世界のフラッグキャリア「パンアメリカン航空」はなぜ破綻したのか? 20世紀の航空文化を変えた絶大な影響力を振り返る

「世界のフラッグキャリア」と呼ばれた航空会社

クリッパー・スパークリング・ウエーブ(N741PA)は、ボーイング747-100型機で、ベルリン・テンペルホーフ空港への最終進入中、パンナムの最後の「ビルボード」スタイルの塗装を施して飛んでいた(画像:Ralf Manteufel)

クリッパー・スパークリング・ウエーブ(N741PA)は、ボーイング747-100型機で、ベルリン・テンペルホーフ空港への最終進入中、パンナムの最後の「ビルボード」スタイルの塗装を施して飛んでいた(画像:Ralf Manteufel)

 ビートルズの米国進出や「007」シリーズへの登場、大相撲の表彰、さらにはアメリカ横断ウルトラクイズの決勝戦など、20世紀後半に多くの国の文化に影響を与えた航空会社が「パンアメリカン航空」、パンナムだ。

 同社は長年にわたり、米国発の長距離国際線を運航し、

・ビジネスクラスの設立
・大型旅客機B747の開発

など、航空市場に大きな貢献をしてきた。その影響力は

「世界のフラッグキャリア」

と称されるほどだった。また、アジアの拠点を東京に置いていたため、日本人にもなじみ深いエアラインだった。

 しかし、航空自由化が進むと収益力が低下し、経営の合理化に失敗してしまう。結果として、1991(平成3)年にパンナムは消滅することとなった。

 今回は、そんな繁栄から消滅に至るまでの経緯を振り返ってみよう。

航空ビジネスの革新をリード

パンアメリカン航空のロゴ

パンアメリカン航空のロゴ

 パンナムは1927年、フロリダ州のキーウエストとキューバのハバナを結ぶ旅客便と航空郵便の運航から事業を始めた。その後、創業者のフォン・トリップの強力なリーダーシップのもと、路線を世界各地に広げていく。

 カリブ海や中南米に進出し、現地のエアラインの設立や資本参加にも関与した。また、大型飛行艇を利用してホノルル経由でグアム、マニラ、香港などのアジア路線にも就航した。

 この間、パンナムは政府との関係も深め、米国をはじめとする西欧諸国の植民地政策の道具として使われた。さらに、第2次世界大戦中は米軍の後方支援にも大きく関与していた。戦後は米国政府の保護を受け、国際線市場で唯一、世界各地に運航できるエアラインとして発展。ニューヨーク、マイアミ、サンフランシスコを拠点に、大西洋、太平洋、南米などを結ぶ航空会社として大いに繁栄した。ただし、その代わりに国内線の運航はほとんど行わなくなり、後にこれが問題となった。

 パンナムは、米国初の旅客ジェット機ボーイング707のローンチカスタマー(開発にも大きく関わる初めてその機材を導入する顧客)となり、レシプロ機からジェット機への移行に成功した。また、世界初のビジネスクラス「クリッパークラス」を導入し、現在のビジネスクラスの略称「Cクラス」のルーツともなった。さらに、1960年代にはコンピューターを用いた飛行機とホテルの予約システム「PANAMAC」を導入し、これは今の座席予約システムの先駆けとなった。

 この頃、「インターコンチネンタル」を設立し、ホテル運営にも乗り出すなど、航空路線の領域を超えて旅行業全体に影響を与える一大グループへと成長した。

「米国の強さ」の象徴

1964年5月、ハノーバー空港でドイツ国内線を運航するパンアメリカン航空のダグラス DC-6B(画像:RuthAS)

1964年5月、ハノーバー空港でドイツ国内線を運航するパンアメリカン航空のダグラス DC-6B(画像:RuthAS)

 パンナムは数多くの先進的な取り組みを通じて航空業界での存在感を示し、「世界各地に向かう米国の代表」としての役割を果たしていた。世界中にある支社や支店は、その国や地域のビジネスに精通しており、当時の米国企業が海外に進出する際には、

「大使館の次にパンナムの支社長に会うべき」

といわれていた(パンナム歴史財団のダグ・ミラー氏に対するCNNのインタビューより)。

 文化的にも、米国を代表する存在として知られ、「007」シリーズや「2001年宇宙の旅」などの多くのヒット映画に登場している。また、ビートルズが1964年に初めて米国のテレビに出演するためにニューヨークに降り立ったのも、パンナムのボーイング707だった。

 建築分野でも名を残しており、特に1963年にマンハッタンに完成した本社ビル「パンナムビル」は、当時世界一高い商用ビルであり、ニューヨークのアイコンのひとつとなった。このビルは、日本ではアメリカ横断ウルトラクイズの決勝の舞台としても知られている。

 ビジネスと文化の両面で大きな成果を上げたパンナムは、戦後の米国経済の強さを象徴する存在であり、航空業界の発展に大きく貢献した「世界のフラッグキャリア」と呼ぶにふさわしいエアラインだったといえる。

大量輸送時代の幕開けと格安航空券

1973年5月、ジョン・F・ケネディ空港に駐機するパンナムのボーイング747-100型機(「クリッパー・スター・オブ・ザ・ユニオン」)(画像:Arthur Tress)

