なぜ大人は若者に「合わせる」ようになったのか
もてはやされ、忘れられる若者
舟津:本書では、Z世代を読み解くテーマの1つとして「就活システム」を論じており、就活の早期化やインターンシップ、内定後の研修などへの疑問を投げかけました。周りの教員の中にはこうした問題をうまく乗り切っている方もいれば、問題にぶつかっている方もおり、そして少なくない方が問題を「そんなもんだ」と受け入れてしまっています。実践的な解決法として「無視する」、つまり見ないことにして放っておくことは多いんです。実際のところ、就活システムをとやかく論じるのは別に大学教員の仕事ではありませんし。
でも私は、もっと根本的な原因や背景を考察したいと考えていました。若者をめぐる違和感や疑問について本にまとめて、建設的な意見を提供できれば、と思ったんです。そう思ったきっかけに、與那覇先生の「デオドラント化(=少しでも不快に感じたら排除し、無臭化する社会)」という概念を扱った記事をはじめ、先生の論考との出会いがありました。
與那覇:本書で言及を見つけたときはとても嬉しく、応答するnoteを書かせていただきました。改めてありがとうございます。
舟津:特に印象に残ったのは、「歴史を忘れた日本(人)」というフレーズです。そこから、自分が抱いた違和感や経験をきちんと振り返って形に残し、「歴史」の一部として示すことで、多くの人に共有したいと思いました。就活システムの歪みや不備を学生も感じているのに、生き残るために仕方なくそのシステムに従っています。異論をはさむよりも黙ってやったほうが楽だ、という空気もあるんです。でも、私はそういった違和感を言葉にして発信することで、少しでも建設的な議論ができればと思っています。
與那覇:まさに必要なことですよね。とりわけ本書の優れた点は、著者の舟津さん自身がふだん教えている学生たち、つまりZ世代に対して感じる「違和感」を大事にしていることだと思います。いまZ世代と銘打つ本は「彼らに共感・期待」みたいなものが多く、年長者が「私はまだまだ若い世代と同じ!」とPRするツールになっていると感じていたので。
私の『平成史』でも書いたのですが、年長者が若い世代に「合わせよう」とする傾向が強まったのは、2010年代の前半からでした。脱原発や安保法制批判のデモに接して、「若い人も来ている。つまり私の主張は若者と同じ!」という形で満足する人が続出しました。
一方で10年代の後半には、AIブームなどの未来主義やポリティカルコレクトネスが流行し、「お前の感性はもう古い」と叩かれることを恐れる人が増えた。その結果、「年齢を重ねてきたからこう言える」といった成熟した価値観を、誰も表明できなくなっています。
これに対して本書は、大学の教室で舟津さんが学生に「なんだこいつら」と感じる違和感から出発する。しかしそこで一方的にダメ出しするのではなく、「彼らの世界観ではなぜ、こうなるのか?」と問いつつ掘り下げることで、「こういう論理になっていたのか!」と腑に落ちる答えが見えてくる。断罪でも追従でもない、正しく相互理解をめざしたZ世代論になっていますよね。
舟津:ありがとうございます。この本は、パッと見はZ世代に関する本のように見えるかもしれませんが、実はそれだけではないんですよね。ちまたのZ世代本は「こういう人たちだから、こう対策しましょう」という「対策本」が大半です。なんかわからないけど新しいものが出現していて、でもそれはハックすれば乗っかれるんだよ、という。與那覇先生がおっしゃったように、新しいものに乗っかる発想が前提にあるんです。でも、私はそれに疑問を感じていて、その違和感を考察して伝えたいと思っていました。
この本を出してみて、読者の方の多くが「私はゆとり世代です」とか「Z世代とゆとり世代の間です」と世代を表明されます(笑)。実は、ゆとり世代の話ってあまり振り返られていないんですよね。騒いだ割にはちゃんと追跡調査がされていないように感じます。そのうち、新しい世代の話に移ってしまう。今は「Z世代、Z世代」と言われていますが、次は「α世代」の話になるのでしょうね。ポジティブに語ろうとするけど、忘却も早い。
Z世代にすがる社会
與那覇:そもそも若い世代といえば「持ち上げるもの」だというのが前提になっていること自体、ちょっと奇妙な現象ですよね。ゆとり世代はむしろ、叩かれる対象でした。大人が決めたカリキュラム削減ゆえではあっても、「勉強不足で使えない」みたいに。
