Z世代が囚われる「第三者目線」という強迫観念

コミュニケーション

第三者を意識するあまり、かえって「第二者」をないがしろにする傾向が強まってはいないでしょうか(撮影:今井康一)
若者と接する場面では、「なぜそんな行動をとるのか」「なぜそんな受け取り方をするのか」など理解しがたいことが多々起きる。
企業組織を研究する経営学者の舟津昌平氏は、新刊『Z世代化する社会』の中で、それは単に若者が悪いとかおかしいという問題ではなく、もっと違う原因――たとえば入社までを過ごす学校や大学の在り方、就活や会社をはじめビジネスの在り方、そして社会の在り方が影響した結果であると主張する。
本記事では、前回に続き著者の舟津昌平氏と歴史評論家の與那覇潤氏が、Z世代を通して見えてくる社会の構造について論じ合う。

目の前の相手を大事にする「第二者目線」の喪失

與那覇:『Z世代化する社会』の大事な主張は、色んな人がZ世代の特徴をうんぬんするけど、彼らは「いまの社会のあり方」を素朴に体現しているだけなんだと。だからオトナの年長者たちだって、知らず知らずに「Z世代のようになりうる」というものです。

Z世代化する社会: お客様になっていく若者たち

たとえばZ世代の若者は、「第三者の目線」をすごく気にすると。しかしオトナが営む企業や政治でも、炎上やスキャンダルが起きるごとに「第三者委員会を作れ」「第三者の視点で検証を」と言われる。もちろんそれ自体はいいのですが、しかし第三者を意識するあまり、かえって「第二者」をないがしろにする傾向が強まってはいないでしょうか。

本書によれば、Z世代の「第三者志向」の典型がSNSです。つまり関係のない人の目にどう映るかを意識して、投稿の内容を決める。最近はインスタ映えを狙いすぎると「イタい」と叩かれるので、盛った写真には前もって「自己満(足)です」と添えておくとか(笑)。企業のコンプライアンスが過剰すぎないか、と言われることもありますが、いつしか個人の行動まで「コンプライアンス化」している。

與那覇:第三者の目線にばかり意識がいって、実際にリアルで会っている相手=「第二者」を大事にしないのは、どこか倒錯していると思うんですよ。歌手やアイドルなど、自分から遠い存在を積極的にケアする姿勢は「推し活」として、本書も採り上げるとおり近年評判です。でも、ふだん気に入って日常的に使う飲食店だって、「推し」と言えば推しでしょう? それなのにコロナが流行ると、単に行くのをやめるだけじゃなく、「私は外食しません!」とまでSNSにわざわざ書いたりして。

この店は自分の「推し」なんで、コロナで潰れちゃったら困るから、自粛せず食べに行ってるよ! とPRできた人は本当に少なかった。それはまさに社会全体が「第三者過剰、第二者過少」な方向で、Z世代化している表われだったと再認識しましたが、どうでしょう。

学生に広まる「となり見るシンドローム」

舟津昌平先生

舟津 昌平(ふなつ しょうへい)/経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師。1989年奈良県生まれ。2012年京都大学法学部卒業、14年京都大学大学院経営管理教育部修了、19年京都大学大学院経済学研究科博士後期課程修了、博士(経済学)。23年10月より現職。著書に『制度複雑性のマネジメント』(白桃書房、2023年度日本ベンチャー学会清成忠男賞書籍部門受賞)、『組織変革論』(中央経済社)などがある。

舟津:非常にクリティカルなご指摘だと思います。思い出したのが本にも書いたエピソードで、授業で学生を当てたとき、「どう思いますか」とか「はい」「いいえ」で答えられる質問をしても、かなりの割合の学生が、答える前にまず隣の友達を見る。今の学生はまず周りの人にどう見えるかを気にするんですよ。「となり見るシンドローム」ですね。

