東武の独立路線「カメが走った」熊谷線の軌跡

東武熊谷線 キハ2000

東武熊谷線を走ったディーゼルカーキハ2000形。当時の最新鋭の性能を持ち合わせていた(写真提供:熊谷市)

2024年は東武東上線が開業してから110周年だという。東上線は、東武鉄道とは別会社の東上鉄道として開業したことから、伊勢崎線など東武鉄道の本線系とは路線上の接点をもたず、越生線とともに独立した運転系統となっている。

東武鉄道には、かつてこのような他系統と完全に独立した路線がもう1つあった。東武熊谷線(妻沼線)である。熊谷線は、JR高崎線、上越新幹線、秩父鉄道が乗り入れる熊谷駅から北上し、利根川南岸の旧・妻沼町(2005年に熊谷市と合併)までの約10.1kmを結ぶ非電化路線で、「カメ号」の愛称で親しまれたディーゼルカーが活躍していた。

今回は、この熊谷線の歴史を振り返りながら廃線跡を歩くとともに、以前から浮上していた、熊谷線の廃線跡等を活用する「埼群軌道新線」構想のその後についてもお伝えする。

軍の命令で戦時中に建設

熊谷線はもともと、太平洋戦争中、現在の群馬県太田市にあった中島飛行機(現・SUBARU)への工員・資材輸送の必要性から、軍の命令で建設されることになった軍需目的の路線だった。

建設工事は2期に分けて実施する計画が組まれ、熊谷―妻沼間の第1期工事区間は1943年11月までに竣工し、12月5日に開業した。工員たちは列車で熊谷から妻沼まで運ばれた後、妻沼でバスに乗り換え、利根川を渡って工場へ通勤したのである。

【写真】東武熊谷線のディーゼルカー「カメ号」キハ2000形の現役当時や1983年廃線直前のヘッドマーク付きの姿、駅の様子、そして保存車両の車内

第2期工事区間は妻沼から利根川を渡り、貨物専用線の東武仙石河岸線(1976年廃止)を経由して、東武小泉線に接続する計画だったが、工事中に終戦を迎える。終戦により軍需輸送という建設目的を失ったが、治水上の観点から利根川橋梁の橋脚(ピア)が完成するまで工事を続行する方針となり、1947年7月に橋脚が完成した時点で工事は中止された。

戦後の高度経済成長期には、群馬県側への熊谷線貫通の機運が高まり、1961年10月に「東武鉄道妻沼・大泉線貫通促進期成同盟会」が発足。東武鉄道、国鉄および関係市町の間で熊谷線延伸に向けた協議が行われた時期もあった。また、逆に熊谷線を南へ延伸し、東上線の東松山駅につなぐ計画が持ち上がったこともあった。

しかし、マイカーの普及などで熊谷線の利用者は減少し続け、「昭和50年以降は年間赤字が2億円を超え、(昭和)54年度決算では収入は4100万円、赤字は2億4千万円」(朝日新聞1980年11月21日)と、営業係数が500を超える不採算路線となった。廃止反対の運動もあったものの、1983年5月31日を最後に熊谷線は廃止された。

廃線直前 東武熊谷線 キハ2000 重連

廃止直前の1983年5月21日から31日までは車両に「さよなら熊谷線」のヘッドマークが掲げられた(写真提供:熊谷市)

秩父鉄道の「間借り」だった駅

続いて、熊谷線の廃線跡を熊谷駅から妻沼駅跡まで歩いてみよう。熊谷線には、熊谷、上熊谷、大幡、妻沼という4つの駅が存在したが、熊谷駅、上熊谷駅の両駅は、秩父鉄道のホームを間借りしていた。軍需目的により、急ピッチで建設しなければならず、熊谷―上熊谷間は、「仮線」ということで秩父鉄道の複線化用地を借用して営業開始し、戦後も、独自の線路敷設の投資ができずに、そのままになっていたのだ。

熊谷駅では、秩父鉄道の羽生方面行き列車と同じホームを使って発着。線路をホームの中程で区切り、お互いに顔を合わせるように停車していた。

次の上熊谷駅は、上越新幹線の高架と高崎線の線路に挟まれ、さらにホーム上を国道407号が通過する、なんとも肩身の狭そうな小駅だ。駅舎から構内踏切を渡った先に島式ホームがあり、当時はこのホームを秩父鉄道と熊谷線が共用していた。

