あわや事故も、大正・昭和天皇の鉄道「ご受難」史

昭和天皇 お召し列車

1986年10月11日、原宿駅(皇室専用ホーム)を出発される昭和天皇。国鉄時代では最後の「御召列車」となった(写真:時事)

ゴールデンウィークの最初の祝日は4月29日の「昭和の日」である。昭和天皇の誕生日に由来するこの日は、1948年の祝日法の制定後は「天皇誕生日」、それ以前は「天長節」と呼ばれ、祝われてきた。

昭和天皇は鉄道との関わりも深く、生後3カ月後に鉄道で日光に移動して以降、「87年8か月の生涯で、列車に乗車しなかったのは、最後の年昭和64年だけだった」(『昭和天皇御召列車全記録』原武史監修)という。

今回は若き日の昭和天皇および父君の大正天皇が、鉄道という交通手段を使ってどのような旅をされたのか、いくつかの興味深いエピソードを見ていくことにする。

大正天皇の熱海への旅程

明治の鉄道開業以来、天皇・皇后両陛下が鉄道で各地に移動される際には「御召(おめし)列車」が使われてきた。

さいたま市の鉄道博物館には、御召列車の牽引専用機として製造された「EF58形61号電気機関車」や、1876年に明治天皇が乗車するために製造された最初の御料車「1号御料車(初代)」をはじめ、歴代の6両の御料車が展示されている(御料車=天皇・皇后両陛下をはじめ、皇室の方々専用の特別車両。御召列車のほぼ中央に連結)。いずれも気品溢れる意匠が施された優雅な車両である。

お召し列車 EF5861

EF58形61号が牽引する御召列車。前から3両目の金色のラインが入った車両が御料車だ(写真: dengurikun/PIXTA)

もちろん、こうした専用車両だけでなく、一般の車両を貸切で御召列車にすることも多い(近年は新幹線での移動も多い)。また、明治時代、皇太子だった大正天皇の地方視察の際は、臨時列車ではなく「一般客も乗る通常の列車に御料車を連結する場合があった」(前掲書)という。

1号御料車

明治時代に製造された1号御料車(初代)=2008年撮影(撮影:風間仁一郎)

7号御料車

大正時代に製造された7号御料車=2008年撮影(撮影:風間仁一郎)

ご病弱だった大正天皇は、ほぼ毎年、冬になると避寒のため東京を離れられたが、『大正天皇実録』(宮内省図書寮編纂)には、皇太子になられる10カ月前の1889年1月13日に、東京を出立し、当時の熱海村加茂第一御料地を訪れた際の旅程が記録されており興味深い。以下は、『大正天皇実録』よりの引用である。

午前八時 御出門(御馬車)
  御小休 新橋停車場
午前八時三十五分 同所御発車(汽車)
同 十時五十五分 国府津御著
  御小休 同停車場
午前十一時五分 同所御立(鉄道馬車)
  御昼休 小田原駅片岡永左衛門
午後零時三十分 同所御立(人力車)
  御小休 江ノ浦村富士屋増太郎
  御小休 吉浜村橋本三平
午後四時二十五分 熱海村加茂第一御料地御安著
(筆者注:御「著」、御安「著」は原文ママ)

東京から熱海まで、丸一日がかりの行程だったことがわかる。新橋から国府津までは官営鉄道の汽車に乗り、国府津で、この前年の1888年10月に開業したばかりの小田原馬車鉄道(国府津―小田原―箱根湯本間 12.9km)に乗り換えられている。

小田原から熱海へ4時間

この馬車鉄道は、国府津以遠の東海道線が、現在の御殿場線ルート(国府津―御殿場―沼津間)で建設されることになったため、街の衰退を危惧した小田原・箱根の有力者らが発起人となって敷設したもので、1900年に電化され(小田原電気鉄道)、今日の箱根登山鉄道へと発展していく。

続けて旅程を見ていくと、小田原駅で「御昼休」をとられているが、この小田原「駅」とは鉄道駅のことではない。明治初期に従来の小田原宿などの「宿」を再構成して設置された行政区画の「駅」である。1889年4月以降に施行された町村制により小田原駅は廃され、小田原町が誕生する。

小田原駅から先は、途中、2度の「御小休」を挟みつつ、熱海まで人力車で4時間がかりの旅であった。「熱海風土記」によれば、当時、教養主任だった陸軍中将・曾我祐準(そがすけのり)が「小田原から人力車上に十歳の皇太子(注:原文ママ)を抱いてやってきた」とある。ご病弱の大正天皇にとっては、難儀な道のりだったに違いない。

