システム「アイサイト」のような、独創的な技術を生かした車両もあった。世界初の制御付振子気動車となったJR四国2000系はその1つだ。
気動車の高速化ニーズに対応
国鉄分割民営化によって生まれたJR四国は、高速道路網への対抗として高速化を考え、いくつかの車両メーカーに打診した。その中から富士重工業の提案が採用され、JR四国および鉄道総合技術研究所との共同開発がスタートしたという。
気動車はエンジンの力を台車に伝える推進軸が振子運動の邪魔になることから、スムーズに伸縮する軸を開発し、推進軸の回転と逆方向に車体が傾く問題は、2基のエンジンの推進軸を逆方向に回転させることで解決した。
自然振子で課題だった不快な揺れは、線路データを記憶させ、カーブの手前から徐々に車体を傾けていくことで抑制した。日本機械学会賞を受賞したこれらの技術は、その後JR北海道キハ281系、智頭急行HOT7000系などに引き継がれた。
しかしながら富士重工業の鉄道部門は、1990年代に入ると負債がかさんでいく。そこで同社は2002年、自動車を中心とした成長事業に投資をシフトし、鉄道車両は翌年を持って新規生産を終了すると発表した。
現在もLE-DCわ89形310番台2両を走らせる、わたらせ渓谷鉄道営業企画課からは「導入から30年以上を経ており、故障が発生しても交換用の部品を確保するのが難しくなっている」と維持についての苦労話も聞かれた。
とはいえ人材や技術が途絶えてしまったわけではなく、気動車製造におけるライバルでありながら経営破綻した新潟鐵工所の鉄道部門を引き継ぎ、IHIと日本政策投資銀行の出資により設立された新潟トランシスに引き継がれた。
生産終了も宇都宮には深い縁
新潟トランシスでは気動車だけでなく、LRT車両も得意分野としており、8月に開業1周年を迎えた芳賀・宇都宮LRT(ライトライン)用HU300形も製造している。
かつて富士重工業が鉄道車両を送り出していた地で、技術を継承した会社の車両が走るシーンは、歴史を知る者には特別の感慨がある。
(森口 将之 : モビリティジャーナリスト)
09/05 07:30
東洋経済オンライン