ブラジルのフラッグキャリア「ヴァリグ航空」はなぜ破綻したのか? かつては日本~ブラジルを24時間で運航、その栄光と悲劇を振り返る

伯フラッグキャリアの悲劇

2004年、フランクフルト空港へのショートファイナルに向かうヴァリグ・ボーイング767-300ER型機(画像:Konstantin von Wedelstaedt)

2004年、フランクフルト空港へのショートファイナルに向かうヴァリグ・ボーイング767-300ER型機(画像:Konstantin von Wedelstaedt)

 かつて、成田空港や名古屋空港からはロサンゼルス経由で、地球の反対側にある南米ブラジルのサンパウロやリオデジャネイロへの路線が運航されていた。

 所要時間はなんと24時間にも及び、当時この路線は世界屈指の長距離路線だった。

 この路線を運行していたのはヴァリグ・ブラジル航空で、同社はブラジルのフラッグキャリア(国を代表する航空会社)であり、南米を代表する大手航空会社だった。しかし、2000年代以降、日本路線を含む多くの路線を次々と運休し、2010年には消滅してしまった。

 なぜヴァリグ・ブラジル航空とその日本路線はなくなってしまったのだろうか。この記事でその理由を解説する。

ブラジルの空を制した老舗

旧航空会社ヴァリグの最後のロゴ(ブラジル(画像:ベクトルデータ)

旧航空会社ヴァリグの最後のロゴ(ブラジル(画像:ベクトルデータ)

 ヴァリグ・ブラジル航空は1927年に創業した、ブラジル最古の航空会社であり、世界でも屈指の老舗である。第2次世界大戦後、ブラジルの経済が成長するにともない、同社のネットワークも拡大した。国内線だけでなく、南米各地、北米、欧州にも路線を広げていった。

 1961年には、同国最大のライバルであったREAL航空が経営難に陥ったことを受けて、その航空会社を買収した。この買収により、ヴァリグ・ブラジル航空はブラジルのフラッグキャリアとしての地位を確立し、リオデジャネイロとサンパウロを拠点に、世界各地への路線展開を行った。

 1997年10月にはスターアライアンス(同年5月設立の世界初の航空会社連合)にも加盟し、同アライアンスにとって初めての途中加盟会社となった。これはANA(1999年10月加盟)よりも早い加盟だった。ヴァリグ・ブラジル航空は、

・B747
・B767
・MD-11

など、時代ごとに最新の大型機材をそろえ、1990年代まで航空業界のブラジルを代表する存在であった。

 実際、同社の機材は歴代のブラジル大統領やサッカー代表チームの輸送にも利用された。また、1994年に事故で亡くなったF1ドライバー、アイルトン・セナの遺体の搬送にもヴァリグ・ブラジル航空の機材が使用された。

高搭乗率を誇ったブラジル路線

リオデジャネイロに展示されたダグラスDC-3(画像:Christian Volpati)

リオデジャネイロに展示されたダグラスDC-3(画像:Christian Volpati)

 ヴァリグ・ブラジル航空のネットワークは、ブラジル国内や南米諸国だけでなく、欧州、北米、さらには地球の裏側にある日本まで広がっていた。日本への運航は成田空港が開港する10年前の1968(昭和43)年に始まり、当時は羽田空港からロサンゼルスとリマを経由してリオデジャネイロやサンパウロへ向かう路線をボーイング707で運航していた。その後、

・マクドネル・ダグラスDC-10
・ボーイング747
・マクドネル・ダグラスMD-11

に機材を変更し、リオデジャネイロからサンパウロ・ロサンゼルスを経由して成田空港に週4便、名古屋空港に週3便の運航を行っていた。地球の裏側を結ぶこの路線は非常に長い所要時間を要し、成田・名古屋からサンパウロ・リオデジャネイロまでは丸1日かかった。ブラジル発日本行きの便は日付変更線を超えるため、到着は出発から2日後になることもあった。

