熊本「交通系ICカード廃止」はむしろ良かった? “大危機”から垣間見える「地方の選択肢」と、都心で広がる可能性とは

交通系ICカードの転換劇

路線バスのイメージ(画像:写真AC)

路線バスのイメージ(画像:写真AC)

 2024年5月、日本のキャッシュレス決済業界に大きな衝撃が走った。熊本県の交通事業者5社が、交通系ICカードでの決済取り扱いを中止すると発表した。そして、11月16日には、Suica(スイカ)をはじめとする全国交通系ICカードでの決済が廃止された。

 これは、各社が

「巨額のシステム更新費用」

を回避するための措置で、地方都市の交通事業者にとってこの費用は大きな負担となっている。5社は、代わりにクレジットカードのタッチ決済を導入することを決めた。

 この騒動を

「交通系ICカードの凋落の始まり」

とするメディアもあるが、果たして本当にそうなのだろうか。 実は、この“熊本ショック”と同じ頃、都心では交通系ICカードのデータを活用したまちづくりが始まっているのだ。

クレカタッチ決済、交通ICカードに逆風

熊本市(画像:写真AC)

熊本市(画像:写真AC)

 熊本5社とは、

・熊本バス
・九州産交バス
・産交バス
・熊本電気鉄道
・熊本都市バス

のことだ。前述のとおり、11月16日に全国の交通系ICカード、Suica(スイカ)をはじめとするICカードでの決済が廃止された(このシステムは2016年3月に導入された)。代わりに、2025年3月までにクレジットカードのタッチ決済などを導入する。3月までの間、決済方法は現金か「くまモン」ICカードのみとなる。

 全国規模で完全キャッシュレス決済バスの実証実験が始まるなか、熊本県の公共交通では交通系ICカードが今後使えなくなるという事態が発生した。これがいわゆる“熊本ショック”である。

 さらに、三井住友カードが実質的に主導する公共交通のタッチ決済が全国で一斉に導入されることとなった。2024年後半から、非接触型決済カードの話題は交通系ICカードからクレジットカードのタッチ決済に移り変わったのは確かだ。

 もし“熊本ショック”が全国に広がり、首都圏でも京王線などがタッチ決済を導入する交通事業者が増えるなら、交通系ICカードはその地位を失うのではないか。しかし、首都圏ではJR東日本がふたつのプロジェクトを実施することを決定している。

Suicaのビッグデータ活用

Beyond the Borderのイメージ(画像:JR東日本)

Beyond the Borderのイメージ(画像:JR東日本)

 まずはJR東日本の中長期ビジネス成長戦略「Beyond the Border」について解説する。この戦略は、今後10年間における環境変化を見据えたプロジェクトで、主に

・移動の目的(地)づくり
・DXによる個客接点の強化

を目指している。DXとはデジタルトランスフォーメーションで、デジタル技術を活用してビジネスや社会、組織、文化を革新するプロセスだ。具体的には、業務の効率化や新たな価値の創造、組織文化の変革などが含まれる。

 例えば、Suicaから得られるビッグデータを活用し、デジタルプラットホームから利用者の目的や行動に応じた情報が送られる仕組みを構築する。その結果、改札機でSuicaを認識した瞬間にアプリを通じてデジタルクーポンなどが受け取れるようになる。利用者にとっては、「これから知りたい情報や受け取りたいクーポンが事前に届く」形となる。これは、Suicaをはじめとした交通系ICカードが

「単なる決済手段ではない」

ことを示している。特に、交通系ICカードにはクレジットカードにはない「定期券機能」がある。これにより、例えば「西東京エリアから都心まで通勤・通学している人がどれだけいるか」といった情報がビッグデータとして蓄積される。この点だけでも、交通系ICカードはクレジットカードを圧倒する「情報デバイス」であるといえる。

 また、Suicaをクラウド化することで、蓄積されたビッグデータをさまざまな分野で活用していくのが、まさに「Beyond the Border」のコンセプトである。

「広域品川圏」のまちづくり

OIMACHI TRACKSの仕組み(画像:JR東日本)

OIMACHI TRACKSの仕組み(画像:JR東日本)

 もうひとつ、OIMACHI TRACKSについても説明しよう。

 JR東日本は、浜松町駅から大井町駅までのエリアを「広域品川圏」と定義し、この地域に

・都市生活共創拠点
・国際交流・共創拠点
・文化・観光共創拠点

を設けるプロジェクトを進めている。OIMACHI TRACKSはその一部で、大井町駅周辺を都市生活共創拠点として開発している。

 OIMACHI TRACKSの中心となる施設であるBUSINESS TOWERとHOTEL&RESIDENCE TOWERは、現在建設中だ。ここには、ホテル、オフィス、サービスレジデンス、医療機関などが入居する予定だ。さらに、災害時には約3000人の帰宅困難者を受け入れるためのスペースが用意され、この3000人が72時間過ごせるだけの備蓄も整えられる。

 そして、OIMACHI TRACKSの各施設の建設にも、Suicaのビッグデータが活用される予定だ。

地方都市のDX化に高い壁

OIMACHI TRACKSの完成イメージ(画像:JR東日本)

OIMACHI TRACKSの完成イメージ(画像:JR東日本)

 これらのプロジェクトを見てみると、

・交通系ICカードの豊かな可能性
・クレカタッチ決済の限界

が同時に浮かび上がる。現在、非接触型クレジットカードが目指しているのは、あくまで「決済と乗車」のみだ。一方、交通系ICカードはその枠を超えて、次世代の都市づくりを計画している。

 ただし、Suicaが示そうとしている形は、地方都市にとってはかなり負担が大きいのではないかという疑問も出てくる。“熊本ショック”が示すように、地方の交通事業者はシステム更新の費用に苦しんでいる。地方都市が最優先すべきは

「公共交通の維持」

であり、さらにその先にある

「交通系ICカードを活用した都市のDX化」

などは、現実的には考えられないだろう。また、外国人観光客を誘致したい地域にとっては、クレカタッチ決済は便利な選択肢だ。交通系ICカードは外国人には手に入りにくいため、普段使いのクレジットカードのほうが使いやすいと感じるのは自然なことだ。

 交通系ICカードと非接触型クレカには、それぞれに明確な長所と短所がある。

決済手段の共存

熊本市の繁華街(画像:写真AC)

熊本市の繁華街(画像:写真AC)

 だからこそ、このふたつは今後も共存できるのではないか。

 東京23区をはじめとする大都市では交通系ICカードを活用したまちづくりが進み、地方都市ではクレカタッチ決済による公共交通のキャッシュレス化が進んでいる。各自治体や交通事業者が、

「それぞれの状況に合わせた方法」

を選べる時代が到来したと考えるべきだろう。

 今ではキャッシュレス決済の選択肢はひとつではなく、地域や背景に応じた多様な選択肢が存在している。場合によっては、複数の手段を組み合わせて利用することも可能だ。

 このような「キャッシュレス決済導入の柔軟性」が、2024年も半ばを過ぎた今、ようやく確立されたといえる。

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