神戸牛と近江牛の真実! 「交通革命」が生んだ伝説のブランド牛物語をご存じか

神戸牛として売られていた「近江牛」

和牛(画像:写真AC)

和牛(画像:写真AC)

 神戸牛や近江牛などの、有名な銘柄牛。現在の銘柄牛は血統や産地や肉の等級等によって厳格に定義されているが、かつての銘柄牛の定義は曖昧ででたらめだった。

 現在の近江牛は滋賀県内で飼育されているが、明治時代初期の滋賀県産の牛は、近江牛ではなく、

「神戸牛」

の名で売られていたのだ(瀧川昌宏『近江牛物語』)。

 明治時代中頃になると近江牛は神戸牛から独立、銘柄牛の地位を確立していくが、この明治時代の神戸牛と近江牛のブランド確立には、交通機関の発達が深く関係していた。

牛肉食をリードしていた江戸・東京

方外道人 江戸名物詩。方外道人『江戸名物詩初編』より(画像:国会図書館)

方外道人 江戸名物詩。方外道人『江戸名物詩初編』より(画像:国会図書館)

 現在は、

・東日本:豚肉食文化
・西日本:牛肉食文化

とされているが、明治時代初期に牛肉食文化をリードしていたのは東京であった。

 農商務省編『農商工概況 農業部・水産部』によると、1886(明治19)年におけるひとり当たり牛肉屠畜(とちく)量は、東京の約6斤に対し

・大阪:約3斤
・京都・兵庫:約2斤

つまり東京ではひとりあたり大阪・京都・兵庫の2、3倍の牛肉を消費していたのだ。

 東京で牛肉食が盛んになった理由は、江戸時代の江戸で既に牛肉食が行われていたからだ。江戸に住む各藩の藩士への贈答品として、彦根藩(現在の滋賀県の一部)の牛肉のみそ漬けがあり、これを江戸の町人が食べるようになった。

 彦根市編『彦根市史』によると、1807(文化4)年には既に江戸の町人が彦根産の牛肉を食べていたらしき記録がある。

 1830年代には日本橋室町に牛肉専門店「近江屋」が存在し、酒のさかなとして牛肉を販売し江戸名物となっていた(方外道人『江戸名物詩初編』)。近江屋という名前からもわかるように(彦根藩は近江国 = 現在の滋賀県の一部)、彦根産の牛肉のみそ漬けを売る店であったらしい(飯野亮一『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼』)。

 武士階級に薬食として広がっていた牛肉に対し、江戸の町人が興味をもち、ついには町人向けに販売されるようになったのだ。

 幕末になると江戸町人の牛肉食はますます盛んになり、彦根産牛肉を売る店がさらに4店舗開店(彦根市編『彦根市史』)。1866年には、牛肉を売るだけでなく、牛肉料理や西洋料理を出す店も江戸中に増殖していた(斎藤月岑(他)編『武江年表』)。

徒歩で輸送されていた滋賀県産の牛

生の牛肉(画像:写真AC)

生の牛肉(画像:写真AC)

 さて、牛肉料理や西洋料理を提供するとなると、みそ漬けではなく生の牛肉が必要となる。当時は冷凍冷蔵輸送技術が存在しないので、生きた牛を江戸/東京に持ち込んで屠畜する必要が生じてくる。

 当時の牛肉は、現在のような食肉用に飼育された牛ではなく、農耕用の牛を食用に転用していた。ところが東日本では牛ではなく馬を農耕に使うことが多かったので、生きた牛は西日本の農村から輸送しなければならなかった。

 最初期の彦根/滋賀県産の牛は、東海道を徒歩で輸送したそうだ(瀧川昌宏『近江牛物語』)。なぜ船を使わなかったかというと、当時の木造帆船は輸送期間の計算ができなかったため。

 天候まかせ、潮まかせの木造帆船は、風がないだら速度がでず、嵐になれば港に避難しなければならない。到着に何日かかるのかがわからないのだ。

 米や酒ならばともかく、牛は生き物である。毎日大量の飼料を食べなければ飢えてしまう。ところが港で飼料を調達できるとは限らなかったのである。

 その点、東海道を徒歩で運ぶならば、ある程度日数の計算もできるし、なによりも馬が行き来できるように馬用の飼料が各宿場に準備されている。そのために帆船を使わず徒歩で輸送したのだ。

 やがて東海道を東に運ばれる牛の数も増大し、1877(明治10)年頃には牛専用の「牛宿」が各宿場に整備されるようになる。

蒸気船が生んだ神戸牛ブランド

神戸港(画像:写真AC)

神戸港(画像:写真AC)

 幕末になると蒸気船が発着できる港が整備されるようになる。横浜や神戸が開港したのだ。そして開港地周辺の外国人居留地向けに、牛肉を提供する必要も生じてきた。

 蒸気船が就航すれば、天候や潮流にかかわらず一定期間での輸送が可能となる。輸送期間が明確になれば、積み込むべき飼料の量も確定するので、生きた牛の輸送が可能となる。

 こうして蒸気船の発着地、開港した神戸で購入された牛が、同じく開港した横浜に輸送されるようになった。そのために横浜の外国人の間でコウベビーフの名声が高まり、神戸牛のブランドが確立したそうだ(神戸市編『神戸市史 本編各説』)。

 ところが神戸から送られた牛の多くは神戸生まれではなく、兵庫県北部の但馬地方の牛。その後牛肉食が盛んになると但馬地方の牛も不足するようになり、西日本全域から農耕牛が集められ、神戸牛として横浜に送られるようになった(神戸市編『神戸市史 本編各説』)。

 つまり神戸牛とは神戸産の牛のことではなく、

「神戸から蒸気船で送られた牛」

のことだったのである。なので、彦根/滋賀県産の牛も、横浜や東京では神戸牛の名で消費されたのだ。

鉄道が生んだ近江牛ブランド

東海道本線(画像:写真AC)

東海道本線(画像:写真AC)

 近江牛が神戸牛から独立し、東京で名声を博すようになったのは、牛疫流行がきっかけだった(瀧川昌宏『近江牛物語』)。

 1893(明治26)年に牛疫が発生すると、感染拡大を恐れた明治政府は、県をまたいでの生きた牛の移動を禁止することとなる。つまり、生きた牛を神戸に運び、横浜に輸送することができなくなったのだ。

 一方で、屠畜した牛の枝肉ならば、感染の恐れがないので県をまたいで輸送することができた。そして牛疫の4年前には、

「東海道本線」

が新橋神戸間に開通していた。こうして、鉄道による枝肉輸送が始まったのである。

 神戸港ではなく滋賀県の八幡駅(現・近江八幡駅)から発送された牛は評判となり、その発送地にちなんで江州牛あるいは近江牛とよばれ、東京でのブランドを確立していったのである。

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