消えた巨星「トランス・ワールド航空」 96年墜落事故と自由化の波に呑まれた栄光の終焉を振り返る
名門航空の栄枯盛衰
米国は世界最大級の航空市場を持っている。現在でも、デルタ航空、アメリカン航空、ユナイテッド航空の3強が中心となり、サウスウエスト航空、アラスカ航空、ジェットブルーなどがしのぎを削っている。しかし、かつてはさらに多くの航空会社が存在し、競い合っていた歴史がある。
消え去った航空会社のなかで、米国の航空史を語る際に欠かせないのが
「トランス・ワールド航空(TWA)」
である。この航空会社は、大富豪であり飛行家でもあるハワード・ヒューズの情熱のもと、ターボプロップ機が主体の時代に航空業界をリードしていた。1970年代まで北米大陸や大西洋路線を中心に運行し、米国屈指の名門航空会社として君臨していた。
しかし、1978年に始まった航空自由化の影響で一気に衰退する。大事故にも見舞われ、最終的にはアメリカン航空に買収されて消滅する運命をたどった。ということで、今回はTWAの栄光と消滅への軌跡をたどってみよう。
米国横断路線の新たな時代
TWAは、1925年にウエスタン・エアー・エキスプレスとして設立された。5年後の1930年には、当時の大手航空会社と合併し、トランスコンチネンタル・アンド・ウエスタン・エアーという名前になった。そして、ニューヨーク~セントルイス~ロサンゼルス線の運行を開始した。
全米に展開し攻勢をかけていた矢先の1939年、TWAは当時の大富豪であり著名な飛行家でもあるハワード・ヒューズに買収された。彼は、世界最大の飛行艇であるスプルース・グースを製造したことで知られており、彼の情熱のもとで航空会社は発展していった。
1939年からはレシプロ旅客機であるロッキード・コンステレーションの開発プロジェクトにも参画。第2次世界大戦を乗り越え、1945年に就航した同機は、米国横断を無着陸で可能にするなど、当時としては異例の性能を誇った。
TWAは、1946年にニューヨーク~ロサンゼルス間の大陸横断路線にロッキード・コンステレーションを投入した。同年には、ニューヨーク~パリへの大西洋路線にも同じ機材を使い、国内線と大西洋路線を中心に大きなシェアを持つ航空会社として発展していった。
無着陸横断便の先駆者
1950年、TWAに改名される。以後、TWAは米国経済の成長を背景に、新しい機材と就航路線を増やしていった。1952年にはロッキード・スーパーコンストレーションを導入し、史上初めて米国大陸を無着陸で横断する定期便を実現する。
その後、ボーイング707やコンベア880、ロッキード・トライスター、ボーイング747などの新機材が次々と投入され、路線網は急速に拡大した。国内線はセントルイス、国際線はニューヨークを中心にして、米国各地や欧州、中東、アフリカにまで進出している。特に大西洋路線には強く、ロンドン、パリ、フランクフルトなどの主要都市への多数の路線を持つハブとして機能していた。
1969年にはパンアメリカン航空(パンナム)を抜いて、トップのシェアを獲得している。また、TWAは新機材の導入に意欲的であるだけでなく、1961年には史上初めて飛行機内で映画を上映するなど、サービス面でも革新的な航空会社だった。ハワード・ヒュルツは映画業界の有名人であり、その人脈を生かしてハリウッドスターを多く登場させ、映画にも頻繁に出演させることで強い宣伝効果を発揮した。
ヒューズは1966年に経営方針の違いからTWAを離れるが、翌1967年には世界屈指のホテルチェーン・ヒルトンを買収し、以後も積極的に経営規模を拡大していく。また、東アジアや東南アジアにも路線を持っていたが、厳しい規制や発着枠の関係で日本への路線は沖縄に限られていた。
そのため、日本ではパンナムやノースウエスト航空に比べて知名度が低くなってしまったが、米国航空業界の黄金時代を代表する航空会社のひとつとして強いブランド力を保っていた。
買収戦略の限界と苦境
しかし、そんなTWAの黄金時代も、1978年の航空自由化によって暗転する。もともと、TWAは欧州各地にパイロットの拠点を置くなど高コスト体質だったため、コストカットに苦しむことになる。国際線の名門として急速に衰退していったパンナムと比べて、1980年代には比較的堅調な業績を保っていた。
しかし、国内線の強化を目指した買収は、1986年にセントルイスを拠点とする地域航空会社・オザーク航空のみにとどまった。ノースウエスト航空がリパブリック航空を買収し、国内各地に路線網を持っていたのに対して、TWAは劇的に国内線を増やすことができなかった。
