インドのビール王が築いた「キングフィッシャー航空」はなぜ破綻したのか? 設立6年でシェア20%獲得も、まさかの「給料未払い」に陥った理由とは?
ビール王の野望と失敗
「キングフィッシャー」というインドのビールをご存じだろうか。
日本ではあまり知られていないかもしれないが、インドでは「ビール」といえば必ず名前が挙がる有名なブランドだ。このキングフィッシャーを国民に広く知らしめることに成功したのがビジェイ・マリヤ氏だ。
彼はかつてF1チーム・フォースインディアのブランドで知られると同時に、航空会社のオーナーでもあった。キングフィッシャーを冠した航空会社は、一時は高品質なサービスや拡大戦略で注目を集めたが、急速に失速してしまった。就航から
「わずか7年」
で、従業員の給与が未払いになるほどの深刻な状況に陥り、最終的には運行停止と倒産を迎えることになった。
ここでは、波乱に満ちたキングフィッシャー航空の経緯と、その破産に至った背景について述べていきたい。
キングフィッシャーの華麗な歴史
キングフィッシャーを製造するユナイテッド・ブルワリー社は、1915年に五つの小さな蒸留所が合併して誕生した。老舗企業ではあるが、キングフィッシャーブランド自体は1978年に始まったため、実はそれほど古い歴史を持っているわけではない。このブランドを設立したのが前述のビジェイ・マリヤ氏だ。
彼は1960年代から1980年代にかけて、インド国内で多くの蒸留所や食品加工会社を所有していたビッタル・マリヤ氏の息子であり、サラブレッドといえる。しかし、彼はそこで安住することはなく、刺激的なブランドを作りたいという野望を常に抱いていた。既存のブランドでは強い印象を与えられないと考えた彼は、カワセミ(Kingfisher)のラベルを描いたキングフィッシャーブランドを立ち上げた。
インドでは酒業の広告や宣伝が禁止されていたため、キングフィッシャーはビキニ姿の女性が映る「キングフィッシャー水着カレンダー」を使うなど、酒そのものではなく楽しさやクールさを演出するイメージ戦略を採用。これにより、知名度を一気に高め、瞬く間にインドのビール市場でシェア1位を獲得した。
ファッション、メディア、スポーツと結びついて成功したマリヤ氏は、「楽しい時の王(King of Good Times)」や「インドのリチャード・ブランソン」と呼ばれるようになった。彼は世界各地に40以上の邸宅、250台のクラシックカー、特注の航空機やボートなどを所有し、その豪華な生活はインド国民の憧れの的だった。
なかでも日本で有名なのが、2008(平成20)年から2018年にF1に参入していた「フォース・インディア」F1チームだ。このチームは優勝こそなかったものの、実力者が在籍し、多くの上位実績を残したため、多くのモータースポーツファンに強い印象を与えた。
5つ星エアラインの栄光と挫折
2003年、マリヤ氏は長年の夢であった航空業界への参入を決意し、キングフィッシャー航空を設立した。2年後の2005年には、4機のA320を使って商業運行を開始した。この運行開始は、息子の18歳の誕生日プレゼントだったとも報じられている。
さらに3年後の2008年、キングフィッシャー航空はA330を用いてロンドン線を開設した。当時、インドの国際線参入には「運行開始から5年経過し、20機以上の飛行機が必要」という規則があったが、キングフィッシャー航空は経営不振に悩む格安航空会社(LCC)エア・デカン(2003年運行開始)を買収することでこの規制をクリアした。
同社は、最新の映画を放映する機内エンターテインメント、質の高い機内食、高レベルのホスピタリティなどの優れたサービスを提供し、他の航空会社と差別化を図った。このアプローチは、英国のヴァージン・アトランティック航空と似た戦略であり、「インドのリチャード・ブランソン」と称されるマリヤ氏らしい発想といえる。実際、キングフィッシャー航空は英国の調査会社スカイトラックスから、インドで唯一の5つ星エアラインの認定を受けるほど、サービスの評価が高かった。