與那覇:なるほど。聞いてきた教師がどう感じるかより、他の学生の目にどう映るかだと。

舟津:つまり第二者が消えているんですよね。教室全体の中で自分が浮いてないか、恥ずかしくないかをまず考えようとする。だから答えるのが嫌で、隣の友達を見る。第二者である私からすれば、「あなたに聞いてるんですよ」と思っちゃいます。なんでそんなことが起きるんだろうと考えると、やっぱり第三者過剰で第二者過少になっているんですよ。

與那覇:抽象的な「周囲の評判」のほうが、具象性を持つ「目の前の相手の気持ち」より大事になってしまっているんですね。

舟津:そうなんですよ。

與那覇:深刻なのは、その逆をやることで稼ぐビジネスもあることです。課金してくれる「第二者」にさえウケればいいから、金を払わない「第三者」の評判なんか知らねぇよという態度で、過激な発言や反社会的な動画を流す。みんなが第三者過剰に囚われて、内心疲れているからこそ、「あそこまで第三者をシカトできるのスゲー!」として人気が出る。

人文書の世界では「ケア」という用語が、ここ数年間インフレになるくらいもてはやされています。それもまた、あまりにも第三者のほうばかり見る姿勢が前提になってしまったために、目の前の第二者に注意を向けるというあたりまえの行為をわざわざ「ケア」と命名して、大事ですよ、大切ですよ、と書き手が連呼しないといけないからですね。

第二者不在のコミュニケーション

與那覇潤先生

與那覇 潤(よなは じゅん)/評論家。1979年、神奈川県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学者時代の専門は日本近現代史。著書に『中国化する日本』『日本人はなぜ存在するか』『歴史なき時代に』『平成史』ほか多数。2020年、『心を病んだらいけないの?』(斎藤環氏との共著)で第19回小林秀雄賞受賞。

舟津:本当にそう思います。與那覇先生が著書の中で、コミュ力と共感力が反比例するという研究を紹介されていましたよね。そこで気づいたのは、Z世代化されたコミュ力、つまり現代社会のコミュ力は、第三者に見せつけるものだということです。たとえば、私たち2人がしゃべっているときに私がコミュ力の高さを見せつけようと思ったら、與那覇先生ではなくて外の人に向けて話すようになる。

與那覇:その手法の帝王がひろゆき氏で(苦笑)、実は彼は、自分で本にそう書いているんですよね。目の前の相手を納得させるのではなく、外から見ている観客が「こっちの勝ちだ」と思ってくれるように喋るのが、最強の論破術なんだと。

舟津:ただそれは「コミュ力」、コミュニケーションのための力の使い方としては明らかにおかしいんですよ。ところが、「そんなの意味がわかんないからやめようよ」と言わなくて、「なるほど、そっちのほうが得するな」とか「強いな」とか「勝てるな」とか思い始めると、コミュニケーションが成り立たない。目の前の人としゃべりたいのに、目の前の人が私に向かってしゃべってくれない。相互行為としての対話あってのコミュニケーションなのに、プレゼン合戦みたいになっちゃう。

與那覇:「かわりばんこ」にプレゼンするのは、そもそも会話なのかみたいな。

舟津:プレゼンって要は自己利益のために都合よく提示することですから、日常のコミュニケーションには必要ないはずなのに、日常のやり取りがプレゼン合戦になって、二者間で話すことすら第三者に向けて見せるものになっている。

與那覇:目の前の相手よりも第三者の評判を気にするのって、本来ならTVに出たりする「有名人」の行動様式ですよね。

日本では2011年の東日本大震災がSNSの普及を加速し、当時は「会いに行けるアイドル」と呼ばれたAKB48のブームがピークでした。彼女たち自身、半ば仕事としてSNSで発信したりもしていた。ところがその後に起きたことは、普通の人が「まるで芸能人であるかのように」振る舞わないといけない空間へと、SNSが変わっていったわけです。

私生活や秘めた本音を公開し、プライベートとパブリックをわざと曖昧にして魅力を生みだすのは、インターネット時代のタレントや政治家にとっては有力なツールになったけど、いつしか人気商売ではない人まで、そこから離れる自由がなくなっている。