その結果、身売りを検討するようになり、一時はコンチネンタル航空など多くの航空会社を破産に追い込んだことで知られるフランク・ロレンツォへの売却を考えた。しかし、ロレンツォへの評価は当時から低く、労働組合が強く反対したため、結局この話は断念される。
そして1992年と1995年には、チャプター11(連邦破産法)を申請した。TWAの強みであった大西洋線も次々と路線が消滅し、同社はセントルイスとニューヨークを中心に運行する中堅航空会社へと変わっていった。
悲劇が引き起こした名声の失墜
TWAにとって、最悪の瞬間が訪れたのは1996年7月17日のことだ。
ニューヨークからパリへ向かっていたTWA800便のB747が電気回路のトラブルを起こし、ニューヨーク近海で空中分解してしまった。この事故により、乗員乗客230名が亡くなり、TWAの名声は失墜した。
その後、2001年4月には3度目の経営破綻を迎え、アメリカン航空が救済に名乗り出てTWAを吸収することになった。大西洋を中心に名をはせ、多くの新鋭旅客機の開発に関わってきた名門TWAは、2001年12月1日に運行を停止した。
アメリカン航空はTWAの主要ハブであったセントルイス空港をしばらくの間拠点として利用していたが、2009年にはハブ空港としての運用を終えた。
TWA遺産の象徴
規制緩和前の米国航空業界を代表するTWAは、消滅から20年以上が経過した今でも多くの遺産がある。特に有名なのが、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港にあるTWAホテルだ。
この建物はかつてTWAの大西洋線が多く発着した第5ターミナルで、近未来的なデザインから20世紀後半の米国を象徴する名建築として知られている。名作映画『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』にも登場し、米国文化を彩ったこの建物は、TWAの倒産後、新興航空会社ジェットブルーの拠点として利用された後、ホテルとして改装された。
ホテル内には、滑走路を望む屋上プールやスイートルームなど、空港ならではの旅情あふれる設備が整っており、TWAのロゴ入りグッズが多数販売されているショップも存在する。これにより、多くの乗客がTWAで旅立った歴史が色濃く残る場所となっている。
また、ハワード・ヒューズが開発に大きく関わったロッキード・コンストレーションもTWAの歴史的な遺産のひとつだ。TWAの躍進のきっかけとなったこの機体は、TWAホテルをはじめ、各地の博物館に保存されており、レシプロ機黄金時代の名残を今に伝えている。
破綻を招いた構造的問題
TWAはロッキード・コンストレーションをはじめとする多くの親衛機材の開発に関わり、機内で映画を初めて上映するなどサービス面でも大きな功績を残した。パンナムと同様に、米国航空業界を語る上で欠かせない会社のひとつだが、航空自由化後は劇的な変化が少なく、結果的に埋没していったと考えられる。
例えば、国内線を強化するとしても、買収した航空会社がそれほど強力ではなく、全米各地に路線網を広げるには西海岸を中心に物足りない点が目立った。
以前紹介したパンナムでも同様の問題が指摘されている。また、労働組合運動が盛んな欧州にも乗務員の拠点を持っていたため、大胆なコストカット策を講じることができなかったことも問題だった。
TWAの破綻原因は1996年の大事故だけではなく、こうした構造的な問題を解決できなかったことにもあるといえる。
●参考文献
・チャーリー古庄(2021)「写真で見る消滅エアライン600」イカロス出版 p116
・Chris Loh The Rise and Fall of TWA Simple Flying, May 29, 2020 (Retrieved by October 5th, 2024)
・Trans World Airlines -A Long Road to Failure Legends of America (Retrieved by October 5th, 2024)
・TWA hotel
・TWA Unions Hang Together Against Lorenzo. Los Angeles Times. 1985-06-26. Retrieved 2021-04-14.
11/05 05:41
Merkmal