 成田とリオデジャネイロの直線距離は1万8533kmに達し、2024年現在でもこの距離を定期便かつ直行で結ぶことができる航空機は存在しない。以下は2024年の長距離路線の代表的な例だ。

・中国国際航空 北京発マドリード経由サンパウロ行き:1万7578km
・カンタス航空 シドニー発シンガポール経由ロンドン(ヒースロー)行き:1万7016km
・シンガポール航空 シンガポール発ニューヨーク(JFK)行き:1万5349km

 これらの現代の長距離路線と比べても、ブラジル~日本の路線がいかに長距離であったかがわかる。ブラジルには日本からの移民も多く、企業の進出もあったため、両国間の輸送需要は堅調だった。ヴァリグ・ブラジル航空の日本路線は、高い搭乗率を誇り、ブラジルからの出稼ぎ労働者に支持されていた。

 当時、成田空港には滑走路が1本しかなかったため、東京への毎日の就航は実現できなかった。しかし、成田に就航しない日は、近隣に多くのブラジル人労働者が働いていた名古屋に就航していた。そのため、結果的に日本全体には毎日運航されていた。これにより、ヴァリグ・ブラジル航空は日本の航空ファンにもおなじみの航空会社となっていた。

テロ後の航空路線激変

2977人が死亡した9月11日の同時多発テロ。人類史上最悪のテロ攻撃だった(画像:rds323)

2977人が死亡した9月11日の同時多発テロ。人類史上最悪のテロ攻撃だった(画像:rds323)

 2001年に発生した同時多発テロは、ヴァリグ・ブラジル航空の日本路線に深刻な影響を与えた。その理由は、経由地が米国のロサンゼルスであったためだ。

 米国を経由する際には、一度入国してから出国する必要があるが、テロ事件以前は便名が通しで、機内で待機するだけで入国手続きは不要だった。この特例はヴァリグ・ブラジル航空のブラジル線にも適用されていた。

 しかし、同時多発テロ以降、この特例は撤廃され、必ず入国手続きをしなければならなくなった。そのため、主な顧客であるブラジル人の出稼ぎ労働者は、米国のビザを取得する必要が出てきたことで、米国経由での帰国や出国を避けるようになった。結果として、日本からの直行便の需要は大幅に減少した。

 ヴァリグ・ブラジル航空はスイス経由での運航を検討したが、認可を得ることができなかった。そのため、最終的には2004年に日本から撤退することになった。

80年の歴史に終止符

2004年、シャルル・ド・ゴール空港へのショートファイナルに向かうヴァリグMD-11(画像:Alan Lebeda)

2004年、シャルル・ド・ゴール空港へのショートファイナルに向かうヴァリグMD-11(画像:Alan Lebeda)

 ヴァリグ・ブラジル航空の経営は厳しい状況に陥った。もともと長い間国営だった同社は、ヨハネスブルク経由の香港線などの不採算路線や組合問題に苦しみ、腐敗体質がまん延していた。

 1990年代以降、ブラジルでは規制緩和が進み、TAMブラジル航空やゴル航空といった新興航空会社が次々と登場した。これにより、ヴァリグ・ブラジル航空の収益源だった国内幹線や近隣諸国間のシェアが奪われていった。

 国際線においても、米国路線は長年の競争を勝ち抜いてきた米国系航空会社に対して不利になり、欧州路線も同様に、規制緩和で強化された欧州の航空会社や新興航空会社に押されて撤退を余儀なくされた。

 このように路線網を維持できなくなり、2007年1月にはスターアライアンスを脱退することとなった。さらに、2005年に会社更生法の申し立てを行い、実質的に倒産した。2006年には、