小田原から熱海までの駕籠や人力車での行程は、多くの旅人にとって楽なものではなかった。後に「軽便鉄道王」と呼ばれた雨敬こと雨宮敬次郎も、苦しい思いをした一人だった。雨敬が結核を患い熱海へ療養に出かけた際、人力車に揺られたせいで吐血。このとき、少しでも移動が楽になるよう、小田原から熱海まで鉄道を敷くことを考えたという逸話がある。

雨敬翁終焉地

熱海梅園内に立つ「雨敬翁終焉地」の碑(筆者撮影)

この雨敬と、東海道線のルートから外れることで陸の孤島化することを危惧した熱海の有志の人々が結びつき、小田原―熱海間の鉄道敷設計画が浮上する。ところが、実際にできあがったのは、経費を抑えるため、レール上のトロッコのような客車を人が押す「人車鉄道」という代物だった。

大正天皇は「人車」に乗車したか?

この豆相人車鉄道(早川口―熱海間 約25km)の路線は、そのほとんどが海沿いの崖上の道(当時の県道)を行く、険しいコースだった(江の浦付近は山の中を行く)。当時はトンネル掘削技術も発達していなかったし、そもそも建設費を安く抑えるために、このような経路が選定されたのである。

豆相人車鉄道

車夫に押され連なって進む豆相人車鉄道の車両(写真:今井写真館所蔵)

アップダウンも厳しく、江の浦を頂点に、根府川―江の浦―真鶴間はかなり長い急坂を上り下りする。上り坂を押し上げるのが大変なのはもちろん、下り坂でも、貧弱なレール上で、車幅の割に背が高く、バランスの悪いこの乗り物をスピードが出た状態で操車するのは難しく、大事故が起きたこともあった。下記は、1906年8月29日付の横浜貿易新報(神奈川新聞の前身)記事である。

熱海鉄道会社(注:豆相人車鉄道から社名変更)の人車二台までが転覆して重軽傷者七名を出したる椿事につき(中略)、変事の場所即ち江の浦新畠北に差掛かりたりしが自分(筆者注:事故車を操車していた車夫)の二等車七号は歯止めが極めて緩るければ同所の如き急勾配は速力早まるは当然の事なれば強よく締めたるに突然後部が浮き立ちガクリ海辺に面して転覆したる次第なり(後略)

1906年8月29日付 横浜貿易新報

人車の転覆事故を伝える1906年8月29日付の横浜貿易新報記事(当時の紙面から引用)

このような大事故には至らないまでも、人車の脱線・転覆は、しばしば起きたという。地元の人から聞いた話では、かつて根府川の海岸線に植えられていた松林は、「下り坂で脱線した人車が海まで転げ落ちないよう、落下防止のために植えられた」という。

このように現代の基準で考えれば(当時の基準でも)、危険といわざるを得ない人車鉄道であったが、『静岡県 鉄道物語』(静岡新聞社編)という本に、早川に住む古老の思い出話(1897年頃)として大正天皇が人車に乗られたというエピソードが掲載されている。

わしが10歳ぐらいのころ、大正天皇が皇太子のころだろう、熱海に出かけられ人車に乗られた。早川の駐在や多くの巡査が出て大さわぎだった。先頭の客車に警察官が乗り、三台目の客車に皇太子が乗られた

しかし、脱線・転覆がしばしば起るような危険な乗り物に、皇太子が乗車するようなことがあったのだろうか。

そこで、前掲の『大正天皇実録』で記録を調べてみたところ、皇太子(大正天皇)は1889年から1892年までは毎年のように避寒のために熱海へ赴かれていたが、1893年7月に沼津、1894年1月に葉山に御用邸が建てられると(皇太子の静養を目的として建てられた)、以後は沼津・葉山が冬季の主な転地先となる(避暑先は日光、塩原、沼津、葉山など)。

人車鉄道が小田原―熱海間で全線開通した1896年の暮れからは沼津、翌1897年は葉山で冬を越されており、以後、人車が軽便鉄道(蒸気機関車)に変わる1907年までの間で、人車で熱海に向かわれたという記録は見つけられなかった(そもそも熱海に赴かれた記録がない)。古老の話が具体的なだけに、まったくの記憶違いとは考えづらく、謎である。