1973年5月、ジョン・F・ケネディ空港に駐機するパンナムのボーイング747-100型機(「クリッパー・スター・オブ・ザ・ユニオン」)(画像:Arthur Tress)

 パンナムの名声を確かなものにしたのは、超大型旅客機ボーイング747(B747)の導入だった。当時、ボーイングは米軍の大型輸送機の選定競争に敗れ、開発中の航空機を民間でどう活用できるかを模索していた。しかし、B747は従来の2倍以上の座席数を持つあまりにも巨大な機体だったため、航空会社は関心を示さなかった。

 そこで、創業者フォン・トリップは、より多くの乗客を運べるだけでなく、貨物機としても利用できるB747を25機導入する決断を下した。そして1970年にニューヨーク~ロンドン線で初就航を果たす。この購入後、B747の導入により実現可能になった充実したサービス(パンナムは2回席にラウンジを設けていた)や大量の供給が、国内外の航空会社に危機感を抱かせ、次々とB747を導入させるきっかけとなった。

 当時、超音速旅客機に比べてスピードが遅くはやらないとされていたB747は、大ヒットとなった。また、B747の就航後に導入した各社は、急増した座席数を埋めるために

「安い運賃で販売して少しでも空席を減らす」

というビジネスモデルを採用するようになった。これにより、旅行代理店に大量の航空券が行き渡り、格安航空券が急速に普及した。こうして多くの人々が飛行機を利用するようになり、「空の大量輸送」時代が幕を開けた。飛行機が

「ミステリーのアリバイ工作に使われるほど珍しい存在」

だった時代から、誰もが乗れる乗り物へと変わったのは、航空業界のリーダーであるパンナムとフォン・トリップのB747導入の決断が大きな影響を与えたといえるだろう。

日本と関わりが深かったパンナム

1970年代の制服を着たパンナムの客室乗務員(画像:John Atherton)

1970年代の制服を着たパンナムの客室乗務員(画像:John Atherton)

 パンナムは、第2次大戦後に日本の民間旅客市場の立ち上げに貢献したことで、日本からアジア各地へ向かう路線に無制限の発着枠、いわゆる「以遠権」を与えられていた。この権益を生かし、日本からニューヨークやホノルル、ロサンゼルスといったアメリカの主要都市だけでなく、香港やバンコクなどアジア各地にも多くの路線を展開していた。

 1950年代から1960年代にかけて、日本は急激な経済成長を遂げ、パンナムにとっても最重要市場のひとつとなった。その具体的な取り組みは次のように現れている。

・東京とニューヨークを直行できるジャンボ・B747SPを開発し、1976年に就航した。
・東京(羽田空港、後に成田空港)にはアジア路線専用のB727が常駐した。
・当時運行されていた世界一周便も東京に寄港した。

 また、日本では独自の広報戦略を採用し、特にコンテンツ戦略に力を入れていた。世界各地の支店から海外事情を伝える「兼高かおる世界の旅」はTBSで長年放映され、「若大将」シリーズや「社長」シリーズなど人気映画でも海外に関する作品に頻繁にパンナムが協賛していた。これらのコンテンツ戦略は、

「海外旅行が身近ではなかった日本人」

に外国への憧れを抱かせるのに大きく貢献した。

 特に有名なのが、大相撲の幕内最高優勝力士に贈られる「パンアメリカン航空賞」である。この賞は1953(昭和28)年に登場し、途中から極東地域広報担当支配人のデビッド・ジョーンズ氏自らが贈呈するようになった。和服を着たジョーンズ氏が小柄な体でよろめきながら大きなトロフィーを持ち、片言の日本語で

「ヒョー・ショー・ジョー!」

と叫んで渡す姿は、昭和の大相撲の風物詩として親しまれていた。テレビ中継でも「おなじみの光景」として呼ばれ、ジョーンズ氏の表彰授与は20年以上も続き、パンナムの知名度向上に大きな成果を上げた。

 こうしたブランド戦略の結果、多くの日本人が利用するようになり、日本路線は同社にとって屈指のドル箱路線へと成長した。

高コスト体質の代償

1985年チューリッヒのクリッパースプリーセン(画像:Eduard Marmet)

1985年チューリッヒのクリッパースプリーセン(画像:Eduard Marmet)

 国際線ではリーダー的存在であったパンナムだが、「利益率」は国内線で強い

・デルタ航空
・ユナイテッド航空
・アメリカン航空

に比べてはるかに低く、上位10位にも入らなかった。国際線は単価が高いものの、景気による変動が大きく、売り上げは安定しなかった。また、B747の大量導入により固定費が高く、人件費も業界最高水準で、高コスト体質の企業だった。

 このような高コスト体質のまま、オイルショックによる燃料費の高騰や航空自由化による業績悪化に苦しむことになった。しかし、航空自由化によって以前は進出できなかった高収益の国内線市場に参入できるようになったため、状況を打開する切り札を手に入れたともいえる。