私はさらに年長の「就職氷河期世代」ですが、共感というか同情されることは一応あっても、「氷河期を創意工夫で乗り切った人はクリエイティブ!」みたいに褒められた記憶はない(笑)。しかしZ世代に対してだけは、なぜかみんな「期待」を語る。それは、もう新しいものにすがる以外、希望が持てない社会の表われかなとも感じます。
舟津:そうですね。ゆとり世代は「ディス」に用いられることが多いのに対し、Z世代はキラキラしたイメージで語られることも多く、ビジネスの商材になっている部分があります。たとえばTikTokは若者の支持を得ていると同時に、TikTokのレポートを見るとZ世代の支持を最大限活用しようとしていることがわかります。虚実ないまぜの、虚寄りの若者像が作られていくわけです。そしてそれが広告塔になる。
與那覇:「Z世代はメディアが煽るほど、本当にエシカル(倫理的)なのか?」を検証する本書の筆致には共感しました。どんな世代にも「自分は周りと違って、意識が高い」と自認するタイプは一定数います。そうした人の関心が、2000~2010年代ならITで起業するなどビジネスに向かったのに対し、2020年代にはむしろ政治を意識しだしたという面はありますよね。「気候変動に興味があります」とか、「ガザ問題をなんとかしたい」とか。
そうした「一部の人たちの関心の対象」が変化しただけなのに、Z世代が丸ごと「倫理感が強く、よりよい社会を求めている」かのように持ち上げる論調は、明らかにやりすぎ。逆に言うと、これからどう成長するかがわからない世代に賭けることしかできないくらい、現実の政治の中で追い詰められている年長者が多いのでしょう。
「若手のために」という無責任な言葉
舟津:今の話を聞いて思い出した例が2つあります。1つは、企業の話です。最近いくつかの企業が、若者を重役に起用することで話題を集めています。たとえば、女子高生をChief Future Officer(CFO)に任命するとか、20歳ちょっとの女性を社長に抜擢するとか。普通に考えると経営のセオリーから外れた人事であって、Z世代のキラキラしたイメージを売りにする狙いもあるのだろうなと。
與那覇:CEOをもじってCFOだと。確かにキラキラしていますが、なにをする役職かよくわからない(苦笑)。
舟津:もう1つの例は、研究者の界隈で、よく「若手若手」と聞くようになりました。
與那覇:大会で「若手シンポジウム」を開くとか、「若手の就職問題対策委員会」を作るといった学会が増えているみたいですね。
舟津:そうなんですよ。学会における若手はZ世代よりもうちょっと上ですし、私自身はぼちぼち若手扱いされなくなっていますが……。もちろん相対的に「持たざる者」である若手を支援するのはよいことですし、必要です。ただ率直に思ったのは、若手より上の年になったら、どうしていけばいいのかなと。中堅とかシニアの方がいろんなことをパワフルに頑張ってくれるのも若手はうれしいと思うんですけども、みんな「若手のサポートをします」と言う。全員が、若手のため「だけ」に生きているような。
その正体は與那覇先生がおっしゃったようなある種の行き詰まりがあって、無責任にキラキラした未来を信じたい願望の表れが「若手のために」という言葉なんだと思います。
與那覇:過去と未来となら、まだ定まっていない未来のほうがキラキラさせやすいわけですね。私が「デオドラント化」と呼ぶのも、実態の把握ではなく「キラキラ感」の演出が優先される風潮を指すものです。なにひとつ悩みのない理想の未来社会を「プレゼン」し、そこから逆算する形で、ソリューションを出せる範囲でのみ社会問題を「発見」する。そうした本末転倒が広まってはいないでしょうか。
そう気づいたのは、私自身がうつで働けなくなり、休職していた2015~2017年のことです。当時はメディアが発達障害を積極的に採り上げ、障害者支援をうたう団体やサービスも増加しました。最初は当事者として、共感しながら見ていたのですが、だんだん違和感が募っていったんですよ。
たとえば「障害者の声に寄り添うメディアです」と掲げつつ、登場する当事者がみんな素敵な服を着て、めちゃめちゃ満面の笑みで体験を語っていたりする。いやいや、本当に一番つらい人は「顔出し」で話せるわけないよね、と。キラキラした人でなければ「たとえ障害者でも同情されませんよ」といった、多様性とは正反対のメッセージになっているように感じました。
舟津:なるほど、それは興味深い視点ですね。
受容のためのデオドラント化
