荒川の水運が江戸経済を支えた理由とは? 1629年の大工事と物流革命の舞台裏

江戸を支えた水運

荒川水運で運行していた船で、これは明治末期のもの。高瀬船と呼ばれた帆船である。江戸時代に運んだ荷物は主に米俵だった(画像:明治・大正・昭和の郷土史11/国立国会図書館)

荒川水運で運行していた船で、これは明治末期のもの。高瀬船と呼ばれた帆船である。江戸時代に運んだ荷物は主に米俵だった(画像:明治・大正・昭和の郷土史11/国立国会図書館)

 荒川の水運は現在の埼玉県から年貢米や特産品を江戸に運び、江戸からは肥料や塩を積んで戻ってくる、流域の人々にとってなくてはならない存在だった。

 荒川は山梨・埼玉・長野の県境にある甲武信岳(こぶしだけ。標高2475m)を源流点とし、埼玉を南東に横切って東京湾に注いでいる。

 しかし、江戸時代初期は現在とは違った流路だった。

 かつての荒川はもっと東にあり、利根川と合流し江戸(東京)湾へ至っていた。これを1629(寛永6)年、大里郡久下村(現在の埼玉県熊谷市)で流路を西へと変える瀬替工事を行った。のちに

「荒川の西遷」

と呼ばれる一大事業である。指揮をとったのは、江戸幕府の関東代官・伊奈忠治(ただはる)だった。

 荒川西遷より少し前から、利根川の流れを東に瀬替する工事も開始されていた。これが「利根川の東遷」だ(「江戸を支えた水の道! 「利根川水運」の興亡と商業革命とは【連載】江戸モビリティーズのまなざし(22)」2024年7月7日配信分参照)。

 東遷と西遷で利根川と荒川が分離されたことによって、水害がこれまでより抑制され、また両河川を利用した水運が発達していく。

「荒川の西遷」で新たなルート確保

昭和初期に撮影された高尾河岸場跡。すでに運輸は鉄道にとって代わり、繁栄していた頃の面影はない(画像:北本市教育委員会文化財保護課)

昭和初期に撮影された高尾河岸場跡。すでに運輸は鉄道にとって代わり、繁栄していた頃の面影はない(画像:北本市教育委員会文化財保護課)

『新編武蔵風土記稿』(1804年~1829年頃成立の関東の地誌)によると、荒川上流は「岩石高く水激し」――ゴツゴツした岩が多く、かつ流れが激しかったという。つまり上流は本来、水運に向いていなかった。

 このため、江戸時代より前はもっぱら木材の輸送に使われるだけだった。戦国時代に関東を支配していた北条氏が江戸へ木材を運んでいたことが、鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)の城主・北条氏邦の書状から読み取れる。何本もの木材をひもで縛って筏(いかだ)を造り、人が乗ってかじをとって下流まで流したのである。

 江戸期に入ると、西遷によって緩やかな下流域へとつながるルートが完成し利便性がよくなったことから、年貢米やさまざまな商品も輸送するのが容易になった。

『新編武蔵風土記稿』は1669(寛文9)年、平方村(埼玉県上尾市)に船運に関する法令を告知する高札(掲示板)が立っていたことも記載しており、17世紀中頃には取り扱う物資や運賃、船の大きさや人足の人数などに関する規定が、細かく定められていた様子を伝える。

 また1690(元禄3)年、八代(埼玉県幸手市)・五反田(同鴻巣市)・高尾(同北本市)に幕府城米(幕府直轄地から送られる米)を回送するための河岸(かし/港、船の発着場)ができ、運送拠点として整備されていたこともわかる。

河岸から運ばれたさまざまな荷物

溪斎英泉画『木曾街道 蕨之驛 戸田川渡場』に描かれた中山道の第2の宿場・蕨宿の戸田川渡場。戸田川とは荒川の戸田付近の別称(画像:国立国会図書館)

溪斎英泉画『木曾街道 蕨之驛 戸田川渡場』に描かれた中山道の第2の宿場・蕨宿の戸田川渡場。戸田川とは荒川の戸田付近の別称(画像:国立国会図書館)

 荒川流域にはどのような人々が集まって水運に従事していたのか、規模の大きかった河岸を例に解説しよう。まず高尾河岸である。

『新編武蔵風土記稿』では高尾から江戸までは33里(1里約4kmとして132km)、積む荷を取り扱う河岸問屋が3軒あったとある。運賃は江戸まで6日を要して米100石を運ぶ場合、その3.1%(『近世関東の水運と商品取引』丹治健蔵、岩田書院)。

 1石を現在の米の価値に換算して約5万円(『江戸の家計簿』磯田道史監修、宝島社)とすると、100石は約500万円、3.1%だと15万5000円となる。

 運賃を払うのは、年貢米を納める農民たちだった。高尾の近隣には20か村に及ぶ集落があり、かつ東に鎌倉街道と中山道が通っていたため、陸路を使って農村から高尾まで米を運び、問屋に運賃を払った。問屋はその際の付帯事項として、米俵がぬれたり緩んだりしないように念入りに取り扱うなどを誓約した。

 このように、荒川の水運が盛んになった背景には、荒川流域の街道に多くの農村が隣接するメリットがあったことがあげられるだろう。

 また、船荷は米に限らなかった。1854(安政元)年には大量の酒を船積みした記録がある(『酒井家文書』鴻巣市編さん室)。荷主は笠原村(埼玉県鴻巣市)の常盤屋藤兵衛という商人で、藤兵衛は酒のほかにも奈良漬や酒かすなども出荷している。そして江戸から戻るときには、四国産の塩を船に積んできた。