 パンナムは1980年に、マイアミを拠点とするナショナル航空を買収し、国内線への本格的な参入を目指した。しかし、ナショナル航空の買収は衰退の始まりとなった。この合併の際、パンナムは拡大を急ぐあまり、ナショナル航空の人件費を自社並みの高さに引き上げてしまった。

 また、B707やB747の開発に深く関わったパンナムは、ボーイング社中心の機材構成だったが、ナショナル航空はダグラス製の機材を主に使用していた。そのため、部品やパイロットの共有ができず、整備費がかさんでしまった。

 さらに、マイアミを拠点とするナショナル航空では全米各地への路線網拡大が難しく、特に米国中部に拠点を築くことができなかった。その結果、パンナムはナショナル航空の買収によって国内線ネットワークを劇的に拡大することができず、コストが増加して利益を圧迫するだけの結果になってしまった。

運行停止から2度の復活

LAXに駐機中のユナイテッド航空ボーイング747SP(画像:Torsten Maiwald)

LAXに駐機中のユナイテッド航空ボーイング747SP(画像:Torsten Maiwald)

 ナショナル航空の買収とイラン革命による第2次オイルショックが影響した1980年代には、経営危機が顕在化した。経営立て直しのため、パンナムは切り売りを始める。1981年には業績のよかったホテルチェーン・インターコンチネンタルを売却し、1983年には本社のパンナムビルを手放した。

 そして1985年には太平洋路線すべてを成田空港の以遠権、ハブ、機材とともにユナイテッド航空に売却した。この太平洋線は全路線網の4分の1を占める高収益路線であり、当時から売却に対する疑問の声があった。しかし、破産の危機が迫っていたため、売却は避けられない状況だった。

 その後、ホノルルからの日本路線復活計画もあったが、1988年にリビアの過激派によるパンナム機爆破事件が発生し、この計画は頓挫した。このテロ事件によってブランド価値は失墜し、乗客は激減した。そして1990年には大西洋線もユナイテッド航空やデルタ航空に売却された。湾岸戦争の影響を受けた1991年12月、ついに運行を停止し、「世界のフラッグキャリア」としての地位は歴史の中に消えていった。

 しかし、米国の名門のブランド力は高く、消滅後に2度復活している。1996年には、パンナムの商標を買い取った新会社がエアバスA300とボーイング737を使用して、マイアミからカリブ海諸国やロサンゼルスへの路線を運航開始した。

「長距離路線を格安で」

というコンセプトで再起を図っていた。しかし、この「第2期」パンナムは1998年にカーニバルエアラインズに買収され、わずか2年で歴史を閉じた。

 その年、鉄道会社ギルフォード・トランスポーテイション社が商標を買い取り、ボストン・メイネアウェイズという企業が免許を持ちながらもブランドとして「パンナム」を用いる形で、「第3期」の運行が開始された。ボーイング727を用いてニューハンプシャー州からボストンやシカゴなどに就航していたが、2008年に運行を停止してしまった。

今も残り続ける名門の遺産

パンナムクリッパー ギルフォード(N342PA)、ボーイング727-200(画像:Bubba73)

パンナムクリッパー ギルフォード(N342PA)、ボーイング727-200(画像:Bubba73)

 路線を次々と売却しながらも2度復活したパンナムは、消滅してしまったが、長年にわたり長距離国際線の運航に携わってきた同社は多くの財産を残している。

 まず、マイアミにある「パンナム・フライトアカデミー」はANAの傘下として多くのパイロットを養成する機関として今も健在だ。象徴であったニューヨーク・マンハッタンのパンナムビルは生命保険大手のメットライフに売却されたが、現在もメットライフビルとして多くの大手企業をテナントに受け入れている。

 また、1950年代から80年代にかけて多くの映像作品に登場したが、現在でも20世紀後半を舞台にした作品にはよくその名を見ることができる。同社自体も2011年には「PAN AM」というテレビドラマとなり、航空自由化前の繁栄を伝えている。

 パンナムは斬新な発想と全世界を舞台にした大規模な運営で航空業界をリードしていた。消滅から随分とときがたったが、同社が展開した機材やサービスの開発、旅情あふれるコンテンツは多くの人々に飛行機や航空機への憧れを抱かせ、その知名度を高めることに成功したブランド戦略は今も色あせていない。

 一方で、失敗は航空業界に多くの教訓を残した。高コスト体質からの脱却や、機種を増やして余計な費用をかける合併などが、衰退を引き起こした要因となり、その後も多くの航空会社の破綻を招いている。日本航空は組合問題やJASとの合併に苦しんだ典型例である。

 パンナムの歴史は成功も失敗も衝撃を与えた。その教訓をどのように学ぶかは、世界中の航空会社にとって永遠の課題だ。

●参考文献
・チャーリー古庄(2021)「写真で見る消滅エアライン600」(イカロス出版)
・Pan Am Flight Academy
・ Thu「パンナム:世界の空の旅を変えた国際航空のパイオニア」(2021年12月30日CNN.co.jp)
・ 日米航空協議,平成10年度運輸経済年次報告
・帆足孝治『パン・アメリカン航空物語―栄光の航空王国を支えた日本人たちの記録―』(イカロス出版)

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