深谷駅になぜ急行が停車したのか? 国鉄への圧力が生んだ“我田引鉄”の実態、憎めない昭和の利権政治家「荒舩清十郎」をご存じか

石破首相が語る国鉄赤字の理由

深谷駅(画像:写真AC)

深谷駅(画像:写真AC)

「我田引鉄」という言葉がある。これは四字熟語で、自己中心的な行動や利益を優先する

「我田引水」

をもじったもので、政治家が集票を目的に鉄道を誘致したり、新しい駅を設置したりする行為をやゆする表現だ。この言葉が登場したのは意外に古く、最古の用例は1893(明治26)年2月16日の『東京朝日新聞』の社説に見られる。ここでは、選挙区の支持を得るために鉄道計画を進める行為を我田引鉄と表現している。

 2024年10月に就任した石破茂首相は、

「乗り鉄兼撮り鉄」

として知られ、鉄道に対する言及が多い人物だ。彼はかつて我田引鉄という言葉を使い、国鉄の分割民営化の原因になった赤字の累積について批判的に触れたことがある。

「国鉄が赤字になったのは、政治家が悪かったのだろうという思いはありました。荒舩清十郎という埼玉選出の国会議員がいて、1966年に彼が運輸大臣の時、自分の選挙区があった深谷駅に強引に急行を止めさせ、世論の批判を浴びて辞任するという事件があった。政治家が国鉄を食い物にしたとはいわないけれど、我田引鉄の面があった。自分の選挙区に鉄道を引くことによって、採算を無視しても票を取ろうと考え、赤字が増えていったという側面は否めません」(『AERA』2017年4月10日号)

 石破首相が我田引鉄の代表例として言及している深谷駅への急行停車事件は、政治家による地元への露骨な利益誘導の実態が明らかになった出来事だ。この事件は、関係者自身が利益誘導であったことを認めた点で非常に珍しい事例である。今回は、この事件の顛末について解説していく。

選挙区利益誘導の舞台裏

荒舩清十郎が生を受けた秩父市の高篠地区(画像:秩父市)

荒舩清十郎が生を受けた秩父市の高篠地区(画像:秩父市)

 この事件の中心人物は、運輸大臣の荒舩清十郎(あらふね せいじゅうろう)だ。彼は1907(明治40)年に埼玉県秩父郡高篠村(現秩父市)で生まれ、地元の荒川治水問題がきっかけで政治家を志すようになった。

 村会議員を皮切りに、県議に進出し、1946(昭和21)年の衆議院選挙では日本自由党公認で初当選した。その後、彼は公職追放の憂き目に遭うが、1952年に追放が解除されると、政界に復帰。埼玉3区を地盤にして、連続12回の当選を果たした。

 荒舩の政治姿勢は地元に密着しており、選挙区の初盆には線香を届け、婦人会には茶菓子代を提供するなど、地元の人々への支援を欠かさなかった。さらに、老人会には手ぬぐいを配り、支援者をヘルスセンターに招待する慰安旅行も行っていた。そのため、地元では

「何を頼んでもやってくれる」
「どんな陳情にも耳を傾けてくれる」

と信頼を得ていた。こうした地元密着の姿勢が、我田引鉄事件の伏線となっていく(荒舩の姓は、新聞記事などでは「荒船」と表記されることがある。しかし、正しくは「荒舩」である。引用以外の本文では、「荒舩」で統一する)。

 1966年8月1日、第一次佐藤栄作内閣が内閣改造を行い、荒舩は運輸大臣に指名された。これは彼にとって7回目の当選で初めての入閣となった。

 就任後すぐに、荒舩は地元のための露骨な利益誘導を始めた。その内容は、10月1日の国鉄ダイヤ改正で高崎線・深谷駅に一日上下2本の急行を停車させることだった。9月3日に国鉄が新しいダイヤを発表すると、メディアはこの利益誘導を猛烈に報じ始めた。

 9月4日の朝刊では、

「荒船さん急行止める 就任とたんに実現 選挙区へ“大臣のひと声”」(朝日新聞)
「高崎線に政治ダイヤ 荒船運輸相ツルのひと声選挙区に急行止める」(読売新聞)

という見出しで報じている。朝日新聞によると、荒舩は国鉄に圧力をかけたとされている。

「(注:国鉄は)大臣から、深谷停車のほか選挙区内の新駅設置など三つほどの「注文」を受けた、という。大部分は技術的にも営業上も早急な実現は無理なものだった。しかし「みんなケるわけにもいかない」(国鉄幹部の言葉)ということで、比較的やりやすい深谷停車だけは希望に応じることになり、国鉄は急いで改正ダイヤを手直ししたらしい」

 この記事には「“どうして悪いんだ!”憤然と腕組む荒船さん」という見出しがあり、和服姿で腕を組んだ荒舩の写真も掲載されている。記者が政治的圧力ではないかと問いかけると、荒舩は

「国鉄に頼んだだけ」

と述べ、工業団地ができた深谷市には急行が停車する必要があると語った。また、読売新聞では彼が記者に「一つくらいオレのいうことを聞いてくれてもいいじゃないか」と語ったことも報じられている。