 次にさらに下流にあった平方河岸を見てみよう。ここでは染料として使われる紅花(末摘花)が多く船積みされた。紅花は平方の特産物だった。

 平方の紅花は秋に栽培を開始するのが特徴で、対して他地域は春からだった。「早場」「早庭」(どちらも「はやば」と読む)の紅花と呼ばれ、早く収穫できたことから京都の染め物問屋から注文が殺到し、高値で取引できた。

 価格は一駄(馬1頭に負わせる荷物の単位)で80両。他地域は51~60両だったという(『上尾歴史散歩』上尾市)。そうした紅花は江戸に着くと、さらに海上輸送で大坂に運ばれ、その後、京都に行った。

 なお船運は天候に左右されやすいため、予定通りに行かないこともあった。平方に残る記録には、通常は5~6日で江戸まで運べるが、大雨で増水したときは20日を要するので了承してほしい旨なども付記されている(『上尾市文化財調査報告書第九集』)。

 このほか、平方より下って三つ目の河岸・羽根倉(埼玉県志木市)では竹・蒔(まき)・醤油などの日用品を船積みし、江戸で肥料・石材・塩などを積んで戻ってきた。

 ここにある、江戸から帰ってくる際の荷物のひとつ「肥料」はとても重要だ。荒川流域の河岸は、江戸から戻る船に積まれた肥料を各地に輸送する中継 地にもなっており、例えば戸田河岸(埼玉県戸田市)には「肥船」と呼ばれる肥料専用の輸送船が常備されていた。近隣の村まで含めると60艘(そう)近くの肥船があったという(『武蔵国郡村誌』)。

 船で米や特産品を江戸に運び、塩や肥料を積んで戻ってくる。荒川の水運は流域に住む人々にとって仕事であると同時に日用品も手にできる、なくてはならない存在だったのである。

川越舟運の船頭は世襲

 荒川の水運は、江戸にとって大切の水路をもうひとつ育んだ。新河岸川を使った「川越舟運(しゅううん)」である。

 新河岸川は埼玉県川越市の東にある伊佐沼を起点とした全長34.6kmの河川で、かつては現在の埼玉県和光市新倉で荒川に合流していた(明治末~昭和初期に改修され現在は違う流路となっている)。

 この川を水運として使うようになったのは1638(寛永15)年、川越の仙波にある仙波東照宮が火事によって焼失し、再建のため資材を江戸から運んだことが始まりだったという。
 東照宮は徳川家康を祭った神社で、特に仙波は久能山・日光と並ぶ「三大東照宮」とされていたため、焼失は看過できなかったのだ。

 その後、川越藩主だった松平信綱が、新河岸川の水運によって江戸と川越を連携させ、同地をもっと繁栄させようと計画し、正保年間(1644~)に整備を始めたとされる。

 信綱は新河岸川に「九十九曲り」といわれるほど屈曲した箇所を造る工事を敢行し、これによって船の運航に適した水量を維持しようとした。流路をできるだけ蛇行させるのに腐心したという。

 こうして完成した水路に、のちに「川越五河岸」と呼ばれる扇・上新・牛子・下新・寺尾の河岸が設置され、水運の拠点として栄えていく。

 川越舟運の船は江戸までの運行日数によって、「並船」「急船」「飛切(とびきり)船」などに分かれていた。並船は江戸まで往復7~8日の定期船の荷船。急船は3~4日で往復し、飛切船は特急だった(『川越舟運』斎藤貞夫/さきたま出版会)。

 船荷は米俵なら250~300俵まで。麦・穀物、さつまいもなどの農産物や木材もあった。江戸からは肥料や塩を積んで帰ってきた。

 荷を積まない乗客専用の屋形船「早船」もあった。早船は天保年間(1831~)から定期便となり、夕方に出発し新河岸川→荒川→隅田川と経由して明け方に江戸の浅草に到着することから、「川越夜船」といわれ庶民に人気だった。

 さて、1895(安政6)年の記録によると、新河岸川沿いには83人の船頭がいたとある(斎藤家文書『船数取調御船方書上控』)。

 前述の斎藤貞夫は、一人前の船頭になるには「棹(さお)で三年、櫓(ろ)で三月」といわれるほど、技術習得に年月を要したという。このため、船頭は主に世襲だった。
 棹(さお)と櫓(ろ)の両方を使いこなすのは、新河岸川では棹を駆使し、荒川に出ると櫓でこぐためだったという。

 船頭には順守すべきルールも多くあった。「公用(幕府・大名に届ける荷物)の優先」「船道具の点検」「火の用心」「荷物の盗難の取り締まり」「難破した際の対処法」など、多岐にわたっていた。

 こうした規定は条文化されていた。…ということは、違反した場合は何らかのペナルティーがあったと考えられる。

 船頭は誰でもできる容易なものではなく、熟練と慎重さを要する“職人”の仕事だったのである。

●参考文献
・近世関東の水運と商品取引 丹治健蔵(岩田書院)
・上尾歴史散歩(上尾市)
・川越舟運 斎藤貞夫(さきたま出版会)
・利根川荒川辞典 利根川文化研究会編(国書刊行会)

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