舟津:インスタグラムとかは象徴的かもしれないですね。普通の学生が、どこに行ったとか、おいしいもの食べたとかを芸能人みたいに見せる。ただ冷静に考えると、誰に見せているのかわからない。私もSNSをやっているので一部は加担している部分もありますけど、不特定多数に向けて自分自身を切り売りする前提になった社会、なんですよね。芸能人はそれでお金を得ていますけど、一般人は何も得ていない。

與那覇:おっしゃるとおりで、そこが不均衡というか、きわめて不平等ですよね。

曖昧な基準で一発退場をくらう社会

舟津:第三者目線は強迫観念を喚起します。たぶん若者はそうした強迫観念をいつも持っていて、友達グループから少しでも外れたら「消される」と、本気で信じている部分がある。私は大学生たちと接していて、同質化傾向が強いなと感じるんですが、こうしたキャンセルカルチャーの強迫がその傾向を強めているんじゃないかと思います。

だから少しベタですけど、みんな自分なりの自己判断基準を失っていると感じます。映画監督の是枝裕和さんが、早稲田大学の入学式で「自分だけのお気に入りの城を作った方がいい」と祝辞を述べていましたが、本当にそのとおりで。

與那覇:いろんな人や場所とのつきあいを試して、いちばんしっくり来るところを「城」にすればいいのに、そうした試行錯誤を許さない社会になっていますよね。

舟津:まさに。

與那覇:思い出すのは平成の半ば、2000年代の前半に「ゼロトレランス」(寛容さをゼロに)が日本でも唱えられた時期のことです。総数で言えば青少年の犯罪は減っていたにもかかわらず、ショッキングな事件の報道が続いたことを契機に、「もっと厳罰化を。未成年でも死刑に!」といった空気が高まりました。

アメリカでは「校則違反は一発で退学。言い訳は一切聞かない」とするゼロトレランスの政策が、秩序の回復に成果を上げたとされて、「じゃあ日本でも」という声が出てきた。しかし欧米のゼロトレランスは、事前に守るべきルールを明示してサインさせた上で、「これを破ったらアウトだよ」と互いに約束するわけです。

ところが日本では、何がルールなのかが曖昧なままゼロトレランスを導入し、「ここまで炎上したからには、きっとそれだけ悪いんだろう」といった後出しじゃんけんで処分が決まってしまう。

與那覇:平成期にゼロトレランスを唱えたのは「自由や人権より、規律と秩序」を優先する保守派でしたが、令和に入ると彼らを批判していたはずのリベラル派まで、キャンセルカルチャーの形でゼロトレランスを振り回すようになった。一度でも失言したやつには、二度とチャンスをやるなという発想です。結果として「基準なしのゼロトレランスは危険だ」と、警鐘を鳴らす人がいなくなってしまった。

舟津:基準のなさとそれに対する結果の厳しさとのギャップは本当に怖いですね。若者もそれを恐れていると思います。何をしたらダメなのかがわからないからです。

與那覇:確かに友達間の「ハブり」は、原理的に基準がないですからね。この条件を満たすものが友達だ、のようにサインして友達を始めるわけではないですから。

舟津:就活も同じで、基準が曖昧です。ペーパー入試は基準が比較的に明確なのに対して、就活では何が条件で合格するのかわからない。ゲームのルールが明示されないままゲームに参加させられる感じです。就活ではまさに、明確な基準を示されないまま不採用、つまり一発退場させられる。

與那覇:私は就職氷河期世代(2002年3月卒業)で、当時は東大でも「卒業式には出るけど、就職は決まっていません」みたいな例はごく普通でした。大学入試はペーパーテストだから基準が明確だけど、就活での最後のセレクションは面接なので、いったいなにで「受かるか、落ちるか」ははっきりしないですよね。

景気が悪いために「まぁ東大なら採っとくか」ともならず、落とされてしまった結果、世の中では「本当に大事な競争」ほど基準がないという事実に初めて直面し、どーんと落ち込む。そうした子は周りに相当いたし、今の就活生もその点では心配です。