與那覇:最近驚いたのは、とある報道での「LGBTQ」の解説です。この呼称ができた当初は、Qは「Queer」(奇矯な)の略称で、つまり傍目にはオカシイ、ヘンタイとしか見えない人にだって「尊厳があるんだよ」とするメッセージが込められていました。
ところが日付が新しい記事だと、しれっとQは「Questioning」、自分がどの性別かをまだ決めていない人を指す、として意味を書き換えている例がある。セクシャルマイノリティの権利と言いつつ、求めているのは見た目がクリーンで、受け入れられやすい人限定だよという空気を感じます。「デオドラントされてない」少数派は、露骨に後回しにされる。
舟津:今ではLGBTQが社会的に大きく扱われるようになったとはいえ、遠巻きに見ている人の中には、どうしても嫌悪感をぬぐえない人もいるはずです。理由の1つは、性に深く関係しているからだと思います。性の問題っていうのは歴史的にみてもタブーの対象ですし、基本的には見たくないもの、汚いものなので、だからこそ相互理解から超えていかないといけないと思うんですけど、まさに隠蔽しているわけですね。
私もびっくりしたのが、最近はLGBTQに関する社員研修がけっこう行われるそうで、大企業でも社員を啓蒙している。そのときに講師の人が何を言うのかというと、「LGBTQの人が職場にいると生産性が上がるんですよ」と言うらしいんです。
與那覇:すごいな。もはやまったく意味がわからない(笑)。
舟津:LGBTQの話題が社会で取り沙汰されるにつれ、「LGBTQの存在はこんなに企業パフォーマンスに効く」といった研究が出てきます。でもそれは「役立つから受け入れようね」っていう、すごく上から目線の需要。結局のところ、「デオドラント化された無害なマイノリティしか日の目を見ない」という状況になっています。
與那覇:ひと握りの成功した有名人を採り上げて、「発達障害はギフテッド(恵まれた才能)」と煽る演出と同じですよね。そのせいで逆に、炎上した著名人が「発達障害のせいだから、私は悪くない。むしろ才能であり個性」と言い出し、かえって障害への偏見を強めてしまったりもしています。
舟津:なるほど。それで言うと、若者は圧倒的に同質的なものしか信じたくない傾向があると思います。同質でありたいし、同質なものしか受け入れられない。異質なものは、とてもクサくて嫌なものに見えてしまうのだと。
たとえば、学年が違う人と交流する際に「1つ違うと話が合わないから無理です」と言い出すんですよ。「今後誰と生きていくつもりなんだよ」と思わずツッコミたくなる。本来は大人たちが「そんなの、無理にでも話していれば、そのうちどうでもよくなる」と言うべきところ、「配慮しましょう」とか「イヤな気持ちにならないようにしましょう」と言ってしまっていて、そうすると異質性の受容なんてできるわけがない。年齢1つ違いで無理なら、それこそ外国人とかLGBTQ、障害者の方のことなんて絶対に理解できないでしょう。
與那覇:舟津さんも別の記事で言及された、「マイクロアグレッション(=微小な加害)」なる概念の問題ですよね。不快感を抱かせた時点で即アウトと見なす規範が暴走すれば、「年が1つでも違う人と話す経験は不快だ」といったクレームにも応えないといけなくなる。つまり差別を防ぐどころか、かえって不寛容な偏見をはびこらせてしまいます。
段階的な相互理解という「成熟」の喪失
舟津:そうですね。逆に異質性がわからなくなるというか、誤解を解く機会を失っているとも言えます。たとえば、LGBTQの方と初めて接した人が、なにか違和感を抱いてしまって、それを契機にマイクロアグレッションが起きるかもしれません。でも、それはマイクロなんだから、少しずつ修正していくことができる。
私の知人でゲイの研究者の方がいるんですが、その方が指導教員に「先生、昔はそういう議論をまったく理解していなかったですよねー」とさらっと言うんです。その先生も、「いやその通り。あなたのおかげで勉強できました」と応じていました。わかり合えないところから、互いに理解できていったわけです。こういう段階的な相互理解が重要で、それを最初から「わかっていないから不快だ、排除しよう」としたら、今のその二人の関係もない。
與那覇:社会のデオドラント化の最大の副作用は、「成熟」という価値観を失わせたことでしょう。どんな人にも自身の体験に基づく、なんらかの偏見や先入観がある。だから未知の人と接すると最初はトラブルになり、摩擦も生じるけど、その中で調整しあうことで「いまはお互い、いい関係だね」と思えるようになる。