圧力で変わる鉄道の運命

明治初期の深谷駅周辺の迅速測図(画像:国土地理院)

明治初期の深谷駅周辺の迅速測図(画像:国土地理院)

 工場団地が整備され、人口が増えているとはいえ、当時の深谷市の人口は約5万4000人だった(2024年10月現在は14万917人)。近くには、1日に48本の急行が停車する熊谷駅と、15本の急行が停車する本庄駅があったため、急行が深谷駅に停車する必要性は全く考えられていなかった。そのため、運輸大臣の圧力で国鉄がダイヤ改正を行ったことは、疑惑の域を超えて誰の目にも明らかだった。さらに、関係者はその事実を隠すことなく認めていた。

 地元の人々も同様の反応を示していた。読売新聞の記事では、深谷市の駒富嘉之助役が

「市長が若いころから、荒船さんと知り合いだから大いに奮闘してくれたのだろうと感謝しています」

とコメントし、大臣の圧力によって急行停車が実現したことを喜んでいる。

 当時の報道を見ると、荒舩は独特のキャラクターと発言で注目されており、大臣に就任した際には与党内から「何かしでかすに違いない」と見られていた。そのため、記者の直撃に対して謝ることもなく「一つくらいオレの言うことを聞いてくれてもいいじゃないか」と発言したことは、さらなる物議を醸す結果となった。鉄道史家の小牟田哲彦氏は著書『鉄道と国家 「我田引鉄」の近現代史』(講談社、2004年)で、

「荒舩清十郎という人物が、新聞記者にとっていわば“いじりやすい”キャラクターだったのだろうと察せられる」

と指摘している。

 急行を止めるといっても、当時膨大な数の急行が運行していたなかで、1日あたり上下2本だけの話だ。考え方によっては、ほんのわずかな利益誘導にもかかわらず、荒舩のキャラクター性があいまって大きなニュースになってしまったとも考えられる。

 さらに火に油を注いだのは、国鉄総裁の石田礼助だった。9月4日、香川県で記者団の質問に答えた石田は、悪びれることなく、荒舩からの要請で急行を停車させたことを認めた。当時の新聞記事によると、彼の発言は次の通りだ。

「運輸省から今村常務理事を通じて選挙地盤の高崎線深谷駅に急行をとめてくれとの話があったが、大した問題ではないので“よいだろう”といっておいた。彼も政治家なのだから――」(『朝日新聞』1966年9月5日付朝刊)

 この発言は、全く悪いとは思っていないと受け取られるものであり(圧力とも感じていない)、また時期も悪かった。8月1日に内閣改造を終えたばかりの佐藤内閣は、非常に危うい立場にあった。

深刻化する問題

防衛庁長官着任時の上林山栄吉。1966年8月撮影(画像:防衛省)

防衛庁長官着任時の上林山栄吉。1966年8月撮影(画像:防衛省)

 8月5日、田中彰治衆議院議員が職権を利用して政財界の癒着を追求する姿勢を見せていたが、裏では関係者を恐喝し、金品をせしめていたことが発覚し、逮捕された。続いて9月2日、上林山栄吉防衛庁長官が地元の鹿児島に帰郷する際、自衛隊機を使用し、陸上自衛隊の音楽隊を使って自分のパレードを行った。また、友人や後援者を自衛隊機に同乗させていたことも明らかになり、公私混同として激しい批判を浴びた。

 こうした事件が相次いだことで、荒舩の問題も内閣を揺るがす大きな問題として捉えられるようになった。佐藤首相からの指示を受けた荒舩は、9月5日に謝罪の記者会見を開かざるを得なくなった。読売新聞の1966(昭和41)年9月6日付の記事には、「持ち前の歯切れのよい怪気炎は、ついに出ずじまい」と書かれ、荒舩が反省の意を示していたことが伺えるが、記事に記された発言内容からは謝罪の姿勢が感じられなかった。

「行の深谷駅停車は、大臣になる前にも、国鉄に陳情していたもんだ」
「第一、こんどのダイヤ改正で全国で三十四駅も急行がとまるようになったじゃないか」

と主張した。さらに、

「きのうから、熱が出てコレラにかかったみたいだ」
「あんなことが、新聞に出て、政治家は、切腹寸前だよ」

と放言していた。

 ここで明確に謝罪しなかったためか、9月12日の参議院運輸委員会では、荒舩が野党から厳しい追及を受けることになった。さらに、国鉄の石田総裁が火に油を注ぐような発言をした。議事録によると、荒舩からの急行停車を巡る圧力について、石田は次のように答弁した。

「大臣が私に対して、直接じゃない、これは今村常務を通して申したのでありますが、一つくらいはいいじゃないかと、こういうことを私は聞いておる。これは何か新聞社がちょっと筆を走らしたせいじゃないかと思いますが、私はそういうことは知らぬ。いずれにしても、私としては、こういうことで大臣から希望があったがどうしましょうかという、いままでいろいろ御希望があったのだが、それを拒絶した手前、一つくらいはよかろうということで、これは私は心底からいえば武士の情けというかね。これははなはだどうも国鉄の犠牲においてそういうことをやったということは私の不徳のいたすところだと思いまするが、とにかく何となくそういうことになったという、こういう次第でありまして」(第52回国会 参議院 運輸委員会 閉会後第1号 昭和41年9月12日)