現在、ホームの旧・熊谷線側(北側)はフェンスでふさがれて使用されておらず、レールも撤去されている。実は近年まで、上熊谷駅構内を含め、熊谷線のレールは比較的長い距離が残っていたが、2019年に行われた高崎線の架線柱更新工事の際に、わずかな区間を残して撤去されてしまった。

上熊谷駅付近 廃線跡

上熊谷駅付近の跨線橋より。2017年撮影時(上)には高崎線のすぐ左に熊谷線のレールが残っていたが、現在(下)は撤去されている(筆者撮影)

さて、上熊谷駅を出た熊谷線は、秩父鉄道の線路としばらく併走した後、大きく北へカーブして妻沼を目指していた。この辺りから先、廃線跡は「かめの道」という遊歩道になっている。熊谷線廃止後、東武鉄道から熊谷市および妻沼町(当時)に線路敷きの土地が無償貸与され、道路やこうした遊歩道として整備が進められた。ちなみに、「かめの道」という名称は、「カメ号」という熊谷線の車両の愛称に由来する。

熊谷線では、1954年2月にディーゼルカーが導入されるまでの間、東武鉄道が鉄道院から譲り受けたイギリス製の蒸気機関車が客車を牽引していたが、10.1kmの路線を走るのに24分もかかったことから、地元の人たちに「のろま線のカメ号」と呼ばれていた。ところが、「キハ2000形」ディーゼルカーが導入されると一気に17分に短縮され、見た目もカメに似ていたことから、今度は「特急カメ号」と呼ばれるようになったという。

東武熊谷線 蒸機とキハ2000

27号蒸気機関車とディーゼルカー。新旧「カメ号」のそろい踏み(写真提供:熊谷市)

ディーゼルカーが走った「かめの道」

「かめの道」はとてもきれいに整備されていて歩きやすい。しばらく歩を進めると、熊谷線が高崎線の線路をオーバークロスしていた地点に到着する。当時の写真を見ると、熊谷線はかなりの高さのある築堤上を走り、高崎線の頭上を越えていた。

東武熊谷線 築堤 高崎線

築堤上を走り、高崎線をオーバークロス。勾配はきつく、蒸気機関車時代は馬力が足りず、ノロノロになったという(写真提供:熊谷市)

この築堤は延長1.5km、高さ最高4.2m、幅平均13mにも及んだといい、熊谷市街を文字通り「分断」していたため、熊谷線廃止後に撤去された。その土砂は1988年に開催された「さいたま博覧会」に備えての「熊谷バイパス」拡幅工事に再利用されたという。

高崎線の線路と国道17号線を越えた先も、「かめの道」はおよそ800m続き、終点となる。その先、廃線跡は舗装道路へと変わり、沿道は住宅地になっている。今の時代に熊谷線が残っていたならば、通勤・通学需要がかなりあったのではないかと、少し残念に思われる。

左手に大幡中学校が見える辺りまで来ると周囲に田畑が増え始め、やがて前方に熊谷バイパスの高架が見えてくる。この付近に途中駅の大幡駅があった。昔の大幡駅の写真を見ると、ホームの先に熊谷バイパスの高架が写っている。熊谷バイパスは、1982年に全線が開通していることから、熊谷線廃止直前の1982~1983年頃に撮影されたのだろう。

東武熊谷線 大幡中学校

1982~1983年頃の大幡駅ホーム。軍需路線として建設されたため、ほとんどが直線区間(写真出典:PAYLESSIMAGES)

さて、熊谷バイパスをくぐってさらに歩を進めると、次第に家々の数が少なくなり、田園風景が色濃くなってゆく。道路際の田んぼに埋められた境界杭に「東武」の文字が見られる。この道をたしかに鉄道が走っていたことを示す証しである。

東武熊谷線 境界杭

「東武」と刻まれた境界杭が、ここが鉄路であったことの唯一の証しだ(筆者撮影)

田園風景の中を延々と歩き、単調な景色に少し飽きはじめた頃、福川というやや大きめな川を渡る。ここに架かる「東武橋」は、熊谷線が走っていた当時の鉄橋からコンクリート橋に変わっている。橋桁のプレートを見ると、熊谷線廃止から5年後の1988年に架け替えられたことがわかる。