なお、1910年12月22日に幼少期の昭和天皇(裕仁親王)が熱海御用邸に赴く際には、軽便鉄道があるにもかかわらず、小田原から熱海まで人力車を利用している。この軽便鉄道については、夏目漱石が未完の大作『明暗』の中で「途中で汽缶(かま)へ穴が開いて動けなくなる汽車」と描写しているくらいだから、信頼度が低かったのであろう。

昭和天皇、あわや御受難

大正天皇が人車に乗られた記録は、残念ながら見つけられなかったが、昭和天皇(裕仁親王)が、前述の小田原馬車鉄道が電化された小田原電気鉄道(国府津―小田原―箱根湯本間)に乗車され、その際、事故寸前の危ない場面に遭遇したという記録がある。

小田原電気鉄道

酒匂橋を渡る小田原電気鉄道の電車(写真:小田原市立中央図書館所蔵)

「明治小田原町誌 下」(小田原市立図書館編)に掲載されている当時の小田原町助役の日記によれば、1904年7月8日、箱根の宮ノ下御用邸(現・富士屋ホテル別館「菊華荘」)へ避暑に向かわれる裕仁親王と雍仁親王(昭和天皇の弟。後の秩父宮殿下)、および供奉員が乗車した電車が、定刻より数分遅れて国府津駅を出発し、途中まで進んだ後、猛スピードで逆走したというのである(以下、筆者により現代仮名使い等に変換して引用)。

十二時に国府津を出発し、湯本村前田橋よりおよそ一町半(164m)の距離までに至りしに、同鉄道線路は屈曲の所には常に油を引き円滑ならしめしに、その油の自然に軌道に浸滲(しんさん)し、その為に僅かに車輪の後方に滑るや否や惰力をもって背進を始めたれば、早速に車の歯止をなしたれば車の運転は中止せしも、惰力は益々勢力を増加し非常の速力をもって逆進なしたれば、或いは脱線をせざるやと気遣いたるも如何ともなすことあたわず進退きわまりしに……。

現場にいた関係者は生きた心地がしなかったに違いない。

さらに悪いことに、ここに後続列車がやってくる。

小田原を発し来りし普通客車は後方より進行し来りたれば、これと尖突を来すは必然に、各々帽子を振り声を揚げ狂気のごとく種々の動作をもって退却をなさしめんとするも、距離は益々短縮し安き心はなかりしに、漸(ようや)く後車も気付き退却を始め、大窪村御塔を西に去る二丁(218m)ばかりの鉄道線の複線に至り、地勢は少し高くなりたるため惰力を滅し停車し、尖突の災害を免れたりしも、最も短距離は両車の間、ついに四尺(1.2m)程となりし時は尖突したりと思われたり(後略)

こうして間一髪、衝突事故を免れ、その後13時40分に電車の進行を再開し、14時に湯本に到着したとある。

当時は、我が国に鉄道が導入されてから30年、初の電気鉄道(京都市電)が営業運転を開始してから9年という、鉄道という乗り物がまだまだ未熟な時代であった。何事もなくてよかったが、これがもし事故になっていたならば、どうなっただろうか。

実際に脱線事故も

実は、裕仁親王ご乗車の車両が脱線したことがある。『昭和天皇実録』の1907年1月23日の項に、裕仁親王が沼津御用邸に滞在中、三嶋大社を参拝した帰路、駿豆電気鉄道(後の伊豆箱根鉄道軌道線・三島―沼津間。1963年廃止)に乗車された際、「黄瀬川を通過して間もなく御乗車の電車が脱線するも、程なく復旧し、午後四時御帰邸になる」と記されている。幸いにも人身事故に至らなかったこともあるだろうが、非常にあっさりと記述されている。

ところが、天皇の御召列車が脱線したとなると一大事であった。1911年11月10日の昼過ぎ、福岡県久留米市周辺で行われる陸軍大演習へ向かう明治天皇ご一行が、下関より御召艇で門司に到着された。ところが、門司駅から乗車される予定の列車が、駅構内での入換作業中に脱線。復旧までの間、明治天皇がおよそ1時間にわたって粗末な「鉄道桟橋元旅客待合所」(11月11日付東京朝日新聞)で待つこととなった。この事態を受け、翌晩、1人の門司駅員(構内主任)が自殺している。

1911年11月11日付東京朝日新聞

門司駅構内での御召列車脱線を伝える1911年11月11日付東京朝日新聞記事(当時の紙面から引用)

今もそうだろうが、当時の鉄道員たちが、いかに大きなプレッシャーと責任の下、御召列車を運行していたのかをうかがい知ることができる事件である。

(森川 天喜 : 旅行・鉄道ジャーナリスト)

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