ドイツ「エア・ベルリン」はなぜ破綻したのか? LCCとフルサービスの狭間で迎えた悲劇的結末、39年の歴史を振り返る
エア・ベルリンの記憶
ドイツの首都ベルリン――。人口300万人以上の同国最大の都市だが、航空路線はルフトハンザが拠点を置くフランクフルトやミュンヘンに比べて少ない。しかし、かつてはベルリンを拠点にした航空会社が存在していた。それがエア・ベルリンだ。
エア・ベルリンは格安航空会社(LCC)とフルサービスの中間を担う
「ハイブリッドエアライン」
の代表的な存在だったが、競争に敗れて消滅した。
では、なぜ欧州最大の経済大国の首都を拠点にし、差別化を図っていたはずの航空会社が消滅に至ったのか。本稿では、その経緯と理由を説明したい。
冷戦化の西ベルリンで誕生
エア・ベルリンは、冷戦の真っただなかである1978年に西ベルリンのテーゲル空港を拠点に誕生した。当初の就航先は、
・マジョルカ島のパルマ・デ・マヨルカ
・ベルギーの首都ブリュッセル
・米国のフロリダ州オーランド
だった。しかし、当時のルフトハンザなどの西ドイツの航空会社は、西ベルリンやその途中にある東ドイツの空域に乗り入れることができない規定があった。そのため、西ベルリンに乗り入れることができたのは、第2次世界大戦で西側の戦勝国である
・米国
・フランス
・英国
の3か国を拠点とする航空会社のみだった。エア・ベルリンは正式には「エア・ベルリンUSA」という名称で、西ベルリンを拠点にしているにもかかわらず、米国の会社として扱われるという独特な状況にあった。
統一後、LCCに事業転換
しかし、1989年にベルリンの壁が崩壊し、翌1990年には東西ドイツが統一されたことで、ベルリンに課せられていた特殊な航空会社の乗り入れルールも解消された。
これにより、ルフトハンザをはじめとする旧西ドイツの航空会社や多くの航空会社がベルリンに乗り入れるようになった。1991年には、東ベルリンを拠点にしていた東ドイツのフラッグキャリア・インターフルグが競争の激化を理由に解散したが、エア・ベルリンはこれをチャンスと捉えた。
エア・ベルリンは1991年に資本をドイツに移し、正真正銘のドイツの航空会社として再スタートを切った。その後、欧州で台頭したLCCに事業転換し、B737シリーズを次々と導入した。ベルリン・テーゲル空港を中心に欧州各地へのネットワークを広げていった。
エア・ベルリンは航空券の直接販売比率が高く、LCCのモデルに当てはまる一方で、
・機内食
・座席指定
など一部サービスを無料で提供するなど、ライアンエアーやイージージェットとは異なり、エア・ベルリンは
「LCCとフルサービスキャリアの中間」
ともいえる戦略を取っていた。このような特徴を持つ航空会社は後にハイブリッドエアラインと呼ばれるようになり、エア・ベルリンはその先駆けといえる存在だった。
00年代に欧州大手の規模に成長
そんなエア・ベルリンは2000年代以降、LTUやニキ、ドイチェBAなどの航空会社を次々と買収し、ベルリンとデュッセルドルフをハブ空港として利用することで、欧州のトップ10に入る旅客数を誇るまでに成長した。
当初はB737シリーズを中心とした小型機で欧州内を運行していたが、LTUの買収により、A330シリーズも導入されるようになり、
・北米
・中東
・アフリカ
・東南アジア(タイ)
などの中長距離路線も運行するようになった。
2006年には株式上場を果たし、資金を獲得してさらなる成長を目指していた。同時に、手狭になったベルリン・テーゲル空港の代替として、ベルリン・ブランデルブルク国際空港の建設も始まった。
エア・ベルリンは、2012年に開業予定のこの新空港を新たなハブとして利用し、ネットワークをさらに拡大する成長戦略を描いていた。
新空港の開業遅れと競争激化
しかし、2009年以降、ベルリン・ブランデルブルク国際空港で防火設備の大規模な不備が発覚し、開港時期が不透明な状況に陥った。この問題により、エア・ベルリンの成長戦略は大きく狂ってしまった。