・VRG Linhas Aereas社
・Flex Linhas Aereas社

の2社に分割して再建を試みたが、Flex Linhas Aereas社は2010年に運行を停止してしまった。

 VRG Linhas Aereas社はヴァリグの名を引き継いで運航を続けていたが、同年3月に新興航空会社のゴル航空に買収され、単独会社としての存続は難しくなった。その後もゴル航空傘下で国際線を中心に運航を続けたものの、リーマンショックやさらなる競争の激化により、2014年にはヴァリグ・ブラジル航空のブランドが廃止され、80年以上の歴史に幕を閉じた。

LATAM誕生の裏側

LATAMブラジルのウェブサイト(画像:LATAMブラジル)

LATAMブラジルのウェブサイト(画像:LATAMブラジル)

 ヴァリグ・ブラジル航空の没落後、ブラジルの事実上のフラッグキャリアはTAMブラジル航空に移行した。同社は国内線や南米だけでなく、北米や欧州にもネットワークを拡大し、2010年にはスターアライアンスに加盟することで、ヴァリグ・ブラジル航空とほぼ同じ役割を果たすことになった。

 しかし、2010年にチリを拠点とするLANグループと合併し、以降はLAN航空と同じワンワールドに加盟することとなった。会社名は2016年以降LATAMに変更された。さらに、2019年前後には経営に苦しみ、LATAMはスカイチーム陣営のデルタ航空からの出資を受けた結果、翌年にはワンワールドを脱退することになった。

 その後、コロナ禍に突入し、2020年5月には米国の連邦破産法第11条を申請することになった。一方、ヴァリグ・ブラジル航空を買収したゴル航空もコロナ禍の影響を受けて負債が増加し、2024年1月には連邦破産法第11条の適用を申請した。

 また、隣国コロンビアの大手航空会社アビアンカのブラジル子会社も2020年7月に破産してしまった。伝えられた3社のなかで、LATAM航空とゴル航空は運航を続けているものの、経営基盤の脆弱(ぜいじゃく)さが報じられ、安定感がない状況となっている。

40年の定期便の終息

サンパウロ(画像:写真AC)

サンパウロ(画像:写真AC)

 日本からブラジルへの路線は、ヴァリグ・ブラジル航空が撤退した後も、JALがニューヨーク経由でサンパウロまで運航していた。しかし、同社が経営破綻したため、2010年に運航が停止され、40年以上続いた日本とブラジルの定期航空便の歴史に幕を下ろすことになった。

 現在、日本とブラジルの間は、ビザが比較的取りやすいカナダや欧州、2000年代以降に路線網を拡大したドバイやドーハなどの中東、さらにはエチオピアを経由するのが主流となっている。ただし、直行便の復活に向けた動きも見られている。

 かつて運航していたJALは、2014年4月に経営再建を完了し、B787を使ってサンパウロ線を復活させる構想を持っていることを共同通信のインタビューで明らかにした。また、ブラジル側でも、2016年にLATAM航空が合併した際、当時の日本支社長が

「遠い将来」

としつつも日本への就航に前向きな姿勢を示していた。

 これらの構想は2024年現在も実現していないが、航続距離がさらに伸びれば、成田空港または羽田空港からサンパウロやリオデジャネイロ行きの南米直行便を再び見かけることができるかもしれない。

直行便復活の期待

1995年、リスボン・ポルテーラ空港を出発するボーイング767-200ER型機(画像:Pedro Aragao)

1995年、リスボン・ポルテーラ空港を出発するボーイング767-200ER型機(画像:Pedro Aragao)

 ヴァリグ・ブラジル航空は、世界の航空会社のなかでも古い歴史を持ち、南米最大規模の航空会社として知られている。

 しかし、名門であっても、経営腐敗が進むなか、他社に勝る競争力を持たなければ、あっという間につぶれてしまうこともある。これは航空会社経営の難しさを示すひとつのエピソードといえる。

 また、ヴァリグ・ブラジル航空が長年運航していた日本とブラジルの直行便は、その運航距離や所要時間によって、多くの日本人に

「旅情」

を与えていた。地球の裏側、ブラジルへの路線が再び復活することを願って、本稿を締めくくりたい。

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