無気力を生み出すランダムさの氾濫

舟津:危険なのは基準が示せないことのみならず、示してないにもかかわらず事後的にはあたかも基準があったかのように振る舞われて、しかもすごく極端な結果を正当化してしまうことです。SNSでのキャンセルカルチャーもそうなっていますよね。

與那覇:SNSで炎上するのは失言ネタが多いですが、ワイドショーだと不倫とか。叩かれすぎのように思える人もいれば、お目こぼしされる人もいて、「その時の空気」以外に基準が存在しない。

いちばん問題だと思うのは、内心「やりすぎたかな」と思うクラスの炎上が起きたとするでしょう? そのとき「これはやりすぎだ」と止める勇気のない人たちが、たまたま「次に炎上」した相手には妙に寛容に振る舞って、「私はバランスが取れている」みたいな顔をする例が増えている。ここまで来ると基準が曖昧どころか、完全にランダムで、ガチャ的です。

舟津:ランダム性の高い、無差別な攻撃性がすごく高まっている。

與那覇:「ガチャ」の比喩がここまで定着したのも、あまりにも世の中の「ランダムさ」が如実になって隠しようがなくなり、みんなが無気力になったからですよね。本書でも描かれるように、「出題ガチャですべったから大学ガチャに外れて、ゼミガチャでもろくな目が出ない、これも元は親ガチャのせいだ」みたく言っているのが一番楽ですから。

舟津:ランダムさが氾濫していますね。我々が気にしている第三者が誰なのかもわからない。誰であるかはわからないけど、その人に見られてるってことが重要視されている。そして毎日誰かがランダムに攻撃対象になっている。

與那覇:昭和までは、日本に特有の「あるのかないのか曖昧な基準」の担い手が世間と呼ばれて、それをどう評価するかで保守とリベラルが分かれました。つまり、世間とは長い慣習の積み重ねに基づいて、一定の妥当性を持つ価値判断ができる場なのか。それとも遅れた偏見ばかりが飛び交う、単なる同調圧力の場なのか、というわけです。

しかしSNSばかりが全盛で、対面でのご近所づきあいが空洞化した今は、そうした世間自体があるのかないのかはっきりしない。一方で第三者から絶えず監視され、場合によっては村八分にされるぞという不安だけは残っています。

舟津:確かに。

第三者への建前と自分の本音を使い分ける

與那覇:コロナ自粛の唯一のポジティブな遺産は、よくも悪くもそれなりに「世間は残っていたぞ!」と示したことかなと思います。「ぶっちゃけ自粛せず、営業します」という飲食店は結構あり、それでやっていけたのは「いやいや。今回の国の要請、ウチらの世間の基準としては『ないわ』なんで」という世界が現にあったからなわけで。

だからコロナの最中に、自粛していないお店をどれだけ知っていたか・使ったかは、その人が悪い意味で「Z世代化していないか」を測る貴重な指標だと思うんですよ(笑)。完全にZ世代化して、第三者がすべてになっていた人は、まったく使わなかったんだろうけど。

教養としての文明論

舟津:若者に希望が持てる部分としては、やっぱり若者はしたたかでもあるんですよね。それこそ、見た目には純粋でキラキラした人たちであっても、完全に善良ではなくて、むしろすごく賢く周りを見て、かつ打算的でもあるので。

與那覇:そこも本書の読みどころでしたよね。Z世代は「エシカルで意識が高い!」といったPR本では、見えないリアルが描かれていて。

舟津:でもそっちのほうが頼もしいというか、それこそ「自粛言うてるけど、ちょっとぐらいは外出てええねん」っていう感覚を持てるかどうかってすごく大事な気もします。そういう意味では、有形無形の第三者からのプレッシャーに対して、本音と建前をちゃんと使い分けて、本人の中で使い分けのバランスを見つけてほしいと思いますね。それは古今東西存在する、社会を生きるためのテクニックですし。

(與那覇 潤 : 評論家)
(舟津 昌平 : 経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師)

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