そうしたプロセスが成熟と呼ばれてきたのに、今はあらかじめデオドラントを噴霧しまくれば「誰もが最初から完璧な対応を行い、一切摩擦が生じない環境」を作れるとする幻想が広がっていますよね。
舟津:「成熟という価値観の喪失」は大事なご指摘ですね。本の冒頭にも書いた話ですが、大学のアンケートで「この授業は知っていることばかりなので良かった」という感想が届くと聞いて、衝撃をうけました。逆に「知らないことばかりで嫌だった」もある。でも、それが今の社会の実情を表してもいて、知っていることだけ教えてもらえないとイヤ、という状況ができつつあるのだろうなと。
與那覇:メディア社会学の父とされるマクルーハンは、「メディアはメッセージである」という自身の学説をもじって、「メディアはマッサージでもある」とパロディにしたことがあります。メディアは「新しい知識を提供する場所」では実はなく、むしろ視聴者がすでに持っている価値観をなでなでして「気持ちよくさせる」機能を果たしていると。
月並みな感想を言うワイドショーのコメンテーターなどが、そうした「マッサージ役」として揶揄されがちでしたが、いまや大学も大差ない場所になりつつあるわけですね。
舟津:ただ、大学の授業にまでマッサージ機能を求めると、意外なものに出会うことの喜びも失われてしまいますね。未知の部分と既知の部分のバランスが重要であるはずが、既知への安心に傾きすぎている。
免疫が働かない、デオドラント化した社会
與那覇:最近深刻なのが「マッサージしてくれない」時点で、そうした表現は社会悪であり排除せよと唱える人の増加です。趣味が合わないものは見なければいいわけで、表現自体を規制することが正当化されるのは、違法行為や人権侵害をともなう場合に限られる。ところが今は「私が不快だから世の中から消せ」と、ナチュラルに言ってしまう例が目立ちますね。
舟津:今聞いていて思ったのが、おかゆ。胃腸にやさしいおかゆだけ食べ続けると、胃腸はむしろ弱くなるという説があります。そう考えると、今の社会ってみんなおかゆばかり食べている状態で、栄養のあるものを体が受けつけなくなっている感じがします。マッサージもまさに同じで、こってるからマッサージを受けるわけですが、ずっと受け続けたらどうなるんでしょう。
與那覇:言い得て妙ですね(笑)。また別の比喩で言うなら「免疫」でしょうか。ある程度、異物にさらされてきたからこそ、本人の中で対応し無害にする力が身につくわけで。
先日までのコロナ禍でも、多くの人が「感染自体をゼロにすべき」と思い込みがちでした。でも、それは現実的に無理なんですよ。ウイルスそれ自体を追い出すのではなく、その有毒さを下げることを目標にするしかなかった。
舟津:本当ですね。ワクチンのように弱毒化して受け入れるしかないものを、ゼロにしようとするのは無理があります。
ビジネスがフル活用する「消えた感」
與那覇:ダイバーシティなる標語がよく口にされますが、多様性のある世の中とは、完全にはデオドラントすることが「できない」社会ということです。変わり者も、意見が異なる人も、面倒くさいやつもいる。自分の観点では「悪いやつ」としか思えない相手もいる。
そうした不純でややこしい空間を、殴りあい抜きでみんなが一緒に居られるよう調停する人が、かつては「成熟した存在」だと評価されていました。ところが国家権力なり、プラットフォームによる規制なり、ネット炎上的なポピュリズムなりでデオドラントして異分子を抹消すれば、「成熟の有無なんてもう関係ないんだ」と錯覚する人が増えた。そうした思い込みが、いろんなことをおかしくしていますよね。
舟津:「デオドラント化」といっても、一瞬「消えた感」がするだけで、生き物は無臭になりませんよね。ゆえに、永遠に満足できずに臭いを消し続けることになります。そしてビジネスは、そうした不満を容赦なく利用してくる。
與那覇:まさしく、ゼロコロナが幻想だったのと同じですよね。「ゼロにしよう!」と煽ればビジネスになる業界があるだけで、実際にはゼロにならない。
舟津:本当におっしゃるとおりです。消毒液だけが無限に売れて消費されても、実際に毒がなくなるわけではありません。消毒液は消毒には有効ですけど、もちろん万能ではないし、社会を無毒にすることはできませんから。
(與那覇 潤 : 評論家)
(舟津 昌平 : 経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師)
06/26 11:00
東洋経済オンライン