現代アート「1980年代」「1990年代」圧倒的な違い

現代アートにおいて1990年代に起きた変化とは(写真:cba/PIXTA)
しばしば「意味不明」「わからない」とされる現代アート。しかし、そこには必ず社会状況の反映がある。むしろ、現代アートを見ることで、より深く時代や世界について考えるきっかけにもなる。そこで本稿では、現在アートにおいて1990年代に起こった劇的な変化について『「わからない」人のための現代アート入門』より、抜粋して紹介する。

「辺縁」や「傍流」がリベンジ

既存の社会構造が有効性を失うようになると、その力学関係に揺らぎが生じます。その結果、かつては圧倒的優位にあった「中央」や「主流」に対し、劣位にあり虐げられてきた「辺縁」や「傍流」がリベンジするようになるのもアフター1980のムーヴメントの1つです。

それは地政学的な面で顕著に現れました。国際社会の関係性の焦点は「東西関係」から「南北関係」へと移行していきます。アートシーンにおいては、1989年にパリのポンピドゥーセンターで開かれた「大地の魔術師たち」という展覧会が1つの契機となりました。

この展覧会は、欧米のアーティストと非欧米のアーティストの間に差をつけず平等に扱うことによって、文化の多様性を等し並みのものとして見直そうとするものでした。

その実践は一応徹底され、すべてのアーティストに与えられる展示面積は同一とし、仮面やトーテムポールみたいなプリミティブな「資料」であろうが、テクノロジーを用いた「作品」であろうがまったく同列に扱われました。

そもそも、こうした企画を改めて立ち上げなければならなかったという事実が、世界がいかにそれまで欧米中心のロジックで動いていたかという間接的証左ともなりましたが、ともあれ、「中央」たる欧米は反省に基づいて本展を開催したのでした。

しかし、この展覧会は厳しく批判されることになりました。アフリカやインドなどの土俗的なオブジェと、欧米のアーティストの作品をただ並置したところで、それだけでは何の意味や新たな関係性を見出せないとか、発展途上地域からの出品物は怪しげで呪術的なもので、先進地域からの出品物は洗練され理性的なものというのでは、結局、偏見を追認助長しているだけではないかという声も。

さらには展覧会名に「魔術師たち(magiciens)」という語を使っている時点で途上地域の属性を決めつけている、といった指摘が次々に上がったのでした。

地域間の偏見を廃止、文化的差異を超える流れ

そういうネガティブな面もありはしましたが、それでも本展は文化多元主義(マルチカルチュラリズム)の機運を盛り上げる画期にはなりました。

地域間の偏見を排し、文化的差異を超克していこうとする動きはその後も続き、1つの結実を見せたのが1997年の第2回ヨハネスブルグ・ビエンナーレといわれています。ナイジェリア出身のキュレーター、オクウィ・エンヴェゾーがポストコロニアル(脱植民地主義)的アプローチで企画を練り上げました。

かつての宗主国たる旧帝国と植民地たる途上国の関係性を、強者と弱者、加害者と被害者という一方通行の関係で捉えるのではなく、植民地側もじつは宗主国に大きな影響を及ぼしており、相互的な文化の混ざり合い、衝突によって、宗主国とも植民地とも異なる第3の空間が生じたとするホミ・K・バーバの理論を援用しつつ、新しく生まれた文化を肯定的に捉え、ハイブリッドな性格の作品を数多く展示して高く評価されました。

なお、エンヴェゾーは2013年のベネチア・ビエンナーレのディレクターにも選ばれています。ベネチア・ビエンナーレのディレクターにアフリカ出身者が就いたのはそれが初めてでした。

マルチカルチュラリズムやポストコロニアリズムの動きは人々の関心を「中央」から「辺縁」へと分散させ、アートにおいても「主流」や「傍流」といった言い方が次第に意味を成さなくなっていきます。

1990年代に起きた「変化」

1990年頃になると、現代アートの文脈を見出すこと自体が難しくなります。全体を覆うような傾向は希薄となり、個別の活動があちこちで断片的に見られる印象が強くなるのです。

それは、1つの求心力で全体を統べるということができなくなり、結果として分散的ですべてが辺縁的になったことの現れだったでしょう。何らかのストリームとしてのアートの様式や派、グループといったものを分類分析しようとすることは困難でもはや意味のない試みとなっていきました。

もっとも、そういう中でも画期となったものはありました。「エッセンシャル・ペインティング」展(2006年、国立国際美術館)にノミネートされた画家たちは、現代アートのテーゼだった「アヴァンギャルドであること」に大した興味を抱こうとはせず、もっぱらプライベートな関心で作品を制作しました。

マルレーネ・デュマス、リュック・タイマンス、アレックス・カッツ、ピーター・ドイグ、ヴィルヘルム・サスナル、セシリー・ブラウンといった面々です。展覧会の趣旨説明で彼らは「前衛に対するこだわりからは解放されて」いると紹介されました。それはまさに現代アートのニュータイプ宣言でした。

マルレーネ・デュマスの絵は技術的なものを追求したようには見えません。いかにもフリーハンドという輪郭の人物が、緊張とは無縁の佇まいで描かれています。

妊娠した裸の女性が薄い上着だけを肩に掛けてこちらを向いている姿など、プライベート感と生命の感触が強く満ちたもので、フォーマルな硬さを感じさせる要素はまったくありません。色使いは肌色や水色、アイボリーといったフェミニンで穏やかな色彩が多いです。

アヴァンギャルドな精神を放擲

ピーター・ドイグは身の回りの風景を題材に選んでいます。バスケットボールのコートが描かれた1枚は、実景はおそらくどうということのない場所と思われます。そこを特別な場所として描くのではなく、いくぶん抽象化しつつも、そのままの様子で描いています。つまり、彼は普通の場所を普通に描くのです。やはりそこにオフィシャルなテーゼは何も見出せません。

「わからない」人のための現代アート入門 どう見る? どう感じる? 何を見つける?

「エッセンシャル・ペインティング」展の画家たちは、肩ひじ張って物申すといったことからは距離を置いています。そのスタンスはそれまでの現代アートのロジックからは逸脱したものでした。おぞましいアートのロバート・ゴーバーやマイク・ケリーらでさえ、表現は相当奇抜ではあったものの、既存の価値観や常識の問い直しというアヴァンギャルド精神は有していました。

ところが、エッセンシャル・ペインティングの連中は、アヴァンギャルド精神を放擲してしまったのです。彼らがやったことは、体制に対する反逆でも、社会の矛盾に対する告発でもありませんでした。そんなふうに構えることなく、1人の素の人間として等身大の関心を、肩を怒らせることなく表現するのでした。

いまから振り返れば、これは現代アートが大きく変質したことを示す1つの画期でした。現代アートにはオーソリティに対するアヴァンギャルドというほかにも存在可能性があることを広く知らしめるものとなりました。

(藤田 令伊 : 鑑賞ファシリテーター)

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