もし、SNSが「ある/ない」時代に学生期を送ったら

SNS投稿をする女性

ソーシャルメディアがない学生期と、ソーシャルメディアから逃れられない学生期をそれぞれ想像してみてください(写真:metamorworks/PIXTA)
若者と接する場面では、「なぜそんな行動をとるのか」「なぜそんな受け取り方をするのか」など理解しがたいことが多々起きる。
企業組織を研究する経営学者の舟津昌平氏は、新刊『Z世代化する社会』の中で、それは単に若者が悪いとかおかしいという問題ではなく、もっと違う原因――たとえば入社までを過ごす学校や大学の在り方、就活や会社をはじめビジネスの在り方、そして社会の在り方が影響した結果であると主張する。
本記事では、広島修道大学商学部准教授の中園宏幸氏が、Z世代がはじめてSNSの存在が当たり前となった世代であるという観点から、『Z世代化する社会』のレビューをお届けする。

「いま」の学生がわれわれと異なる点

高校生の頃を、あるいは大学生の頃を、少し思い出してみてください。楽しかったこと、苦しかったこと、どうにもならなかったこと、それぞれあったと思います。そして次に考えてみてほしいのは、そのときどうしたのかについてです。

Z世代化する社会: お客様になっていく若者たち

その当時と、「いま」とでは何が異なるでしょうか。経済状況、国際関係、技術水準、物価などと変化していることがいくつか思い浮かぶはずです。ここで注目したいのは、コミュニケーションにかかわるものとして普及しきったインターネットです。『Z世代化する社会』にて指摘されていたところでいえば、多様なソーシャルメディアの台頭や、特徴的な主体として「インフルエンサー」が登場しています。これらは間違いなくインターネットの産物といえるでしょう。

Facebook、Instagram、TikTok、X、BeReal.などは、「いま」では欠かせないSNSを含めたソーシャルメディアです。「いま」でこそ当たり前に存在するサービス群ですが、わたしやあなたが高校生・大学生だったときにはほとんどが存在しなかったのだと思います。「つぶやく」ことはあれど、「ポスト」することはなかったのです。

ソーシャルメディアには、自分の世界を拡げるという側面があると同時に、世界が見えすぎてしまうという側面もあります。そのため、自分の学生期にソーシャルメディアがあってほしかったと思う方もいれば、そのようなものがなくて本当によかったと思う方もいらっしゃるでしょう。

前者ではたとえば、自分の好きな趣味について現実世界では話せる相手がいないけれども、ソーシャルメディアでは多くの同志と語り合えるということがあります。まさに現実世界では閉じていたものが、ソーシャルメディアのチカラによって開かれて新たなコミュニケーションを生み出すわけです。ひと昔前の「オタク」という存在はまさにそれでした。

その一方で、世界が見えすぎてしまうことによって、閉じていたからこそ保たれていたものが失われることもあるでしょう。この学校ではイチバン詳しいという自負があったけれども、ソーシャルメディアを介することによって、もっともっとすごい人を目の当たりにしてしまい自信を喪失するようなものです。

ソーシャルメディアの光と影の側面を簡単に示してみました。ほかにもソーシャルメディアを介して何ができるようになったのかを挙げていくと、それだけで一晩語り合えるほどの愛憎半ばするものがあるでしょう。

ローカルな振る舞いがグローバルに見つかってしまう

ここで大事なことは、「ソーシャルメディアが学生期にあったのかどうか」です。

学生というものは、多くの時間がありながら、基本的にはローカルに閉じられた存在です。資金的な制約や人間関係的な制約によって、基本的には学校や大学を中心としたローカルの世界がすべてです。しかし、ローカルの世界がすべてであったはずが、ローカルとソーシャルメディアとが接合されているのが「いま」なのです。

現実世界のローカル性というものは、思っているよりも無自覚なものです。そこで生まれ育ち、当たり前に過ごしてきたからです。現実世界でローカルに生きていると、グローバルに開かれているということを意識する機会は滅多にありません。

良い振る舞いや悪い振る舞いがあったとしても、それはローカルに流れる情報として完結します。現実世界では「開かれたネットワーク」であることを意識することはほとんどないのです。

ところが、ソーシャルメディアでは同じようにはいきません。現実世界と同じように立ち振る舞っているときに、それが良くも悪くも誰かに見つかってしまう。ソーシャルメディアは世界に開かれているからです。ローカルへのアクセスというものが、ほぼコストゼロで達成されてしまいます。

その結果として、誰かに見つかり「炎上」してしまう。ローカルでは許されていた仲間内のノリが、ソーシャルメディアを介して見つかってしまうのです。われわれはこのような事例が何度も繰り返されてきたことを知っているはずです。インターネットによって良くも悪くも世界が見えるようになってしまったのです。

ソーシャルメディアが「ある/ない」学生期

インフルエンサーについても同じです。世界に開かれて世界とつながってしまった。インフルエンサーのようなものは、インターネット以前からありました。たとえば、ファンクラブに入会して、毎月会報が郵送されてくるようなこともあったでしょう。このとき、いわゆるアンチには見つかりにくいローカルな世界が構築されています。閉じたコミュニティで楽しくやっていたのが、ソーシャルメディアを介してコミュニケーションの場が開かれてしまうことによって、誰かに見つかる可能性が高まりました。それは新たなファンが見つかることでもあり、思いもしないアンチに見つかることにもつながるわけです。

いずれにしても、インターネットによって、自分の世界が拡がり、同時に自分の世界に介入してくる誰かが現れる機会が驚くほど増してしまいました。閉じられていたコミュニティが、開かれたネットワークに組み込まれてしまったのです。このように、ローカルの世界だけでなく、ソーシャルメディアの世界でも暮らしていかなければならないのです。

それが、「いま」の学生の世界です。

通勤しながら読んでくれているあなた、お茶休憩中に読んでくれているあなた、ぐったりと退勤しながら読んでいるあなた、もしくは授業中に読んでいるあなた。

それぞれもう一度、ソーシャルメディアがない学生期を想像してみてください。

次に、ソーシャルメディアから逃れられない学生期を想像してみてください。

多様な意見や感情の吐露があるでしょう。それがあなたのZ世代論、いや「Z社会」論です。舟津先生の本を読んでいただければ同意できる側面とそうではない側面があるはずです。ぜひあなたなりのコメンタリーをつけてみてください。

社会の変化に気づくことが相互理解につながる

既にソーシャルメディアが存在することを前提としている世代、それがZ世代です。そしてソーシャルメディアを前提として再構築されたのがZ社会なのだと思います。われわれを取り巻く環境が変化したときに、少しずつでもそれに適応して生きていかねばなりません。少しずつ社会は変わっていくのです。少しずつ変わっているからこそ変化していることに気が付きにくいわけですが、ふと立ち止まって考えるきっかけを本書は与えてくれます。

学生期を思い出すと、確かにあの頃は不安を感じていて、迷いながら困りながらも試行錯誤してきたのだろうと思います。その結果があなたの「いま」です。同時に、Z世代のみなさまも、「いま」の社会のなかで試行錯誤しているのです。それを思えば、「Z世代の子たちは~」と他人事のように揶揄することはなくなるでしょう。

もちろんZ世代もそうです。次の世代は、自分の学生期とは異なる社会のなかで学生期を送ることになる。そのときに、社会の変化に気づくことができれば、少し優しくなれるかもしれない。

Z社会の次はそんな社会になるといいなと思います。

(中園 宏幸 : 広島修道大学商学部准教授)

ジャンルで探す