「ハチロク」大正から令和まで活躍したSLの記憶

福井機関区 88623号機

福井機関区の転車台に載った8620形88623号機=1971年(撮影:南正時)

2024年3月、製造から102年を経過した蒸気機関車(SL)が引退した。JR九州の「SL人吉」を牽引していた58654号機だ。

この機関車の形式は8620形。1914年から1929年にかけて672両が製造された旅客列車用の機関車で、1970年代まで日本各地で列車を牽引して活躍し、その形式から「大正の名機ハチロク」と言われた。

SL時代の末期まで活躍し、動態復元された58654号機に至っては100年以上の歴史を誇った古参のSLハチロク。その足跡を追ってみよう。

越美北線のお召し列車、花輪線の3重連

8620形は旅客用として全国各地の線区で重宝されたが、戦後は貨物列車にも使われることが多かった。筆者は8620形の均整のとれたスタイルに魅せられ、故郷の越美北線で運用されていたこともあり多数の記録を残している。

まずはその越美北線のハチロクの記憶をたどってみよう。特筆されるのは、1968年10月に開催された福井国体の際、福井と越前大野の間で運転されたお召し列車の牽引に当たったことだ。この時の機関車は28651号機で、その後も同機は長く福井機関区に在籍して走り続け、引退後は同線の終着駅九頭竜湖駅近くに静態保存されている。

28651号機 ハチロク

お召し列車も牽引した福井機関区所属の28651号機。越美北線計石―牛ケ原間(撮影:南正時)

福井機関区のハチロクは国鉄長野工場で全般検査を終えた機関車が投入された。88623号機は8620形の原形を保ち、デフレクター(除煙板)なし、化粧煙突の美しい姿で28651号機と共に最後まで越美北線で走り続けた。

【画像】越美北線を現役で走っていたころの勇姿や、花輪線での3重連、SL人吉の「ハチロク」まで(50枚以上)。

筆者がハチロクを追って初めて訪れたのが花輪線である。同線では、安比高原を越える急勾配区間をハチロクの3重連が貨物列車を牽引して力闘していた。まだ若かった筆者はその迫力ある姿に圧倒されてシャッターチャンスを逃し失敗した苦い思い出がある。

花輪線 8620形三重連

花輪線の急勾配区間、龍ヶ森付近を走る8620形の3重連(撮影:南正時)

東北地方では、五能線で活躍していたハチロクがよく知られていた。筆者は1972年5月に初めて五能線を訪れ、鰺ケ沢近郊でハチロクの牽く貨客混合列車を撮影してカメラ雑誌の口絵を飾った。

五能線 8620形混合列車

五能線を走る8620形牽引の混合列車。この写真で初めてカメラ雑誌の口絵を飾った=1972年5月(撮影:南正時)

当時の五能線は観光客や「乗り鉄」の姿はほぼ皆無で、秘境然としたローカル線だったが、ここを一躍有名にしたのは「男はつらいよ 純情編」(第6作・1971年山田洋次監督)でのロケだった。SLファンでもある山田洋次監督が五能線に目を向けたのは当然のことだったかもしれない。

8620 五能線

五能線を走る8620形牽引の列車(撮影:南正時)

五能線でのハチロク遭難

筆者はこの五能線で壮絶な体験をしている。それは1972年12月2日の早朝のことだった。前日から日本海に発達した低気圧が接近して、深浦港近くの宿では潮騒が窓を打ち鳴らす音でまんじりともせずに夜明けを迎えた。

目が覚めたときは午前6時を回っていた。ハチロクが牽く5時55分発の始発1725列車に乗るはずだったが寝過ごしたのだ。次のディーゼル列車で行くことにして深浦駅に向かったところ駅が騒々しい。定時に出た1725列車が有人駅の追良瀬駅に到着していないという。

そして悲報が届いた。1725列車は広戸駅付近で波にさらわれて脱線転覆したというのだ。正確には大波で路盤が洗われて線路が宙に浮いたところへ列車が突っ込み、そのまま海中に没した、というのだ。