さらに、2000年代以降の欧州航空市場では、エールフランス・KLMグループやルフトハンザグループ、IAGなどが国境を越えた経営統合を進め、巨大なネットワークを築いていた。これらの航空会社は、アライアンスやネットワークの力を生かしてサービス改善に努め、競争力を高めていた。
一方、LCC業界でもライアンエアーやイージージェット、ウィズエアといった企業が成長を続け、エア・ベルリンを追い込む形になった。エア・ベルリンもドイツ語圏の航空会社を次々と買収して巨大化していたが、効率化に成功したフルサービスキャリアや巨大化した他のLCCに押されて、客数が減少していった。
この影響もあって、2006年の株式上場では1株15~17ユーロほどの価格を予定していたが、実際には1株12ユーロにしかならず、株式市場からの資金調達もわずかな額にとどまった。リーマンショックが起こった2008年以降は赤字に転落し、2011年からは乗客も減少を続け、厳しい状況が続いた。
エティハドの資本参加
こうした状況のなかで、エア・ベルリンはアブダビを拠点とするエティハド航空から資本を注入された。2011年にはエティハド航空が29.1%の株を保有し、翌2012年には黒字転換を果たした。
この年にはJALも加盟する航空連合「ワンワールド」への加盟が実現し、ネットワークの拡大が期待されたため、一時的に復活したように見えた。
しかし、その試みは局面を打開することはできず、2013年には再び赤字に転落した。2016年には7億8190ユーロの赤字を計上し、翌年にはエティハド航空の支援も打ち切られた。これにより、エア・ベルリンは債務不履行に陥り、最終的には倒産してしまった。
機材や人員などの多くの資産はルフトハンザが引き継いだが、2017年10月27日には最終運航を迎え、39年の歴史に幕を閉じた。
同社がハブとして多くの国際線を運行する予定だったベルリン・ブランデンブルグ国際空港は、なおも延期が続き、最終的にはエア・ベルリン倒産から約3年後の2020年に開業した。
レジャー客狙いの誤算、忠誠心低下の影響
エア・ベルリンの経営は、ブランデンブルグ国際空港の開業の遅れなどの不運に悩まされていたのは間違いない。しかし、LCCとフルサービスキャリアの中間を目指す戦略自体は、米国のジェットブルーやカナダのウエストジェットといったモデルがあるため、問題があるわけではない。
エア・ベルリンの問題は、メインターゲットをレジャー客に設定していたことだった。レジャー客は移動コストを抑えたいというニーズが強く、無料サービスが多かったエア・ベルリンは、他のLCCよりも割高に感じられてしまった。
また、エア・ベルリンでは、従業員の
「会社への忠誠心が低い」
という意見も報じられていた。実際、2016年には経営再建の一環で解雇された従業員に同調する形で、約250人のパイロットが「病欠」を表明し、100便以上が欠航するという問題が発生した。
エア・ベルリンが同時期に経営危機に陥り倒産したのに対し、稲盛和夫氏のリーダーシップのもとで従業員の忠誠心が高かったJALは自主再生を果たしたことから、エア・ベルリンの従業員と経営陣の考え方がどれほど乖離(かいり)していたかがわかるだろう。
さらに、2000年代にLTUなど多くの航空会社を買収したことによるコストの増加も大きな問題だった。迅速な事業拡大を目指して焦りが見られたが、買収した航空会社はほとんどがドイツとその周辺国のもので、他のLCCや大手エアラインが欧州全域に拡大しているなかで、コストに見合った買収効果は得られなかったといえる。
顧客(Customer)、従業員(Company)、競合(Competitor)の動向に合わせた事業拡大策が重要だ。企業経営において社内外の戦略を見誤ると、業界の大手クラスの規模になっても倒産するリスクがある。エア・ベルリンは、そのような教訓を私たちに伝えている。
09/28 17:31
Merkmal