また、傘下にはLCCのキングフィッシャー・レッドも置き、さまざまな顧客層のニーズに応える準備が整っていた。高品質なサービスは乗客の評判を呼び、キングフィッシャー航空は急成長した。2010年末には、インド国内やロンドン、香港、バンコク、シンガポールに就航し、約1200万人の輸送実績、64機の航空機、1日あたり260便を誇るようになった。2011年4月には、インド航空市場で第1位となる20%のシェアを獲得した。
さらに拡大にも熱心で、インドの航空会社として初めて最新の長距離機材であるA350や、総2階建て機のA380を発注した。インド国内や近隣諸国だけでなく、アフリカ、アジア、欧州、北米、オセアニアの各都市への就航計画も発表されていた。2012年には、JALが加盟する航空連合・ワンワールドへの加盟も発表された。
このように、マリヤ氏が仕掛けた高水準のサービスと壮大な拡大戦略により、キングフィッシャー航空はインドから世界中にネットワークを広げる航空会社へと飛躍するはずだった。
高コスト戦略が招いた航空会社の苦境
キングフィッシャー航空は、運行初年度から赤字が続いていた。
航空会社は初期投資が大きいため、設立から1、2年の赤字は仕方がない面もあるが、同社は3年目の2007年に経営不振のLCCであるエアデカンを買収したことで、さらに業績が悪化してしまった。エアデカンの主力機材は短距離用のATRシリーズで、キングフィッシャーが提供していた高水準のサービスには向かず、シナジー効果が薄かったといえる。
ATRシリーズは子会社のLCC、キングフィッシャー・レッドが運行していたが、もともと赤字だったところに整備コストのかかる機材が増えたことで、財務的な負担は大きくなった。また、高水準のサービスを売りにしていたキングフィッシャーがLCCのエアデカンと合併したことで、ブランドイメージが低下し、結果的に会社全体の価値が落ちてしまった。
さらに、キングフィッシャー航空のサービスは一部の富裕層には評価されていたものの、インドの多くの旅客は正確さや安さを求めており、彼らには魅力的に映らなかった。
また、同業他社に比べて従業員の賃金が高く、メンテナンスコストも大きかったため、運営コストがかさむ状況にあった。これに加えて、当時のルピー安による燃料費の高騰も重なり、経営は一層厳しくなっていった。
免許剥奪で終焉を迎えた7年間の闘い
2009年から2011年にかけて、キングフィッシャー航空は市場シェアで1位だったにもかかわらず、3年連続で100億ルピーもの損失を出していた。2010年以降、エアバスからの新機材導入が延期され、国際線の廃止など本格的なリストラに踏み切った。2011年には増資を繰り返して債務を削減し、経営危機を乗り切ろうとしたが、状況は好転しなかった。
2012年には累積損失が700億ルピーに達し、4月には市場シェアが過去最低の13%まで落ち込んだ。経営危機はさらに深刻化し、従業員への給料未払いが発生。2011年10月には一部の従業員がストライキを行い、会社側が従業員を締め出すことで交渉が長期化し、全路線が運休する事態に陥った。
2012年2月には、保有する64機のうち22機しか運航できない状態になり、リース料の支払いも滞り、リース会社にも大きな損失を与えてしまった。マリヤ氏は運行継続のため政府に支援を求めたが、結局かなわず、同年12月20日にインドの航空当局から免許を剥奪され、キングフィッシャー航空はわずか7年で幕を閉じた。
これにより、インドの航空会社として初めて予定されていたワンワールドへの加盟も実現しなかった。さらに、破綻後もリース機材の返却は行われず、重要なパーツが外されたため、飛行できない状態になっていることが判明。途上国や新興国への機材貸し出しにおける大きな教訓を残すケースとなった。
F1チーム売却とビール王国の残像
キングフィッシャー航空が破綻した後も、マリヤ氏はユナイテッド・ブルワリー社やフォース・インディアF1チームの経営を続けていた。しかし、航空会社の従業員や機材の悲惨な状況から、彼の名声は失墜してしまった。
2017年にはロンドンで詐欺罪にて逮捕され、翌年にはフォース・インディアF1チームも売却されている。現在、そのチームはレーシング・ポイントF1として活動している。