もし、この1725列車に乗っていたら、SLマニアの性で機関車のすぐ近くの最前列に陣取っていたであろう……と想像しただけで身体が震えた。1時間ほどしてから保線の車に同乗して現場に向かうと、機関車は横転して海中に没し、客車の最前部の半分以上が海の中で大波に洗われていた。機関士は行方不明だという。もし私が乗っていれば行方不明は2人ということになっただろう。

五能線 事故 1972年12月2日

大波で路盤が流失し脱線した五能線の1725列車。牽引機の8620形は海中で横転している=1972年12月2日(撮影:南正時)

少し落ち着いた頃に私は現場を撮影し、後で到着した仕事先の某大手新聞社の支局員にフィルムを手渡した。残念なことに機関士は後日、機関車の下から遺体で収容されたという。

北九州の炭鉱地帯を走ったハチロク

北九州の炭鉱地区では、石炭列車は9600形が牽いていたが、通勤通学列車はハチロクが客車を牽いていた。室木線と香月線(ともに福岡県・廃線)ではハチロクが2両の客車を牽き通勤通学列車に使われていた。

映画俳優の高倉健さんが亡くなった時、健さんが疎開先の室木線鞍手駅で終戦の「玉音放送」を聞いたと「私の八月十五日の会」の録音で述べている。健さんは当時も鞍手駅から折尾の高校へ通学したり勤労奉仕に出かけたりしていたというから、ハチロクが牽く室木線の旅客列車に乗っていただろうか?

室木線 8620形

戦前の面影をとどめていた室木線(撮影:南正時)

改めて当時の室木駅でのハチロクの旅客列車の写真を見ると、戦中に健さんが乗ったと思われる列車そのもののような気がして感慨を新たにした。

最後まで活躍したハチロクは、2024年3月に引退した「SL人吉」の58654号機だ。

この機関車は大正時代の1922年に製造され、1975年に引退して肥薩線矢岳駅前の人吉市SL展示館で静態保存されていたのを、JR九州が発足直後の1988年に動態復元した。それ以来30年以上、観光列車の牽引に活躍してきた。当初は豊肥本線・熊本―宮地間運行の快速「SLあそBOY」として営業運転を開始し、年間数日程度、熊本―人吉間の「SL人吉号」としても運行された。

SLあそBOY 登場時

「SLあそBOY」運行開始時の姿=1988年(撮影:南正時)

2005年3月の試運転中に故障が発生したが、SL修理工場として国鉄時代から定評のあった小倉工場が修復作業を行い、肥薩線の開業100周年に当たる2009年の4月からは、復活を果たした58654号機がリニューアルされた客車とともに熊本―人吉間で運行を開始し、愛称名は「SL人吉」と命名された。

SL人吉

2009年に運行を開始した「SL人吉」(撮影:南正時)

4つの時代を駆け抜けた

SL人吉は風光明媚な球磨川に沿って走り観光客の人気を集めたが、2020年7月の豪雨により肥薩線八代―吉松間が不通となったため全面運転休止となった。その後、各地のイベント列車などで運転は続いたが、JR九州は2020年10月に老朽化や技術者の確保、部品調達が難しくなっているという理由で2024年3月ごろまでに運行を終えると発表。SL人吉は2024年3月23日、熊本―博多間の特別運行を最後に引退した。今後は人吉市で静態保存される見込みだ。

SL人吉 第二球磨川橋梁

肥薩線の名所、第二球磨川橋梁を渡る「SL人吉」(撮影:南正時)

私事を述べて恐縮だが、SLは時として人に例えられ、私の人生に大きな影響を与えてくれた。ハチロクは現存する国鉄の本線用蒸機として最古の機関車であった。思えば大正、昭和、平成、令和の世を走り抜けてきたわけで、改めてハチロクに対して敬意を表さずにはいられない。

ハチロクの盟友でもあった貨物用蒸気機関車の9600形(キューロク)にもさまざまな記憶があるが、こちらは稿を改めて紹介したい。

(南 正時 : 鉄道写真家)

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