東武橋 現役当時

東武橋上を行くキハ2000形。統括制御が可能で朝夕の混雑時は2両編成で運転された(写真提供:熊谷市)

「カメ号」の生き残り

福川を越えれば、熊谷線廃線跡の旅も、いよいよラストスパートだ。東武橋から2kmほどで、かつての熊谷線の終着駅であった妻沼駅跡にたどり着く。現在の「ニュータウン入口」バス停付近が駅跡である。

そして、いよいよ今回の旅のクライマックスとなる「熊谷市立妻沼展示館」を訪問する。展示館の建物に隣接して、キハ2000形ディーゼルカーが1両保存されている。この車両は、熊谷線で活躍していたディーゼルカー3両のうちの1両、キハ2002号車だ。車両のドアは施錠されているが事務所で職員に声をかければ、車内も見学できる。

東武熊谷線 キハ2002 保存車

妻沼展示館に保存されているキハ2002号車。当時流行した前方2枚窓の「湘南スタイル」や、側面窓に上段Hゴム固定の「バス窓」などが採用されている(筆者撮影)

保存車両を見ると、昭和の時代にタイムスリップしたような感覚になる。かつての東武の車両はこのようなセイジクリーム一色の塗装だった。車内の座席カバーは、本来はキツネ色だったはずだが、モスグリーンに近い色になっている。日焼けにより変色したのだろう。ちなみに2001号車、2003号車はすでに解体されており、2002号車は熊谷線の唯一の生き残りだ。

キハ2002 車内

昭和を感じさせる車内には、クロスシートとロングシートが設置されている(筆者撮影)

さて、もう少し先まで足を延ばしてみよう。戦時中、利根川を越え、熊谷線を群馬県側へ延伸するため、利根川橋梁の橋脚工事が進められていたのは前述したとおりである。その橋脚は戦後も長い間、残置されていたが、1979年3月までに撤去された。

しかし、利根川北岸の堤外に、現在も1基だけがポツンと残っている。高さ7~8mはあろうかという橋脚は、戦中・戦後の資材不足の時代に造られたからだろうか、なんとなく不格好に見えるが、熊谷線の歴史を物語る貴重な遺構である。

熊谷線 延伸予定跡の橋脚

利根川北岸の堤外に1基だけポツンと残された橋脚(筆者撮影)

ここからさらに群馬県側の散歩を続けるならば、熊谷線と接続予定だった貨物線・仙石河岸線の廃線跡が「いずみ緑道」として整備されており、東武小泉線の西小泉駅方面へと続いている。西小泉駅からは、太田へも館林へも電車で10数分だ。

熊谷線 公園 案内板

「いずみ総合公園」内の案内板より。熊谷線は、ついに利根川を越えることはなかった(筆者撮影)

熊谷―太田間「新線構想」の現状は

今回は熊谷駅から妻沼を経由し、西小泉駅まで歩いた。同ルートは自動車ならばわずか30~40分ほどの道のりである(熊谷駅―太田駅間はバスで約50分)。しかし、鉄道で熊谷から太田や館林に向かうならば、羽生経由でかなりの時間を要するため、熊谷線の廃線跡等を活用し、太田と熊谷を結ぶ軌道を建設しようという構想が、これまでに何度か浮上した経緯がある。

1991年には、太田市、熊谷市、妻沼町など沿線3市9町(当時)で構成する「埼群軌道新線建設促進期成同盟会」が発足。また、最近では2016年に、太田から熊谷経由で東上線の森林公園駅までを結ぶ「(仮称)森林埼群軌道新線」の建設に向けた基礎調査実施の請願が熊谷市議会で決議された。

だが、現実的には沿線の人口動態などから新線の具体化は難しく、埼群軌道新線建設促進期成同盟会は「20年近く活動を休止していたことから、関係市町と合意の上、2024年6月27日付文書で解散を発表」(太田市企画政策課)した。これにより太田―熊谷間の軌道敷設の可能性は、現時点においてはほぼ消滅したことになる。

また、熊谷―森林公園間に関しても、「コロナ前は沿線市町で構成する新交通システム建設促進研究会で視察等を行っていたが、最近は書面会議のみ」(熊谷市企画課)と活動は停滞している。沿線の人口密度等を考えると、現状、こちらも実現の可能性は低いと言わざるをえない。

(森川 天喜 : 旅行・鉄道ジャーナリスト)

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