 石田が「一つくらいはよかろう」と、全く悪びれずに発言したことで、問題はさらに深刻化した。荒舩が騒動を収束させられなかったため、彼に関する疑惑が次々と明るみに出た。

地元支持と辞任のはざま

佐藤栄作は1964年11月9日に内閣総理大臣に就任した(画像:首相官邸)

佐藤栄作は1964年11月9日に内閣総理大臣に就任した(画像:首相官邸)

 当時報じられた疑惑は次の通りである。

・大阪拘置所の土地交換に関わる恐喝疑惑について、同年8月に逮捕された田中彰治衆議院議員とともに大阪で関係者と面談していたこと。
・運輸大臣就任後、国鉄工事関係者など各業界と懇談会を開催し、その度に自身の後援会関係者が顔を出して後援会への入会勧誘を行っていたこと。
・後援会の会員と、特に名前を伏せるとされた女性が経営する上野駅構内の食堂「あきやま」が繁盛しているとして、店舗面積の拡張を国鉄に要求したこと。
・同年9月にソウルで開かれた日韓経済閣僚懇談会に出席する際、民間業者2人を随行員として同行させたこと。

 これだけの疑惑が積み重なると、深刻な政治問題に発展する。さらに、前述の佐藤内閣に関わる一連のスキャンダルも影響し、自民党への批判が高まり、「黒い霧事件」と呼ばれるようになった。この後、12月27日に佐藤内閣は衆議院を解散し、これが「黒い霧解散」と名付けられることになる。

 こうした騒動のなかで、10月11日、荒舩は運輸大臣の座を追われた。このとき、彼は正座して頭を垂れていたが、放言は止まらなかった。辞任の理由を次のように語っている。

「悪いことがあったとは思わない。ただ、今は世論政治だから、世論の上で佐藤内閣にマイナスになると、党員として申訳ないので辞める」(『朝日新聞』1966年10月12日付朝刊)

 この言葉から、荒舩は自分に悪意はないと考えていたことがわかる。翌1967(昭和42年1月の衆議院選挙では、

「代議士が地元のために働いてどこが悪い。深谷駅に急行を止めて何が悪い」

と演説し、支援者から喝采を浴びている。

急行停車も少ない利用者

1963年頃の深谷駅周辺の航空写真(画像:国土地理院)

1963年頃の深谷駅周辺の航空写真(画像:国土地理院)

 こうして辞任はしたものの、10月1日にダイヤ改正は予定通り実施された。深谷駅では念願の急行停車が実現したが、行事はなしで自粛ムードのスタートとなった。

 ところが、この停車にもかかわらず、利用者は全く増えなかった。読売新聞1966年10月31日付朝刊では、

「荒船急行止めてはみたが 半分は乗客ゼロ」

という見出しが付けられ、惨めな状況が報じられている。利用が伸びなかった理由は次の通りだ。

「朝8時59分発の上り「第一信州」に乗ると同10時17分に上野駅につくので、商用の人には、その前後の普通列車を利用するより便利。それでも急行で1時間18分、普通列車より14分早く着くだけ」

 このわずかな時間差は下りでも同様だった。その上、当時の急行料金は二等が100円、一等が220円だったため、利用者は限られてしまう。真偽は不明だが、市役所がサクラを乗車させているといううわさも流れるほどだった。

 実際には複数の疑惑が重なった結果、荒舩は急行停車問題で運輸大臣の座を失った男として歴史に名を刻むことになった。その後、1970(昭和45)年には衆議院副議長に就任したものの、後援会の旅行中に発生した舌禍(ぜっか。言葉によって引き起こされるトラブル)が原因で、1972年に再び辞任を余儀なくされた。

急行消滅後の深谷駅の今

深谷駅(画像:写真AC)

深谷駅(画像:写真AC)

 現代の視点から見ると、荒舩はむちゃな人物に思えるが、地元では一定の人気があった。彼が大臣に就任した際にはパレードが開催され、国道17号線の深谷市区間は

「荒船通り」

と名付けられ、熊谷駅などでは垂れ幕が飾られるほどだった。辞任時には、選挙区の住民のなかで

「これくらいで辞任するべきではない」

という意見が多数を占めていた。地元や支持者に対して利益誘導を図った点では、彼は有能な政治家だったといえる。そんな荒舩がこの世を去ったのは、1980(昭和55)年11月のことだった。

 現在、深谷駅には急行はなくなったが、特急や特快、快速が停車するようになっている。1996(平成8)年に新築された駅舎は東京駅を模しており、荒舩の業績を示すものはもはや存在しない。

 ちなみに、1970年に第12回日本レコード大賞新人賞を受賞した野村真樹の『一度だけなら』は、荒舩の「一つくらいオレのいうことを聞いてくれてもいいじゃないか」という発言にインスピレーションを受けて、作詞された楽曲である。

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