ユナイテッド・ブルワリー社もフランスのディアジオ社の傘下に入ったが、キングフィッシャー・ビール自体は2020年時点でもインドのビール市場で34%のシェアを持ち、トップブランドとしての地位を保っている。
インド航空の税負担、最大30%の衝撃
キングフィッシャー航空の経営破綻は、過度な投資によって財務状況が悪化するという、これまでにも見られたパターンだった。しかし、カリスマ経営者として知られていたマリヤ氏が率いていたため、インド国内では大きな社会問題に発展した。
批判は同社の経営陣だけでなく、インド政府の航空行政にも向けられた。実際、2010年代前半のインドの航空業界に対する規制は非常に厳しく、「規制大国」とやゆされる日本よりも厳しい内容を含んでいた。例えば、次のとおりだ。
・航空会社は国営のインド石油から手数料を払って燃料を購入する必要があり、インドルピーが下落してコストが上がっても他の供給元を使うことはできない。
・インドの航空会社が国際線を運航するには、国内線を開始してから5年以上の実績が必要で、さらに20機以上の機材を保有しなければならない。
・インドの航空会社には外資の出資が一切禁止されている。
特に国際線参入にかかる規制は、キングフィッシャー航空が経営悪化してエアデカンを買収する要因のひとつとなった。同社が2005年に就航してからまだ5年経過していなかったため、国際線を運航するためには、運行歴のある会社を買収せざるを得なかったのだ。エアデカンは2003年に創業したため、ちょうど5年を迎えていた。この規制に対しては、
「外国からはインドへの航空便が比較的多いのに、自社はなぜ利益率の高い国際線に参入できず、相次いで新規参入する利幅の薄い国内線しか運行できないのか」
という批判が相次いだ。
また、インド政府や地方政府が航空会社に課した税負担も非常に重かった。当時、地方政府は燃料価格に対して独自の税を設定する権限を持ち、その税率は最大30%に達していた。これは世界最高水準で、ニューデリーでのジェット燃料価格は1Lあたり77セントと、ニューヨーク(52セント)やシドニー(62セント)を上回っていた。
さらに、空港使用料も高く、2016年にはニューデリーのインディラ・ガンディー国際空港でのエアバスA330からの収益が世界で2番目に高く、ヒースロー空港に次ぐものだった。かつて「世界一高い」といわれた成田空港よりも高いことからも、その高さがわかる。
これらの税負担の高さは、多くの航空会社の経営を圧迫した。こうした規制や負担は、当時国営だったエア・インディアの経営を守るためだったとされているが、皮肉にもそのエア・インディアも赤字に苦しんでいた。
2010年代前半、インドの航空業界はキングフィッシャー航空を含め、多くの会社が経営難に陥り、世界有数の成長市場であるはずのインドで航空業界が苦境に立たされていた。その象徴的な出来事が、キングフィッシャー航空の破綻だったといえる。
インド航空業界への教訓
インドの成功者が経営していたキングフィッシャー航空は、成長の過程で無理な投資を行い、従業員に給料を支払わないままリース機を飛ばせない状態にするなど、経営陣であるマリヤ氏をはじめとする責任は重い。新興航空会社にありがちな経営の失敗パターンだ。
また、キングフィッシャー航空の戦略は、快適さばかりを追求した結果、インドのマスマーケットが求める安さと正確性には応えられなかった。同社の戦略を日本の感覚で例えると、東海道新幹線「のぞみ」を全列車・全席グリーン車以上で運行するようなもので、顧客ニーズに合わないものを追求したため、運営コストが増加する一方だった。
さらに、国内での競争が激しく安定しにくい状況にもかかわらず、インド政府は航空会社に対して厳しい規制や公租公課の仕組みを放置していた。キングフィッシャー航空の経営破綻は大きなインパクトをもたらし、これを受けてインド政府は規制改革を実施した。国営会社からしか購入できなかった燃料の購入規制は撤廃され、国際線参入の条件や外資の参入も一部緩和された。
しかし、その後もインドの航空業界は政府の厳しすぎる規制や国内市場の激しさに苦しんでいる。高い潜在成長性があるにもかかわらず、多くの会社が困難な状況に陥っている。代表的な事例については後の記事で触れたい。
10/17 11:51
Merkmal